第36話 身辺整理、しっかりなさって下さいね?

 しばらくお互い何を言うでもなく、各々のペースでお酒を楽しんでいた。

 初対面の時と異なり、この頃にはもう、沈黙を気まずく感じることもなくなっていた。こんな些細なことで、2人の関係性の変化に気付かされる。


「――朝晩の送迎と就寝前のハグってやつ、実はあれ、酔った時にノリで書いちゃったんですよ。まさか真に受けて『善処する』なんて言われると思ってなかったから、驚いちゃいました」


「は? あれ、ノリで書いたのか? ――真に受けて悪かったな。てっきり、軍人の夫を持つ妻の覚悟だとでも言われるのかと思った」


「覚悟?」


「ああ。軍人の夫を持つと、いつ何時、死別するか分からないからな。急な召集命令が下った場合には、顔もろくに見られないまま戦地に向かうこともある。残された貴女が後悔しないために入れた項目かと思ったんだ」


「……実は逆なんです。残された自分が後悔しないためじゃなくて。危険な地に赴く自分が、残された人に後悔してほしくなくて入れた項目なの」


「残された人のため?」


「ええ。ほら、私も軍医ですから、従軍する可能性もあるでしょう? 私に万一のことがあった時、残された家族に不要な後悔とか罪悪感とか、持ってほしくなくて」


「……残される立場になることは、考えたことがなかったな」


「あっ、でも、私たちは恋人でも夫婦でもないですから、そういうのとは違うと思いますけど。……それでも、一緒に暮らした者同士、情くらいはあるでしょうから。喧嘩してそれっきりっていうのは、やっぱり、後味が悪いでしょう?」


「……」


「どっちが辛いんでしょうね。一人残されるのと、愛する人を残して逝ってしまうのと」


(リョウは、あの時、どんな気持ちだったんだろう?)


「愛する人がいたら、どんな状況でも、その人の元へ帰ろうと最後の瞬間まで思うだろうな」


「そういうもの、でしょうか……」


 フェルディナンの言葉に思わず瞳が揺れてしまいそうになるのを、ぐっと堪える。


「……想い人の女性。フェル兄様、その方と再会できると良いですね」


「ん?」


「会いたいでしょう?」


「あぁ。……早いな、時が経つのは」


「どんな方なんですか? フェル兄様の想い人」


「ん?」


「医師として捜索に協力できることがあるかもしれないので、年齢とか特徴とか――」


「いや。……気持ちは有難いが、貴女の手を煩わせるつもりはないんだ」


「そうですか」


「……」


「それはそうと、何が『過去の女性関係は清算済みだから、貴女が気に病むことは何もない』ですか! この前だって、私じゃなかったら修羅場になってましたよ?」


「っ、あれは本当に偶然……いや、すまなかった」


(過去の話とはいえ、不愉快だよな……。こういう時は、どう切り抜けるのが互いに被害が少なくて済むんだ?)


「そうやって素直に謝れるところは、素敵だと思いますけど。フェル兄様は、私の昔の恋人に会っても平気ですか? 嫌な気持ちになったりしない?」


「は? そういう男がいるのか? ……どこの誰だ?」


「ふふふ。気になるんですか?」


「気になるだろ、普通……」


(クリストフのやつ、何が「驚くくらい男っ気のない生活だ」だよ。恋人、いたんじゃないか。あいつの情報収集能力、全く当てにならんな)


「へー。妹の過去は気になるんだぁ。そっかぁ」


(だったら、妹の彼氏にやきもきする兄の気分を味わわせてあげようかしら。わたしを妹扱いした罰だわ)


「だから、どこの誰だ?」


「私の場合は、フェル兄様と違って、本当に過去の話ですから。お気になさらず」


「なっ。俺だってそうだ! そもそも彼女たちとは――」


「わー、詳細は結構ですから!」

 

 耳を塞いでこれ以上は聞きたくないとアピールする。


(過去の話は割り切れるとしても、昔の女性との詳細までは知りたくないもの。それに「彼女」って。あの2人以外にあといったい何人いるのよ)


「なっ、――」


「それに、結婚する覚悟が出来ていないのはお互い様じゃないですか?」


「ぐっ……」


「ま、フェル兄様は身辺整理も含めてもっとしっかりなさってくださいね?」


「……分かった」


 普段は兄貴風を吹かせているフェルディナンだが、ローズが酒を飲むと、2人の関係は対等になる。予想外に手強いの存在に、フェルディナンは生まれて初めて他人に振り回される経験をしていた。

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