第65話 下弦の月(ローズ)

 ローズがフェルディナンと同居をするようになって5か月が過ぎた頃、フェルディナンは26歳の誕生日を迎えた。


 その日は、両家の家族が勢揃いしてお祝いをすることになった。

 フェルディナンの両親、兄のステファン家族にローズの両親と2人の兄家族、叔父のクリストフが集まってくれた。姉のアントワネットは第3子が生後数か月ということもあり出席は叶わなかったけれど、たくさんの贈り物を届けてくれた。


 フェルディナンは東部のペルナンドの地から、今夜戻ってくることになっている。


――数週間前。

 かの地で大規模な土砂災害が起き、復興支援部隊を派遣するかを決めるため、フェルディナンは現地入りすることになった。

ペルナンドの地。初対面の舞踏会でフェルディナンに声を掛けてきた妖艶な黒髪の美女を思い出す。人伝に、彼女は有名な踊り手だと聞いた。被災地を周って慰労したりもするのだろう。


(彼女も同行するのかしら……)

 

 胸の奥がズキンと痛む。


 加えて、土砂災害が起きたばかりの地へフェルディナンが赴くことに、ローズは酷く心を乱された。軍人だったリョウが死んだのは、戦地ではなく被災地だったから。


 玄関先でフェルディナンを見送る使用人達の列にローズも加わるが、言いようのない不安が去来する。


「フェルディナン様……」

「ローズ? どうした、寂しいのか?」

「……」

「ふっ。すぐに帰ってくるから、そんな顔するな」

フェルディナンは軽い調子でそう言うと、ローズの頬を指の甲でそっと撫でる。


「無事の帰還を、お祈りしています」

自然と声が震えてしまう。


「なんだ? 大袈裟だな。今回の任務は視察だぞ?」

「でも、被災地ですから」

「心配するな。俺は、貴女を残して逝ったりはしない」


 フェルディナンはローズの思い詰めた態度に驚きつつも力強くそう言うと、ローズの前髪をくしゃっと撫でて、頬に口付けを落とした。


「……約束ですよ?」

「ん。……なんだ? 見送りのハグは、してくれないのか?」


 重たくなってしまった空気を茶化すようにフェルディナンが両腕を広げてそう言うから、ローズはわざと子どもみたいに思いっきりフェルディナンの胸元に飛び込み、首に両腕を巻き付けてギューッと抱きしめた。



――皆で食前酒を嗜みながら話に花を咲かせていた頃、フェルディナンが戻って来たとの知らせが入った。


 ローズが慌てて玄関まで出迎えに行くと、そこには軍服を着たままの酷く疲れた様子のフェルディナンがいた。


「フェルディナン様、お帰りなさいませ。ご無事で、何よりでした」

「ああ、遅くなって悪かった」

 首元を緩めながら、素っ気なくそう答える。


 ティボーが侍女へ急ぎ湯浴みの準備を整えるよう指示し、ローズはフェルディナンへ薬膳茶を煎じるため、2階へと向かう。


 フェルディナンの私室に入ると、フェルディナンは気怠そうにソファーに体を預けていた。


「酒酔いと疲労回復に効くお茶です。ちょっと苦いですが効果てきめんですよ」

そういってカップを差し出す。

「ああ」

チラリとティーカップに視線を落とすも、一向に飲む気配がない。


「……大変な任務だったようですね」

「ああ」

 どこか投げやりな感じの返事が返ってくる。


 体調が優れないのかと、身体を屈めてフェルディナンの瞳を覗き込んだとき、女性用の香水の匂いが鼻をついた。

 

「……どこかに寄られてきたんですか?」

「ん? ああ」

「そうですか。……任務から戻って来たその足で、女性のもとへ?」

「癒しは必要だろう?」

「私だって、フェルディナン様を癒して差し上げられますよ?」


(鍼灸だって、マッサージだって得意だし……その気になれば、膝枕だって)


「ふっ」

 フェルディナンは鼻先でふっと笑うと、突然ローズの腕をグイっと引き寄せた。


「そうやって、男を誘うのか?」

 野性味溢れる瞳の中に、獲物を捕食する時のような鋭い光が灯る。


「え?」

「貴女の心には……誰がいるんだ?」

「……」


(リョウのこと? でも、どうして今?)


