第42話 理性とは裏腹に

 フェルディナンの腕の中が不思議なくらい心地良くて、不適切だと分かっているのに離れがたく感じてしまう。思わず彼の服をギュッと掴む。


 それから何とか心を整えると、フェルディナンの胸に両手を当てて身体を離し、無理やり母に教わった微笑みを貼りつけた。


「――ありがとうございます。……ぐすっ。もう大丈夫です。寝ますね、おやすみなさい」


「無理して笑うな。今ホットミルクを作ってくるから、ソファーにかけて待っててくれ」


 いつもの自分なら、無理にでも「大丈夫です」と言って自室に戻るのだろうが、その夜はおとなしくフェルディナンの執務室にあるソファーに座って彼が戻ってくるのを待つことにした。


 こんなふうに誰かの胸で泣いたのは久しぶりだった。王国に帰ってきてからの自分は、以前より弱くなってしまったのだろうか。でも、そんな自分が嫌いじゃないとも思った。


 思わず視線を落とし、足元を見つめる。

 ふわふわの靴下――フェルディナンからの贈り物。


「あなたは足先が冷えるみたいだから」

 オペラを観に行った翌週、そう言いながら手渡してくれたのだ。


(もこもこしてて、うさぎの足みたい……。熊のからだに、うさぎのあし。色気とは程遠いわね)


 しばらくするとフェルディナンが戻って来た。


「少しは、落ち着いたか?」

「はい。ありがとうございます」

そう言って、差し出された湯呑みを受け取る。


 フェルディナンが手ずから作ってきてくれたホットミルクは、ローズが作るのと違って蜂蜜など入ってなくて、まるで彼自身みたいに素材そのものの力強い味がした。


 一緒に持ってきてくれた湯たんぽを背中に当てながら、ローズは、ポツリポツリと今日の訓練での出来事を話しはじめた。フェルディナンは、何を言うでもなく、じっとローズの話に耳を傾けてくれたが、結局、突然泣いてしまった理由を話すことはできなかった。


「――今夜は一緒に寝るか?」


「え?」


「添い寝してやるぞ?」


「……フェル兄様。兄様から、何か吹き込まれましたか?」


「あぁ」


 ――それは一週間前。

 フェルディナンが国防軍・東部地域の予算のことで、財務室を訪ねたときのこと。

 財務官僚であるローズの長兄、フィリップから声をかけられた。


「フェルディナン卿。妹……ローズが、公爵家のみなさんにとても良くしてもらっているようで、礼を言います」


「いえ、婚約者として当然のことですから」


「――今日は雨降りですね」


「?」


「ローズは、雨降りの日に古傷が痛むんです」


「背中の?」


「ええ。昔はよく、泣きべそをかきながら私や弟妹の寝室に潜り込んできたんですよ。添い寝しながら、背中を温めてやっていました」


「……」


「ただ、私たちは歳の離れた兄妹ですから。結婚後に妻と実家に泊まった日の夜、雨が降ってきて、ローズが私たちの寝室に潜り込んできたことがあったんです。妻は3人で一緒に寝ようって言ってくれたんですけど、翌朝、妹は両親からひどく叱られたみたいで。それきり、表立ってローズが私に甘えてくることはなくなりました」


「なるほど……」


「フェルディナン卿には、甘えているでしょうか? あの子は、人一倍寂しがり屋のくせに、心の内を隠してしまうところがあるから、心配で。……妹のこと、どうか宜しく頼みます」


 フィリップはそう言って頭を下げた。



「……フェル兄様? 兄様から、何か吹き込まれましたか?」


「あぁ。フィリップ卿から、『雨の日は古傷が痛むから添い寝をしてやっていた』と」


「そうでしたか。……お気遣い、ありがとうございます。でも、おかげ様でもうすっかり、落ち着きました。だから、そういうことは、フェルディナン様が大切に思う方にしてあげてくださいね」


 ローズは、フェルディナンとの関係に一線を画すため、敢えてそう言って微笑んだ。


(これ以上は、優しくしないでほしい。そうでないと……彼と兄妹のような関係ではいられなくなる。この温もりを手放したくないと思ってしまう……)


 フェルディナンも、そういうローズの心情を瞬時に察したようだった。


 けれど、お飾りの婚約者なのだから彼に負担をかけるようなことは避けるべきだという理性は、思いのほかローズを苦しめた。


 相変わらず心は重たいままだったが、湯たんぽが冷める頃には背中の痛みは消えていた。

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