第58話 優しい嘘
――屋敷からの知らせを受け、急ぎ帰宅してローズの寝室に入ると、薄暗い部屋の中で寝入ってるローズの姿が目に入った。
胸の辺りが呼吸に合わせて上下しているのを確認して、ようやく安堵する。いつもよりも心なしか小さく弱々しく見えるのは、頬に涙の跡が残っているからだろうか。左腕に巻いた白い包帯が、痛々しい。
(また、傷つけてしまった)
医師の話では傷は浅く、傷痕も数週間もすれば綺麗に消えるだろうとのことだった。それよりも精神的なショックが大きいだろうから、暫くは心のケアが必要だと言われた。
その後、両親から説教という名の愛ある指導を受け、解放された頃にはすでに深夜をまわっていた。先程、母であるヴィクトワールと交わした会話の内容を反芻する。
「ローズちゃんね、今回の事件の責任の一端が、自分にあると思い込んでいるのよ」
「っ、彼女は無関係です」
「分かっているわ。でもね。彼女は、自分があなたの婚約者として相応しい女性だったらこんな事件は起きなかった、と思っているのよ」
「なっ……」
「あなたの婚約者として相応しい女性になるために、必要な教育を施してほしいと懇願されたわ」
「母上は何と答えたのですか?」
「もちろん、いつでも
「それは……」
「彼女ね、私に教えを乞うた後、慌てた様子で『婚約の経緯は弁えているから、ただ、その役割を演じている間はせめて公爵家に迷惑がかからないようにしたい』って言ったのよ? わたし、それを聞いて何だか居た堪れなくなってしまって――」
いつも強気な母の瞳が揺れていた。
「私の至らなさ故です。母上にもご心労をおかけして申し訳ありません」
「ローズちゃんはしっかりしてても、まだ18なのよ? 侯爵から託されたのでしょう? しっかり守ってあげなさい」
「はい」
「それから、酷くショックを受けた様子だったから、彼女が望むのであれば、しばらく同じ寝室で寝てあげるといいわ。分かっているとは思うけれど、手を出すのはダメよ? ティボーにも貴方の部屋にベッドを追加しておくよう伝えておいたから。同居は許したけれど、監視役がいるということを、ゆめゆめ忘れないようにね」
「……はい」
――両親から解放されたあと、再びローズの寝室へ向かい、ドアをノックする。
「……」
返事がない。
寝ているんだろうと思いそのままドアを開けローズの寝室に入るも、ベッドの上にローズの姿が見当たらない。
ベランダにいるのかと思い外に出るが、ローズが羽織っていたであろう温もりが残るガウンだけがソファーに残され、本人の姿がどこにも見当たらない。
「っ、ローズ!? ローズ? どこにいるんだ?」
何度も名前を呼ぶが、返事はない。
まさか、さらわれた?
まさか、屋敷から出て行った?
まさか、……飛び降りたりしていないよな?
普段は冷静なフェルディナンだが、今夜ばかりは思考がどんどん悲観的な方へと流れていく。冷や汗が背中を伝ったその時、部屋の中からカタンという音がして、咄嗟に音がした方向に走り、思い切りドアを開けた。
――眠りから目覚めたローズは、蒸しタオルで身体を清めていた。寝ている間に変な汗をかいたのか、体中がべとべとしている。
ようやくスッキリして、寝間着を手に取ろうとしたその時――
急にバタンと乱暴に浴室のドアが開かれ、一糸まとわぬ姿でフェルディナンと対面することになった。
「ひぇっ!? フェ、フェル兄様!?」
十分に間があった後に、
「!! っ、すまないっ!!」
と言われ、再びドアが閉められた。
「うっ……今の、完全に裸を見られたわよね?」
なんとなく気配でフェルディナンが扉の向こうにいることを感じたローズは、
「フェ……フェル兄様? 何か……御用でしたか?」
「ローズの無事が確認したかったんだ。いきなり開けたりしてすまなかった」
「今、着替えますから。少しお待ちください」
そう言って、袖口に白いレースがあしらわれた清楚な寝間着を身に付ける。
「……お待たせしました」
後ろ手でパタンと浴室の扉を閉める。
フェルディナンは直立不動で部屋の中央に立っていた。
恐る恐るといった感じでローズのもとへやって来ると、逞しい腕の中にローズの身体を優しく引き寄せた。珍しくフェルディナンがローズの細い肩に顔をうずめる。
「無事で良かった」
フェルディナンの声と手が震えている。
「はい」
「昼間のこと、すまなかった。……傷は痛むか?」
「ちょっとだけ」
「ローズ。……事件のことを聞いて、心の臓が止まるかと思った。本当に、無事でよかった」
「うん……」
フェルディナンはローズの瞳を覗き込むように身体を屈めると、両方の手のひらで彼女の両頬を包んで、額から瞼、鼻先へとキスを落としていって、今度は強く抱きしめた。
(手……冷たくなってる)
いつもは人より体温が高いフェルディナンなのに、その夜ローズを包んでくれた彼の手は、指の先まで冷たくて、彼もまた傷ついたのだということが痛いほど伝わってきた。
子ども時代、親に十分甘えられなかった反動なのか、今夜はフェルディナンに甘えたいと思った。彼の罪悪感を利用するようで少し気が引けたけれど、怪我をして弱気になっているときくらい、許されるだろうと。
それから一週間、ローズは学校も勤務医の仕事も休むことにした。
規則正しい生活をし、身体に良い食事をとり、ヴィクトワール夫人とお茶をしながら色んなことを教えてもらい、毎晩フェルディナンに薬を塗ってもらって、夜は防犯という名目で添い寝までしてもらった。
フェルディナンの寝室の隅に設けれたベッドに気付いたローズが、あれは何かと尋ねたが、彼からは「気にしなくていい」と言われた。「添い寝は母から許可を得ている」とも。
ローズは彼の優しい嘘に、目を瞑ることにした。
毎晩向かい合ってベッドに横になり、他愛もない話をして、眠りにおちる直前に額や瞼に口付けられる。太くて逞しい腕で身体を包んでもらって、フェルディナンの高い体温を感じながら眠る、ただそれだけの行為に、ローズはひどく満たされた。
それからは、フェルディナンやティボーと相談しながら、重要なものだけを選んで二人で夜会に出かけるようになった。
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