第50話 衝撃の事実と小さなしこり

 ローズが屋敷を去ってから3日後、ターニャは料理長が作ったお弁当を持ってローズが務める街の診療所へと向かった。入口辺りに人だかりができている。不審に思い訊ねると、診療所の外壁に医師を中傷する内容の落書きがされたのだという。

 ターニャの胸中がざわつく。


――果たして、ターニャの嫌な予感は的中した。

 現場に行くと、近所の有志が各々掃除道具を片手に集まり、ローズを中傷する落書きを洗い落としているところだった。


 言いようのない怒りがこみ上げてきたができるだけ顔に出さないようにして受付へ向かい、ローズへの面会を求めた。ちょうど昼休みなので、声がかかるまで外来の診察室の前の椅子にかけて待つように言われた。


 なかなか声がかからず、心配になって診察室のドアに近づき耳を澄ますと、中から鼻をすする音とローズの嘆息が聞こえてきた。


 思わずドアを開けたターニャは、ローズのもとへ駆け寄り彼女の身体を抱きしめた。心なしか頬がこけた感じがして、ひどく胸が痛む。


「ローズお嬢様……」


「ターニャ!? どうしたの? ……まさか貴女までお屋敷を出たのではないでしょうね?」


「いいえ。料理長がお弁当をローズ様にと」


「……黙って出て行ってしまってごめんなさい。私のせいで、お屋敷で働く誰かの仕事を失わせてしまったのではないかと心配しているの。みんな、大丈夫かしら?」


「誰も解雇されていません。ローズお嬢様のお部屋はそのままにしてあります。坊ちゃまが荷物を引き取りにきた者へお金を握らせて、帰って頂いたんです」


「そうなの……」


「ローズお嬢様。外壁の騒ぎのこと、聞きました。――大丈夫ですか?」


「ええ。今朝、聞き取り調査を終えて。一応捜査してくれることになったわ」


「このこと、坊ちゃまには?」

 いいえ、と首を横に振る。


「伝えるつもりはないのですか?」


「ええ。巻き込みたくないの。これは、私の問題だから。……それよりターニャ、お腹空いているんじゃない? よかったら、一緒にお昼を食べない?」


 それから2人は、料理長が心を込めて作ってくれたお弁当を頂いた。ターニャは遠回しにローズに屋敷へ帰ってこないかと促したが、ローズが首を縦に振ることはなかった。


 後日、診療所にローズ宛ての手紙が届けられた。


 3つあるうちの2通は、過日、口論の対象になった手紙で、もう1通はフェルディナンからのものだった。見覚えのある角ばった丁寧な文字で、「すまなかった。貴女を信頼していないわけじゃない。気持ちが落ち着いたら戻って来てほしい。みんな待っている」と書かれていた。


(結局、2通とも開封しなかったんだ……)


 勝手に屋敷を出て行った私を怒るでもなく、未だに婚約を解消しようともしないフェルディナンに、ローズはいよいよ拭い切れない疑念を感じ始めていた。


(やっぱり、この婚約には何かある。いったい、彼はどんな事情を抱えているのかしら……)


 ローズがフェルディナンの屋敷を出てから10日が過ぎた。

 

 今日は診療所で日勤に当たっているが、先程から診察室の外がガヤガヤと騒々しい。どうしたのかと訝しく思い、受付に声をかけた。


「ローズ先生。申し訳ございません。急な来客でして……」


「来客? 患者さんじゃなくて? 予定はあったのかしら?」


「いえ。それが突然いらして、ローズ先生に会わせろと……」


「私に? この騒ぎはそのせいだったのね。それで、いったいどなたかしら?」


「それが……セギュール侯爵家のミレディー様とおっしゃる方なのですが」


「そう。面識はないのだけれど、重要な用件なのかしら? ……いいわ。午前の診療が終わったタイミングで顔を出すから、2階の応接室へ通してちょうだい」


 対応に苦慮している受付の女性が気の毒になって結局応じることにしたが、念のためにと診療所の護衛を務めるトマも同席してくれることになった。


 ドアをノックして応接室へと入ると、ソファーにふんぞり返って噛みつかんばかりの顔つきでこちらを睨みつけている見覚えのある少女の姿が目に入った。部屋の隅に連れてきた侍女を待機させているが、主人が粗相をしやしないかと気が気でない様子だ。


