第51話 だから言えなかった
「ローズお嬢様。そろそろ、屋敷にお戻り頂けませんか? 旦那様も心配していらっしゃいます」
「ごめんなさい。私がいると、みんなに迷惑をかけてしまうから」
「お嬢様……」
ティボーに心配をかけまいと、わざと明るいトーンで話す。
「午後の診療が始まるから、もう戻らないといけないの。フェルディナン様への報告だけ、お願いね」
「……かしこまりました」
今日の診療が終わり3階にある仮眠室へと戻ったローズは、ドアをぴったりと閉めふぅーっと深い息を吐いた。屋敷を出たあとは、この仮眠室で寝起きしている。
「どうしよう……私がスパイだなんて! 父様やフェルディナン様のご両親はご存知だったのかしら」
とりあえず、スパイ容疑がかけられることになった要因を洗い出して、それを一つずつ潰してフェルディナンに無実を証明していけば、彼の負担は減るのではないだろうか。
それから……万一、公爵家に迷惑をかける事態になれば、すぐに婚約を解消して王都から出ていこう。そう思って、引き出しにしまっている婚約の契約書に目を通す。
第4条 婚約解消
…
3
第4条3項――これは、ローズが自らの希望で追加してもった項目だった。
戦地に赴く以上、医師であっても攻撃対象となりうる。万一、敵方の捕虜となってしまった場合、ヴァンドゥール公爵家に対して法外な身代金の要求がなされたり、王国に不利な形で停戦条件を持ち込まれたりする可能性も否定できない。公爵家やフェルディナンに対する過大な負担を避けるための、ローズなりの配慮だった――表向きは。
もう一つの理由は、ローズ自身がこの婚約を継続できないと考えた場合の逃げ道として用意したものだった。ローズは王立医学アカデミーの学生だから、学生の身分のまま従軍はできない。
しかし、外国の医師免許を持った医師としてならば、本人が希望さえすれば従軍も可能なのだ。
「戦地」の部分を指でなぞる。たったの二文字のその言葉が、とてつもなく重たい響きを持ってローズに圧し掛かる。
机に座って、スパイ容疑をかけられた原因を考えてみるが、全く思いつかない。敢えて挙げるとしたら……
帝国語に精通していること? そんな人、掃いて捨てるほどいるわ。
帝国の軍隊に配属されていたこと? でも軍事機密には一切、触れていない。
うんうん唸っていると、ぎゅるぎゅるとお腹が鳴った。悩んでいてもお腹は空くらしい。
2階にある台所へと降りて、中庭が見渡せるお気に入りの窓際の席に腰を下ろすと、ターニャが帰る間際に手渡してくれたお弁当を開く。いつもながら、公爵家の食事は本当においしい。
(それにしても……私がスパイの容疑者と知ったうえで仕えてくれていた使用人がいたとしたら、公爵家の使用人は本当によく出来た人たちなのだと感心してしまう。だって、みんなとても温かくて親切だったから)
フェルディナンには、ティボーを通じて今日ミレディー嬢がやってきたことが告げれるだろう。
「あぁ、もうっ! 本当に、なんてこと!」
怒りで爆発しそうな頭を冷やすために、中庭へ出た。澄み切った秋夜に輝く孤月を眺めていたら、だんだん頭が冷えてきて、気付いたら落書きがされた外壁のすぐ側に立っていた。
ご近所さんや患者さんのご家族が清掃を行ってくれたおかげで、落書きも意識して見なければ分からないくらい薄くなった。
思わずおでこを壁に付けて、もたれかかる。無機質で冷たい感触が肌を伝う。
子ども達が犯人らしき男を見かけているが、おそらく誰かに雇われた素性の知れない者だろう。黒幕が誰かまでは分からない可能性が高い。誹謗中傷の落書きをした犯人よりも、指示をした人間に怒りを感じる。
けれど、その顔を思い描いて怒りをぶつけることはできない。――自分の無力さにうんざりする。
自分だけが攻撃の対象になるのであれば、耐えられる。いざとなれば、逃げ出すこともできるのだから。
けれど、診療所がその対象となってしまったことに思った以上のダメージを受けてしまった。それに加えて、今日のミレディー嬢の告白……。
(この婚約が、スパイ容疑をかけられた女の監視目的だったなんて――。「お飾りの婚約者」だなんて思っていた自分が恥ずかしい。どれほどの迷惑を彼にかけてしまったんだろう……。
どうやら神様は、王国にある私の数少ない居場所を徹底的に排除したいようだ。これが運命なのだとしたら、足掻くだけ無駄なのだろうか。本格的な冬がやって来る前に、
どのくらいの間、そうしていたのだろう。身体が寒さを感じ始めた頃、いきなり背中が温もりの残る外套で包まれた。びっくりして振り向くと、いつもより穏やかな表情で、少しだけ眉尻を下げたフェルディナンが立っていた。
「驚かせてすまない。声をかけたんだが聞こえてないようだったから。それより、こんなところにいたら風邪引くぞ。今日の仕事は、もう終わったのか?」
久しぶりに顔を合わせたというのに、こんな時でもフェルディナンは平常運転だ。とっくにティボーから今日の顛末を聞いているだろうに。何か言おうとしたけれど、フェルディナンの顔を見た途端に涙が込み上げてきてしまった。
(この人の、眉尻を下げた顔を見ると泣きたくなってしまう。まるで、自分が傷ついたような顔をするから)
フェルディナンは、親指の腹で優しく泪を拭うと、そっと腕の中にローズを引き寄せ、不精髭の残る顎を頭のてっぺんにのせた。
「ん。ティボーから話は聞いた。少し、話せるか?」
しばらくそのまま抱きしめられていたが、身体が冷えるからと建物の中へ入るよう促された。
台所でお湯を沸かし、黙ったまま向かい合い、お茶の入った温かいカップを両手で持つ。
フェルディナンは、静かに二人の婚約の経緯を語り始めた。
ローズはフェルディナンの瞳を見るのが怖くて、ずっと、彼の喉仏の辺りを見ていた。
――ミレディー嬢の言っていたことは、事実だった。
「……父は、承知していたのでしょうか?」
「ああ」
「フェルディナン様のご両親も?」
「ああ。……兄達は知らないが」
「こんな仕打ち、あんまりです。王命であったとしても、理不尽すぎます」
「……本当にすまない。」
フェルディナンが深く頭を下げる。
「え? あ、いえ、わたしの事じゃなくて。フェルディナン様に対して、あまりにも酷い仕打ちだと申し上げているんです!」
正直、自分との婚約が監視目的だったことよりも、そんな役回りを王命という形でフェルディナンに押し付けたこの国の権威に対して腹が立った。
「フェルディナン様は国防軍の将軍ですよ? 命を懸けてこの国と国民を守ってくれているお方ですよ? そんな方に、スパイ容疑者の監視目的で不本意な婚約を押し付けるなんて……この国の人事は腐っています! まったくもうっ、拒否権ぐらい与えられなかったんですか!?」
「……くくくっ。貴女はどこまでも私の想定を超えてくるな」
笑っているのに、どこか泣きそうな顔をしているフェルディナンを見て、焦ってしまった。彼にはいつも笑っていてほしい。
もとより、大口を開けて笑うような人でないことは知っている。
でも、自分のことで顔を曇らせたり、心を痛めたり、怒ったり、してほしくないのだ。
だから言えなかった。
令嬢達から嫌がらせを受けていることも。帝国での、あの出来事についても――。
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