ブラックに染まった天国のお話

kokolocoro

ブラックエンジェル

 目の前に迫るトラックの影。

 死を告げるヘッドライトが道路脇に佇む人影を照らした。

 その悪意に満ちた笑みを見送り、想いを告げられなかった無念を抱いたまま、魂は天国へ連れて行かれた。

 その光景が地獄の始まりとなった。


 


「何をしている!十三番」


 初めて撃った拳銃の反動に腰を抜かした俺に女主天使から鞭が飛んでくる。何度叩かれても死ぬことのない天使の身体と知ってか、鞭のしなりに一切の容赦がない。鋭い音と俺の汚い悲鳴が薄暗い射撃場に響き、背中から生えた天使の羽が飛び散った。


「立て、十三番!」


 中位三隊に属する主天使ドミニオンズの彼女は下位三隊の下っ端である俺たち天使を番号で呼ぶ。栗原翔くりはらしょうと言う生前の名で呼ぶことはない。


「天使って、悪魔と戦うんだよ?それって軍隊と同じじゃん。聖書読んだことないの?」


 入隊したばかりの俺に初めて声をかけてくれた元五番地区の十番霧島さんの言葉に衝撃を覚えたものだ。

 痛みに悶絶しながら生前の教養不足を嘆いていると、ベレー帽に黒いサングラスをかけた軍服の女主天使に胸ぐらを掴まれ立たされた。同僚の天使は俺を横目に射撃訓練に勤しんでいる。


「おい、聞いているのか!怨霊から身を守るための訓練だぞ、まじめにやれ!」


 一目散に目を逸らした十二番の秋山に悪戯を企んでいるのがしっかりと見透かされている。

 流石は悪魔と呼ばれた主天使。「日本人は銃に慣れていない」と反論したら、平然と舌を切る冷酷な女だ。人間なら出血多量で死ぬような体罰でも、天使の身体なら死ぬことはない。

 だからこそ、天国には残忍な懲罰が当然のように横行している。

 抗議の声を生唾ごと飲み込むと同時に、けたたましいアラームが鳴り響いた。


「魂が大量発生!五番地区担当は至急現場に迎ってください!」

「射撃訓練は中止だ!直ちに現場に向かえ!」


 女の一声で五番地区担当の同僚が次々とロッカーに拳銃を片付け、虫取網を取り出し、軍服のファスナーを閉め直した。大理石の廊下を一糸乱れず行進する同僚の最後尾に張り付いて発着場にたどり着くと、ハッチがゆっくりと開いた。

 乱気流に紛れたひょうが容赦なく顔に打ち付ける中、雷鳴が轟く雲海へ飛び降りた。三回目のフライトにもなると翼を広げるタイミングも、気流をつかむコツも慣れたものだ。


 雲海を抜けると、黒煙と赤い炎に染まった地上が眼前に広がっていた。

 昔ながらの繁華街から火の手が上がり、吹き荒れる木枯らしが火の粉をばら蒔いたようだ。飛び火がアパートや空き家を無差別に焼き払い、亡くなった人が魂となって辺り一帯を飛び交っている。


 理不尽な死を受け入れられず、迷える魂を回収するのが俺たち下っ端天使の仕事だ。


 虫取り網を片手に炎に包まれたアパートへ飛び込む。アパートの一室の窓をすり抜けると、一酸化炭素中毒で亡くなったばかりのお爺さんの魂が焦げたカーペットを這いずり回っていた。飛び方を知らない魂を虫取り網で掬って瓶に詰め、壁をすり抜けて隣室へ侵入した。


