第32話 過去の話とはいえ……(フェルディナン)

「それではフェルディナン様、参りましょうか?」


 今日のローズは、空色の生地に白色の細い縦ストライプが入った七分袖のワンピースを着ている。足はロングスカートの中に隠れているが、裾から覗くキュッと引き締まった足首が10代の若者特有の瑞々しさを放っている。


 王都のメインストリートで買い物をしては、フェルディナンが当然のように支払いをし、荷物を持つ。実兄のように甘えられる心強い存在ができて、ローズは嬉しそうだった。


 実は、はじめにローズを装飾店に連れて行ったのだが、「婚約者として同行する夜会がないのなら要りません」と言われた。ドレスも不要だと。


(そういえば、婚約指輪もしてないな。婚約式の日以来、指にはめているところを見たことがない)


 フェルディナンは、ローズが公爵家にいくら生活費を入れたらよいかと相談してきたことに心底驚かされた。実家の侯爵家から経済的に自立してやっていこうとするローズの姿勢に、初対面の舞踏会で彼女に放った言葉の数々を後悔していた。


(彼女の努力や覚悟を知りもせず、乱暴な言葉を投げつけてしまった)


 せめて婚約者として一緒にいる間は、自分ができ得る限りの支援をしてやりたいと思った。それが兄の妹に向ける家族の情愛に近いものなのかどうかは、まだよく分からなかったけれど――。



 学用品店でフェルディナンが支払いをしてくれている間、外で待っていたローズは通りの向こうに人だかりができているのを見つけた。耳を澄ますと、何でも今人気のオペラ歌手のイネスという女性に握手やサインを求めている人々の群れだという。


「オペラかぁ。そういえば、帰国してから一度も観に行ってないなぁ……」


 ローズは留学生時代、足繁く帝国のオペラ劇場に通っていた。叔父のクリストフが芸術活動を支援していたため、年間自由に出入りできるパスを持っていたからだ。


 特に、シーズンごとの初回公演と最終公演の後に支援者を招いて開かれる饗宴が大好きで、よく参加させてもらったものだ。


 そんなふうに昔を懐古していたら、会計を済ませたフェルディナンが店から出てきた。


「ありがとうございます」


「ああ。疲れただろう? どこかでお茶でも飲んでいくか?」


「はい! 最近できたティーハウスがあるんです。そこでもいいですか?」


「ああ。行きたいところがあるなら、そこにしよう」


 連れ立って歩きだしたとき、後ろから「フェルディナン様」と、鈴を転がすような澄んだ声が聞こえた。2人して振り向くと、そこにはシックな黒のワンピースを大胆に着こなし、真っ赤な口紅をさした、スター然としたオーラを纏った綺麗な女性が佇んでいた。


 人だまりができていた場所にいた人々が、こちらを注視している。どうやら先ほど取り囲まれていたオペラ歌手のイネスらしい。


「こんな所で再会できるなんて、運命かしら。……今月末、王都劇場で今シーズン最初の公演がありますの。夜、来賓館のいつもの場所でお待ちしています――」

 口角を上げて、艶っぽく微笑む。


 来賓館とは、王都劇場の隣にある、王族や貴族ご用達の高級宿屋である。遠くから夜の公演を観に来た要人が寝泊まりしたり、高位貴族が逢瀬を楽しむために使ったりする場所として知られている。


 その場所で待っているということは、つまり、寝所を共にしようというお誘いなのである。


 ローズが隣にいるにも関わらず、その存在を一切無視してこのような誘いをするなど、たとえローズがフェルディナンの妹に見えていたとしても、いくらなんでも失礼である。


 が、ローズの思考は斜め上をいっている。


「あの、ぜひっ、私もご一緒したいのですがっ!」


「えっ!?」「は?」

イネスの声とフェルディナンの声が同時にハモる。


「フェルディナン様と一緒に来賓館へ伺っても宜しいでしょうか?」


「っ、ローズ!?」


慌てた様子でフェルディナンがローズの手首を引っ張り、通りの反対側へと連れて行く。初めてローズと呼ばれたのと、いきなり手首を掴まれたのと両方の事実に驚く。


「一体何を考えている!?」


「……すみません。厚かましいお願いだったでしょうか?」


「正気か!?」


「だって、初回公演後のうたげ、他の支援者たちもいらっしゃるのですよね? 帝国にいた頃は、毎回それが楽しみで……」


「……」


「ダメですか?」


「ダメ、だ。……私も行く気はない」



「――フェルディナン様?」

くだんの女性がフェルディナンに向かって首をかしげる。


「あ? あぁ、いや。婚約者と出かける用事があるので、失礼する」


 しばらく無言で歩いていたが、フェルディナンは先程から眉間にしわを寄せ、唇をキュッと一文字に結んでいる。初対面の舞踏会の時と同じ表情だ。


(一体何なんだ!? 来賓館といえば、男女が人目につかないように密かに会うために使われる場所だってくらい、貴族令嬢なら誰でも知っているだろう? ……いや、ローズはこの国の貴族令嬢としての常識を持ち合わせていないんだった。今さら、彼女との昔の関係を伝えてローズを傷つけることもないだろう。なにしろ、10代の頃の話なんだ。――いや待て。というより、ローズは俺の過去に傷ついたりするのか?)


「あの……怒っていらっしゃいますか?」


「いや。貴女はなにも悪くない」


 しばらくするとローズが言っていたお目当てのティーハウスが見えてきたので、二人はそのままお店へ入ることにした。

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