第9話 婚約者の恋人の応急手当をすることになりました
バタンというけたたましい音とともに
「おい、マリー、大丈夫か? しっかりしろ! 誰か、誰か来てくれー!!」
という叫び声が外の回廊まで響き渡る。
フェルディナンがすぐさまシガールームへ入ると、マリーと呼ばれている令嬢が床に倒れ、意識を失っていた。マリーを囲むように見下ろしている男たちは、何をするでもなく、オロオロと立ち竦んでいる。
「誰か、救護班を呼んでくれ!!」
フェルディナンの声を聞きつけた衛兵が王宮医師を呼びに行くが、その間にもマリーの呼吸が頼りなくなっていく。
「何があった!?」
フェルディナンの声に彼らが我に返る。
「あの、マリーがそこにあったグラスを一気に煽って……いきなり倒れたんです」
「――毒じゃないだろうな?」
「えっ!?」
周りの男たちの顔が一気に青ざめる。
その頃、騒ぎを聞きつけたローズがシガールームへと息を切らしながら戻って来た。
「救護班が到着するまで、応急手当をします。何があったか説明してください。簡潔に!」
「どうやら、この令嬢が蒸留酒を一気に煽ったらしい」
グラスの匂いを嗅いでいたフェルディナンが告げる。
「蒸留酒?」
ローズもグラスの匂いを嗅ぐ。かなりアルコール度数が高い酒のようだ。
「マリー様は普段から飲酒を?」
「いや……少なくとも私たちは、彼女が飲酒する姿を見たことはない」
「急性アルコール中毒の可能性が高いですね。マチアス卿、マリー様の身体を横向きにしてください。そう、顔が横を向くように。吐瀉物が気道を塞いで窒息死するのを防ぐためです。それから、騎士様、そこのテーブルクロスを取って彼女の周りを囲ってください。彼女の名誉のためです、急いで。他の方は部屋の外へ。救護班が来たら経緯を説明してください」
ローズが矢継ぎ早に指示を出す。
(ほぉう……。混乱した現場では指示を出す際にも名指しした方が効果的なのだが、彼女はそれを知っててやっているのか?この見るからに淑女然とした令嬢が?)
「マリー様? マリー様? 聞こえますか?」
名前を呼びながら、倒れた際に頭を打っていないか確認していく。
「頭部外傷なし。意識レベル2」
マリーの身体がピックと反応したかと思ったら、同時に嘔吐した。ローズはドレスが汚れることも介せず、呼吸と体温に変化がないか注意深く観察する。
「マチアス卿、毛布を貰ってきてください」
「わ、分かった」
ローズがマリーのコルセットを緩めていく。
そこへ、先程の衛兵とともに救護班の医師が駆けつけた。
「医師見習いの者です。先生が到着するまで応急手当をしておりました。おそらく蒸留酒を一気飲みしたことに起因する急性アルコール中毒で――」
慣れた様子で、淡々と引継ぎをしていく。
「完璧な初動に感謝いたします。あとはこちらで対処いたします」
マリーは救護班により医務室へと運ばれて行き、シガールームにはローズとフェルディナンだけが残された。
(はー、とんだ一日だったわ。6回目の婚約破棄に、新調したドレスも……。何より、リョウと結婚式のリハーサルをした、あの幸せだった日を想い出しちゃった)
疲れと悲しみがどっと押し寄せてきて、ローズは思わず椅子に腰掛けた。
デビューのお祝いに胸元にさしてもらった白薔薇はくしゃりと潰れ、初めて袖を通したドレスも汚れてしまった。テーブルの上に置かれたクリスタルの水差しを手に取ると、ハンカチへ水を含ませドレスの汚れを落とす。
普段は勝気に見えるパープルの瞳が泪に揺れるのを、長い睫毛で隠す。
「令嬢、大丈夫か?」
不意に、テーブルクロスで救護現場を囲っていたフェルディナンがローズへ声をかけた。防具の頬当てを付けているため顔の表情は分からないが、彼の深く澄んだ青色の瞳は、ローズを気遣う労りの温もりを灯していた。
「はい。……騎士様もありがとうございました」
「とんだ災難だったな。倒れたのは貴方の陰口を言っていた令嬢だろう? 放っておいてもよかったんじゃないのか?」
「騎士様だって、陰口を言われたからって怪我人を放置したりなさらないでしょう?」
「っふ。肝の据わった令嬢だな」
「それに、親が決めた婚約とはいえ恋仲の二人の間に割って入ることになってしまったのは事実ですから」
「くくくっ。とても今夜デビューした令嬢の発言とは思えないな」
ローズが曖昧に微笑むと、彼はおもむろにテーブルに飾られた花の中から一輪だけ抜き取り、スッとローズの横髪に挿すと恭しく礼をした。
「社交界デビュー、おめでとうございます。モンソー侯爵令嬢」
「えっ……」
家族以外の男性から花を贈られた経験がなかったローズは、不覚にも頬がピンク色に染まってしまう。
(1本の白薔薇の花言葉はたしか……一目惚れ? まさか、知っててやってるわけじゃないわよね)
不思議な衛兵との会話に心が晴れたローズは、そのまま王宮を後にすることにした。
フェルディナンは、どこから用意したのか真新しい毛布をローズに手渡すと、できるだけ人目につかない場所を選んでローズとサラを馬車乗り場まで案内した。ローズがお礼を伝えると、耳元で「そう言えば、たしかに彼らの会話には品がなかったな」と流暢な帝国語でささやいた。
(まさか帝国語で言い放ったあの捨て台詞を聞かれていたなんて。恥ずかしくて死んじゃう……)
ローズは顔を真っ赤にしながら、そそくさと馬車へ乗り込んだ。
かくしてデヴィッドとの婚約は、その翌日、つつがなく解消された。
そして迎えた翌週の舞踏会が、冒頭のシーンである。
初対面の見るからに身分の高そうな帝国の青年の茶番に付き合わされ、もともとあった悪評がさらに高まる様相を呈してきた頃、ローズは再び帝国へと戻った。
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