(お気の毒に。お嬢様に振り回されるのも大変でしょうね)


 さて、とローズは目の前の少女に向き合う。

 やはり、この前の舞踏会でフェルディナンの腕に手を絡めていた少女だ。あの時の可憐で愛らしい雰囲気など微塵もなく、憎悪に満ちた顔がヒステリックに歪んでいる。


(せっかくの華やかな顔立ちが台無しね)


「わたくしに何か御用でしょうか?」


「あなた、私が誰だかお分かりになって?」


(令嬢としてのマナーは私も大概だけど――自己紹介もしないまま話を切り出すあたり、セギュール家の教育はどうなっているのかしら)


「いいえ」


「あ・の・ね! 私は一昨年のなのよ!?」


「はぁ。ヴィーナス……女神?」

 ローズが分からないといった表情で首をかしげる。


 思ったような反応が返ってこないことに苛立ったのか、

「あなた、本当に何もご存知ないようだから教えて差し上げますけどね、ヴィーナスっていうのは、その年に社交界デビューした令嬢の中で一番輝いていると王妃陛下が判断した者に与えられる、名誉ある称号なのよ!?」

と捲し立てる。


「あら、わたくしたち同い年なのですね」


「は―――!? そんなことどうでもいいのよ。わたしが言いたいのはね、どうして結婚に後ろ向きだったフェルディナン様が、突然のようなと婚約したのか、あんた自身が分かってるのか、ってことよ!」


「……分かっていないと、いけないのでしょうか?」


「は!? 当ったり前でしょう? なめてんの? なんにも知らないみたいだから教えてあげますけどね、フェルディナン様はスパイ容疑をかけられているあんたを監視する目的で、無理やり王命で婚約させられた被害者なのよ!? 国防副大臣を務める父から聞いた話なんだから間違いないわ。


 だ・か・ら、あんたのスパイ容疑が晴れたら、フェルディナン様との婚約はきれいさっぱり初めから無かったことになるわけ! 分かったら、今後は弁えた振る舞いをしなさいよねっ!」


 それだけ一方的に言うと、ズズッとお茶を飲んで叩きつけるようにカップを置き、そのまま侍女を連れて帰っていった。


「――先生、大丈夫ですか?」

 すかさずトマが声をかけてくる。


「ええ。大丈夫」


「先生、俺、貴族様のことはよく分からないけど、初対面の人にあんたっていうご令嬢、初めて見ましたよ」


「私もよ。ふぅー。ちょっと昼休みの間、抜けるわね」


 それからローズは急いでフェルディナンの屋敷へと向かった。

 突然の帰宅に驚きと喜びを隠せないターニャへ「ごめんなさい、そうじゃないの」と伝えると、急ぎティボーに人払いを頼んだ。

 

 ローズはミレディー嬢がやってきた一連の顛末をティボーに話した。


「それでティボー。あなたは私たちの婚約の経緯について、知らされていたのかしら?」


「……」


「あの、責めているわけじゃないのよ? 事の顛末をフェルディナン様へ報告して、今後の対応について指示を仰いだ方が良いと思って。偶然とはいえ、護衛のトマも話を聞いてしまったし、彼女の金切り声が部屋の外まで漏れていた可能性もあるから。フェルディナン様に落ち度はないけれど、スパイの容疑者に監視がバレちゃうなんて、酷い失態だもの。しかもその容疑者はお屋敷を出て行ってしまったわけだし」


「っ! お嬢様……」


 何か言いたげなティボーに、片手をあげて発言を制する。


 なるほど、フェルディナンは国防軍に所属しているから、諜報活動に深く関わっていても不思議ではない。それにスパイを監視するには、婚約者という立場を隠れ蓑に、同じ場所で起臥寝食するのが成果を上げる上で最も有効かつ効率的である。


(私宛ての手紙を開封して中身を改めたかったのには、こういう事情があったのね。黙って開けてしまえば良かったのに、ほんとにお人好しなんだから。――それに、こういう事態になっても婚約を解消しなかったのには、ちゃんと理由わけがあったのね。個人的な情があったからじゃなかったんだ。まあ、そうよね、こんな可愛げのない女――妹扱いしてもらっただけでも感謝だわ)


 パズルの最終ピースがガチっとはまった時のような腑に落ちる感覚に、本来ならばすっきりするはずなのに……小さなしこりのようなものが、存在感を持ってローズの心に残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る