第57話 未婚令嬢の総意
本格的な冬が到来し、寒さも厳しくなってきた頃。
その日は珍しく学校も診療所もお休みだった。
社交シーズンが始まったというのに、あの夏夜の舞踏会以降、フェルディナンと一緒に出かけたことはない。婚約を交わしたとき、必要最低限の社交さえしてもらえれば良いと言われたことにすっかり甘えてしまっている。公爵家の執務には一切関わっていないため、フェルディナン宛てにどんな招待状が届いているのかさえ把握していない。
(もしかして……私が過労で倒れたりしたから、気を遣わせているのかしら)
そんなことを思いながらフェルディナンの邸宅で庭の薬草畑の手入れをしていたら、午後になって先触もなく一人の令嬢がやってきた。国防軍の事務仕事に携わっているファイエ侯爵令嬢とのことだった。
本来ならば、いきなり訪ねてくる来訪者に対応する必要はないのだろうが、フェルディナンは留守だし、もしかすると任務に関する急を要することなのかもしれないと考え、応接室へ通した。念のため、ティボーが部屋の隅で控えてくれている。
現在対面している令嬢とは、やはり面識がなかった。
「本日は、どのような御用件でしょうか?」
「先触れもなく参りましたこと、大変申し訳ございません。ですが、どうしてもローズ様に直接お尋ねしたいことがあり、こちらへお伺いしました。
不躾ながら単刀直入にお伺いいたします――ローズ様は、妻としてドゥ・ヴァンドゥール将軍を支える覚悟をお持ちでいらっしゃいますか?」
「それは……」
「わたくしは、将軍を公私共にお支えしたい、その一心で貴族学院を卒業した後、国防軍で事務方の仕事に就き日々精進してまいりました。ローズ様を舞踏会で一度お見かけしましたが、率直に申し上げて、将軍の妻はおろか婚約者になる覚悟すらないようにお見受け致しました」
「わたくしたちの婚約は、王命によるものです。そこに、わたくしたちの意思はありません」
「たとえそうだとしても、最低限の社交マナーすら存じ上げないお方が、どうして将軍の妻を務められましょう? 今シーズンの夜会でも、ドゥ・ヴァンドゥール将軍は将軍職の中で唯一、お一人で参加されていらっしゃいます。それはローズ様が婚約者として、将来の妻として、分不相応だからではないですか?
――将軍のことを慮るのであれば、どうかこの婚約を解消してくださいませ。私は本日一人で参りましたが、これは、この国の未婚令嬢の総意でもあります」
「……たしかに、わたくしがフェルディナン様の婚約者として相応しいかと問われれば、胸を張ってはいと答えることはできません。ですが、婚約の解消は、わたくしの一存で決められるものではございません。どうぞ、その想いをフェルディナン様へ直接お伝えくださいませ」
「ですがっ! わたくしが何回面会を申し込んでも、応じてくださらないのです。ううっ……」
そう言うと、両手を顔で覆って、泣き崩れてしまった。
視線で「どうしましょう?」とティボーに訴えるも、困ったように首を横に振るだけである。
改めて目の前で泣いている令嬢に視線を向ける。
年の頃は20歳前後。よく手入れされた髪の毛に、日になど全く当たっていないと思われる透き通るような白い肌。華奢な身体に、積み重ねてきた淑女教育の長さを感じさせる美しい所作。彼女を妻にと望む男性は、たくさんいるでしょうに。
(これはもう、恋ではなく執着――)
「……申し訳ございません。すっかり動揺してしまいました。……もう、失礼致します」
そう言いながら、令嬢がよろよろと立ち上がった瞬間、彼女の手に鋭く光る短剣が握られていることに気が付いた。
刃先は――彼女の胸元に向けられている。
「危ないっ!」
考えるより先に身体が動き、令嬢の手から短剣を奪いって床に落としたが、奪い取る際、左手前腕の内側に刃先を掠めてしまった。
「っ!」
鋭い痛みが走り、思わずその場に座り込む。
「!! お嬢様、大丈夫ですか? だれか、早くお医者様を!」
ティボーが令嬢を取り押さえながら、短剣をさらに遠くへ蹴る。
「貴女より、私の方がずっと相応しいのにっ……」
絶叫している彼女が、護衛に取り押さえられて部屋の外へ連れ出される。
その後の屋敷はドタバタだった。
医師が到着する前に自分で患部を直接圧迫止血をしながら応急処置をした。
幸い傷を負ったのは利き手ではなかったし、傷も深くなく、縫合処置をするほどではなかった。
かの令嬢は、ここで自殺未遂を図るつもりだったことを後から聞いた。愛する人の邸宅で傷物になれば、罪悪感に苛まれたフェルディナンが責任を取ってくれるかもしれないと考えたらしい。
隣の敷地に住むフェルディナンの両親も、騒ぎを聞きつけすぐに駆け付けてくれた。お義父様はすぐにファイエ侯爵を呼びつけると、それは恐ろしい処分を申し付けた。
令嬢を最低10年間は領地へ幽閉し、今すぐ王都を去ること。今後10年間、社交界に顔を出さないこと。
この条件が呑めなければ、今すぐ彼女を殺人未遂罪で公安部へ突き出す、というものだった。
自殺を試みただけで、ローズへの殺意はなかったはずだけれど、ファイエ侯爵は弁解することもなくその処分を受け入れたという。
ティボーは「申し訳ありません」と何度も頭を下げてきた。
「あんなこと、誰も想定できなかったわ。傷も大したことないんだから、気にしないで」
実際、傷そのものは2週間もすれば修復するだろう。
それよりも、今回の惨劇を招いた発端が自分にもあることにローズは深く心を悩ませた。
(自分がフェルディナン様の婚約者として相応しい女性だったならば、こんなことは起こらなかったのでしょうね……。自覚はなかったけれど、自分の一挙手一投足にみなが注目しているのだ。相応しい女性と思われるには、それなりの努力が必要だったのに。学業と仕事の両立で精一杯で、それを怠ってしまっていた……)
治療を受けて寝台に横たわっていたローズを、ヴィクトワール夫人が見舞いに来た。夫人はベッドの端に腰を掛けるとローズの手を握り、日が傾くまで側にいてくれた。幼い子どものように優しく頭を撫でてもらっているうちに、いつの間にか眠りに落ちた。
――その日の夜。
血相を変えて帰って来たフェルディナンを迎えたのは、彼の両親だった。
お義父様は、かの令嬢がフェルディナンに一方的に恋心を抱いていただけであることを知っていたが、それでも、ローズを婚約者として敬い、尊重している姿を社交の場で示さなかった己の行動が今回の事件を招いたのだと、フェルディナンに深く反省を促した。
口数の少ないお義父様らしく、多くは語らなかったそうだが、
「大事に囲うことだけが、彼女を守ることにつながるとは限らないんだ。そこをよく考えなさい」
と説いたという。
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