第35話 地味に仕返しをしています

 ローズは、騎士学校時代の友人へ妹だと紹介されて以降、自分の立場を戒めるかのように2人でいる時にはフェルディナンのことをフェルと呼んでいる。本当はあの日、乙女心がほんの少し傷つけられたことに対する意趣返しでもあることは、ローズだけの秘密だ。


 今夜は就寝前の挨拶をしに、フェルディナンの執務室に向かっている。

 今朝フェルディナンから、「自分から就寝前のハグを婚約の条件に入れたにも関わらず、一度も挨拶に来ないな」と言われてしまったからだ。


 ローズの執務室とフェルディナンの執務室とは正反対の位置にあるため、一度廊下に出てからフェルディナンの執務室へと向かう。


 遠慮がちにドアをノックする。


「……誰だ?」

「ローズです」


「こんな夜中にどうした?」

執務室のドアが開かれ、訝しげにフェルディナンが顔をのぞかせる。


 就寝前の挨拶に来たことを告げようとしたら、

「なっ、なんて格好で廊下を歩いているんだ!」

と言われ、部屋の中に引っ張り込まれた。


 就寝前なので、当然のようにネグリジェを着ていたのだが、公爵家では廊下をネグリジェ姿で歩くことは非常識なことのようだった。


(実家では父様も寝間着のまま居間で新聞を読んだりしているのに……)


「この屋敷には男の使用人もいるんだぞ? 弁えなさい」


「……こんな夜中ですよ? 護衛以外はみんな就寝しています」


「そうだとしても、だ。今後は、こんな格好で廊下を歩くことは控えなさい」


(こんな格好って……公爵家が用意してくれた長袖のワンピースタイプの清楚な寝間着なのに。素材もコットンだからシルクと違って身体のシルエットが出るわけでもないし。お気に入りのモコモコの寝間着は「ウサギみたいだな」ってからかわれたから、着るのをやめたのに……)


「じゃあ、就寝前の挨拶はどうすれば良いですか?」


「そのために各部屋が中扉で繋がっているんだろう?……あぁ、貴女には説明してなかったか。ついてきてくれ」


 大人しくフェルディナンの後ろをついて歩く。


 今夜のフェルディナンは上質な白いシャツを濃紺のパンツにインして、柔らかい生地の部屋靴を履き、くるぶしを大胆に見せている。

 袖まくりをしたシャツから覗く、血管が浮き出た太い腕。広い肩幅。厚い胸板。引き締まったお尻……色気のパンチが半端ない。


 フェルディナンは執務室の中扉を開き、自身の寝室へと入って行く。フェルディナンの寝室の中扉は、小サロンに繋がっていて、小サロンの中扉はローズの寝室へと繋がっているのだが――。フェルディナンは先程から何度もドアノブを回している。


「……ローズ。まさか、寝室に鍵をかけているのか?」


「はい。……いけませんでしたか?」


「ほぉう。私が貴女を襲うとでも思っているのか?」


「そ、そういう訳じゃないですけれど。一応、未婚の男女ですから?」


「私は合意のない行為はしない。貴女に手を出したりはしないから、防犯上、鍵は開けておきなさい」


「……分かりました」


「はぁー。じゃあ、これで貴女の執務室から私の執務室まで中扉で繋がっていることは分かっただろう? 就寝前の挨拶は、廊下を通らずここを通ってくればいい」


「分かりました。……ところで、フェル兄様の寝室には随分、いろんなお酒が置かれているんですね?」


「舞踏会でも飲んでいたみたいだが、酒は好むのか?」


「はい。仕事の関係で金曜日の夜しか飲めないんですけれど、好きです」


「明日は土曜日だろう? 少し飲むか?」


「良いんですか?」

 ローズの顔がぱぁっと明るくなる。


「貴女は酒が弱いみたいだから、徐々に慣らしていった方が良いだろうしな」


 かくして2人は、互いの寝室の間にある小サロンで一献傾けることになった。


 ローズはなぜかフェルディナンから熊の毛皮のような厚手のガウンを羽織らされている。


「熊よりウサギの方が可愛いと思いますけど……」

「ん? 何か言ったか?」

「この格好、熊女みたいだなって」

「温かくて良いだろう? 似合ってるぞ?」


(似合ってるってどういうこと? 毛皮が似合う女ってこと? それとも……野暮ったいって言いたいのかしら?)


 美しいブランデーグラスにトクトクと琥珀色の液体が注がれるのを、ぼんやりと眺める。


(そういえば昔、週末の夜にお酒を傾けながら談笑している両親の姿に憧れていたのよね。私もあんな大人になりたいなって。いつの間にかお酒が飲める年齢になっちゃったのに、未だに運命の相手とは出会えていない。ほんとはお飾りの婚約者なんてやってる場合じゃないんだけどな……現実は厳しいわね)


「……また心ここにあらずだな」


 濃厚な香りが鼻腔をくすぐり、ふっと現実へと引き戻される。

 スッと差し出されたグラスを、ありがとうございます、と言って受け取る。


 フェルディナンはローズの態度に不機嫌になる様子もなく、長い足を組んだ姿勢で香りを楽しんだ後、グラスに口をつけた。コクリと喉ぼとけが上下するのを見て、美しい人だなと純粋にそう思った。

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