第29話 手料理は美味しかったそうです

 そうこうしているうちに日が傾いてきた。

 今日は町の診療所で夜勤が入っているため、そろそろ出かけなくてはいけないが、フェルディナンはまだ穏やかな寝息を立てている。


「ふふっ。寝顔は穏やかなのね、眉間にしわがない。……お仕事、お疲れ様です。良い夢を」


 そっと布を掛けなおしてから、半地下の研究室にいるユベール博士へフェルディナンが目覚めたら用意してある雑炊に今朝市場で仕入れてきた卵を溶き入れて出してほしいと声をかける。


「ほんっとにあんたも物好きよね~。せっかくデートに誘われたんだから、買い物にでも観劇にでも連れて行ってもらえば良いのに。花の命は短いのよぉ~?」


 ユベールにはそう言われたけれど、彼が真の婚約者であっても、たぶん同じようにしたと思う。次、彼に会うとき、フェルディナンの顔色がよくなっていることを願いながらローズは診療所へ向かった。



――フェルディナンが心地よい眠りから目覚めると、そこは見慣れない場所だった。微かに花の香が漂う。こんなにも深く眠れたのはいつぶりだろうか。軽く伸びをして、自分が靴を履いていないことに気づく。


「いつの間に――」

 

 周りを見渡して、ようやくここがローズの住む薬局であることを思い出した。ゴソゴソ身づくろいをしていると、例の鼻にかかるハスキーな声が聞こえてきた。


「あら~、起きた? 随分お疲れだったのね、ぐっすり眠ってたわよ」

「今、何時だ?」

「うーん、ちょうど20時ね。お腹空いているでしょう? ちょっと待っててね」

「20時!? ……はぁ――。やっちまったな」



「は~い、お待ちどおさま! ロゼ特製の薬草粥よ」

「そういえばローズ嬢の姿が見当たらないが」

「ロゼなら、もう仕事に行ったわよ? 今日は夜勤だから明日の朝まで帰って来ないでしょうね。貴方に宜しくって言ってたわ」

「はぁ――」


「今日のデートはお互いをより良く知り合うためのものだったんでしょう? だから、自分の家に招待して手料理を食べてもらえたら目的達成だって言ってたわよ?」

「7つも年下の彼女に気を遣われるとはな……」


「まあ、気にする必要ないんじゃない? あの子、時々10歳くらいサバを読んでるんじゃないかって思うくらい、しっかりしてるところがあるから。さあ、せっかくの料理が冷めないうちにどうぞ」


 そう言うと、ユベールはまた研究室へと戻っていった。


 薬草粥はとても美味しかった。胃腸を労わる優しい味付けのスープが五臓六腑に染み渡る。


(ところで、彼女は夜勤だと言っていたが――庶民街で夜通し働いているなんて、危険すぎないか?)


 そうして今、フェルディナンはユベールに描いてもらった地図を頼りにローズが働いているという診療所へ向かっている。


 夜の庶民街とはいえ貴族街との境目だし、街灯も多く思ったより治安は悪くない。薬局から10分程歩いたところで、賑やかな声が聞こえてくる。どうやら通りの向こうにある建物の中庭で炊き出しを行っているようだ。


 いくつものテーブルが並べられ、その周りを小さな子どもたちが走り回っている。白い前掛けをした若い女性が、生後半年くらいの赤子を左腕に抱えたまま右手で器用に2歳くらいの子どもにご飯を食べさせている。


ピンと伸びた背筋と、均整の取れた横顔に見覚えがある。


「ローズ嬢? まさかな……」

そう呟いて通り過ぎようとしたとき、


「ローズ先生っ!」と叫びながら、5歳くらいの少女がその女性に駆け寄っていった。


名を呼ばれた女性は、その少女を優しく抱きとめると、おでことおでこをくっつけて「もうお熱はないようね?」といって微笑んだ。


 これまでもローズの微笑みは何度も目にしてきたが、今夜のそれは初めて見る種類のものだった。相手を優しく包み込むような、母性愛に溢れた慈しみ深い笑顔。

 子どもたちが何か面白いことを言ったのだろうか、大きな口を開けて笑うと、右の頬にえくぼが顔をのぞかせた。


「あんな風に笑う女性なんだな。……そういえば昔、帝国にいた彼女も同じように大口を開けて笑っていたか」


 自分がひどく場違いなところに来てしまった気がして、声をかけられずにいたフェルディナンだったが、先にローズの方がこちらに気づいた。


「あれっ? 令息様?」

 観念してローズの方へ向かう。初デートで眠り込むという失態を犯したあとだから余計に気まずい。


「少しはお休みになられましたか?」


「ああ。……お粥も美味かった」


「それは良かったです」


「この埋め合わせは、必ずする」


「ふふっ。埋め合わせなんて結構ですよ。だって、令息様に鎮静作用のあるお茶を出してリラックス効果のある香油を焚いたのは私ですから。やっと取れた休暇でしょう? ゆっくりお休みできたのなら、なによりです」


「――敵わないな」


「え?」


「いや、なんでもない。ところで、ここで夜勤をしていると聞いたんだが」


「いつもじゃないですよ。普段は、週2回の日勤勤務です」


「学校もあるんだろう?」


「私は外国の医師免許を持っていますから、学校も毎日あるわけではないんです」


「そうは言っても危険を感じたりすることもあるだろう? 警備は足りてるのか?」


「たしかに、不特定多数の患者さんがいらっしゃいますけど……診療所にも護衛はいますし、おそらく父が雇った護衛も近くで見守ってくれていると思いますから」


 それでも納得しない様子のフェルディナンは、診療所を隅々まで見て回ったのち、護衛のトマへあれこれ指示をしている。別れ際、公爵家別邸へ引越してくる予定を早めるように言われた。


 ローズは、実兄のように自分の身を案じてくれる人が出来たことに少しだけ心がこそばゆくなった。

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