 ローズのラベンダー色の瞳がゆらゆらと揺れる。動揺して、思わず目を逸らす。


「っふ。ほんとに正直だな。貴女は……(その男に抱かれたのか?)」

 フェルディナンが不躾に顔を近づけてきて、耳元で何かささやくが、うまく聞き取れない。


「え?」

「やはり無理だな。ローズを抱く気にはなれない」


「え? どういう――」


 その時、湯浴みの準備ができたと声がかかった。


「それじゃあ……私は先に食堂に行っています」


「っクソッ。正直すぎるだろっ。はぁ――、最低だな、俺は」


 できるだけ自然な笑顔を保ったまま後手でフェルディナンの私室のドアを閉め、深く息を吐く。


『ローズを抱く気にはなれない』

 先程フェルディナンに言われた言葉が、頭の中で反響する。


 これまでの婚約者にも似たようなことは言われてきたが、失礼だとは思っても悲しいと思ったことはなかった。

 けれどフェルディナンにそう言われたとき、冷たい風が心の中を吹き抜けたような痛みが走った。


(妹以上には大事にされても、女性として愛せるかどうかは、また別の話だものね)


 一度私室へ戻り、ベランダへ出る。夜風で頭を冷やす。


「大丈夫。嫌われてはいない。まだ、ここにいることを許されてる。大丈夫」

 頬を叩いて気合を入れると、家族が待つ食堂へと向かった。


 その後は、湯浴みを終えたフェルディナンも合流して、みんなで賑やかに食事をした。


 それぞれがフェルディナンに誕生日の贈り物をする中、ローズは繊細な切子調のデザインが施されたブランデーグラスを手渡した。本当はペアグラスを贈りたかったけれど、自分のお給料では、一つを買うので精一杯だった。


 大家族での誕生日会は大いに盛り上がり、散会するのが名残惜しかったが、フェルディナンが地方から帰宅したばかりということもあり、日付が変わる頃にはお開きとなった。


 両親や兄のフィリップとレオポルド、叔父のクリストフが次々にローズを抱きしめ、頭に瞼に頬にと雨のようにキスを降らせていく。ローズはフェルディナンの家族が軽く引いているのを背中で感じながら、ハグでそれらに応えていく。


 公爵はローズの額にキスを落とし、ヴィクトワール夫人はまたお茶しましょうねと言って優しく抱きしめてくれた。


 お互いの両親を見送るローズの背中を見つめていた3歳のシモンが、叔父であるフェルディナンのズボンをつんつんと引っ張る。


「おじうえ、ろーずおねえさま、なんだか、かなしそうです」

「ん? ああ。家族との別れが寂しいんだろう?」

「ううん。ごはんのときも、わらってたけど、ちょびっと、ないてるようにみえました」

「っ……」


 シモンはそう言うと、ローズに駆け寄り両手を挙げて抱っこをせがんだ。ローズが慣れた手つきで優しくシモンを抱き上げると、シモンはローズの前髪をぐちゃぐちゃっとして、「いいこ、いいこ。はやくげんきになりますように」とおまじないをかけた。


 義兄家族も見送り、玄関先にはフェルディナンとローズだけが残された。


 ローズはくるりと振り返ると、見送りのために並んでいた使用人に向かって

「今夜は本当にありがとう。とても素敵な食事会だったわ」とお礼を伝え、フェルディナンに「お誕生日、おめでとうございます。ゆっくりお休みください」と言うと、私室へと戻った。


 寝支度をしについてきたターニャへ、「疲れただろうから、今日はもう下がっていいわ」と告げると、寝室のドアを閉めた。


 胸に、我慢していた痛みが押し寄せる。


(これまで、それなりにフェルディナン様の婚約者をうまく演じてこれたと思う。

『ローズを抱く気にはなれない』なんて、想定内の言葉だ。今さら、傷つくことでもない。

 でも、どうしてこんなに心が苦しいんだろう? たぶん、ちょっぴり期待してたんだ。女性として愛され、幸せな結末を迎えることを――)


 フェルディナンと愉しい夜を過ごしたという、妖艶な黒髪美女の姿が瞼に浮かぶ。

 

(私じゃ、駄目なんだ……)


 そう思うと、また胸が痛んだ。この感情は危険だ、深入りする前に身を引かなければ、と直感が訴えていた。


 心の痛みを癒すように、温かいお風呂に入った。特別に、婚約祝いに姉が贈ってくれた薔薇のオイルも入れてみた。

 

 心が弱っているときほど、自分に優しくする。

 自分はいつだって、自分の味方でいる。


『貴女の心には……誰がいるんだ?』先程の言葉がリフレインする。

 どうして突然あんなことを聞いてきたのかはよく分からないけれど、明日、久しぶりにリョウへ会いに、夕日の見える丘に行ってみようと思った。

 

 お風呂からあがり、ベッドに入ったが、なんとなく寝付けそうになくてベランダへ出る。早春の気配が感じられるものの、外で寝るにはまだ寒すぎる季節だ。

 けれどローズは、ベランダのソファーで毛布にくるまり、夜空でひときわ輝く青星を見つめながら眠りについた。


 リョウが亡くなったのは、令月の寒い日だった。

 冴えきった夜空に鏡のように澄んだ月が浮かんでいて、まるで鋭い刃物のように冷たく輝いていた。


 その夜の月も、リョウが死んだ日と同じ、下弦の月だった。

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