「ゲホッ、ゲホッ!」

麗花れいか!」


 咳き込む声に俺は驚声を上げた。

 ウェーブのかかった栗色の髪に煤がこびりついているが、惚れた女性を見間違るはずがない。身を焦がす熱風の中、懸命に這いずる麗花の前にひしゃげた扉が立ち塞がる。


「麗花さん、中にいますか!」


 消防隊員であろう男の声が部屋に響いた。先に亡くなった飼い猫の魂が元気良く飛び回って反応するも、肝心の麗花には声を張り上げる余力すらなかった。


「今、助けます!」


 消防隊員が必死に蹴破る音だけはするが、扉は外れそうにない。


「……助けて」

「麗花……」 


 助けを求める麗花の瞳はあの日から何一つ変わっていなかった。

 山の上からの夜景を見てはしゃぐ彼女の横顔、「また来ようね」と言ってはにかんだ彼女の優しげな笑顔、下山する時に握った彼女の手の温もりが奔流のように頭をよぎる。


 気づけば俺は扉を引き剥がしていた。


 突入した消防隊員の男が俺の身体をすり抜ける。麗花を抱えながら燃え盛る部屋から脱出する消防隊員の頼もしい背中を静かに見送った。




「どうだ?針地獄の座り心地は?」

「最悪です、主天使様」


 剣山の上に正座させられた俺の膝に女主天使がゆっくりと腰かける。太ももに伝わる女の温もりよりも熱い痛みがすねを襲った。

 歯を食い縛って叫び声を抑える。二人きりの懲罰房で弱みを見せたらこの女に何をされるかなんて考えたくもない。

 俺の反応が薄かったおかげか、女は俺を拘束していた縄をすぐにほどいた。


「天使は現世に干渉してはならない。十三番、お前はその規則を破った」


 女が脛をさする俺の胸ぐらをつかんで眼前に引き寄せた。

 サングラスで目元は見えないが、小さな鼻を膨らませて憤怒している。性格以外は完璧なのにもったいないと彼女の整った顔を見ながら呑気に考えていると、女は言葉を続けた。


「十三番。お前は臆病だが、その分、頭が回る。なぜ禁忌を冒した?」

「好きな女性を、麗花って言うんですけど、彼女を助けたかった」

「その女のどこが好きなんだ?」


 彼女が俺に顔を近づけてくる。

 生前の人の恋路に踏み込むとは、悪魔と呼ばれた女にしては珍しい。

 俺の弱みを握るつもりかと邪推したが、彼女に逆らう気はないし、彼女も俺を利口だと理解している。嘘をつく理由がなくなり、惚気話を正直に話した。


「落ち込んでた俺を麗花が励ましてくれたんです。それで、惹かれたと言うか……」

「なるほど、お前の事情は分かった」


 ため息をついた女は俺を突き放すと、懲罰房の鉄の扉を開けた。


「私の減棒は確定だ。お前の処分は後で連絡するから、宿舎で身体を休ませておけ」


 不貞腐れた様子で去る彼女の背中に、「寛大な御心に感謝します」とお世辞を告げた。


 懲罰房がある軍庁舎を抜け出すと、澄みきった星空が一面に広がった。雲海の水平線上に冬の大三角形が広がる幻想的な光景を麗花にも見せてやりたいと思うのは些か不謹慎だなと苦笑する。

 雲の合間に浮かぶ大理石を踏みしめながら、一等星シリウスの真下に灯る宿舎の明かりを目指すと、十二番の秋山とすれ違った。


「秋山、元気そうだな」

「栗原さんこそ元気そうですね。懲罰は大丈夫でした?」

「ああ、剣山の上で三十分正座させられただけだ」

「それは……よかったですね」


 刺傷だらけの脛を見せる俺に、秋山は苦笑いを浮かべた。

 就活に失敗して鬱病で首を吊った秋山は俺よりも大人しく真面目な青年だ。同じ五番隊で番号が近い者同士で、今ではすっかり意気投合した弟分だ。


「ところで、秋山君は今日いくら稼いだのかな?」

「栗原さん、たかる気ですか?昨日も金がない、空腹は嫌だって言ったばかりなのに」

「頼むよ!爺さんの魂一個分、三百円じゃ一日すらもたないんだ」


 仕事に対して報酬が与えられる――世界で一番信仰されている思想宗教が『資本主義』に変わってから、世界中の魂が集う天国の価値観は大きく様変わりした。

 死ぬことはないが、空腹感や自己顕示欲だけは残る。天国に食事やブランド、金が誕生するのに時間はかからなかった。

 生前に金を稼げば兵役を免れ、本物の天国を享受できる。俺たちみたいな負け犬は例外なく兵舎に送り込まれる。

 勝ち組と負け組――天国は地上と同じ残酷で平等な世界になった。

 だが、俺は決して金のために働く訳ではない。


「栗原さん、精霊馬しょうりょううまですよ」


 秋山が雲の水平線へ落ちるほうき星を指差した。

 その正体は胡瓜の馬。馬が引く車の窓から丸々と肥えた老紳士が顔を覗かせていた。

 胡瓜の馬と茄子の牛――かつては家へ戻る先祖のために子孫がお盆に用意した供え物だ。時代と共に地上で用意されなくなり、今や天国で三十万円で売られるようになった。


 地上に残した大切な人に会う唯一の乗り物だ。


「あの人、総理大臣じゃないですか?ほら、一ヶ月で総理を辞めた人」

「俺たちもあれに乗れるかな?」

「麗花さんでしたっけ、栗原さんの彼女」

「あれに乗れる頃まで、俺のことを覚えてくれてるかな?」


 精霊馬が夜空に描くほうき星の尾が雲海に消えた頃、ようやく秋山は口を開いた。


「きっと覚えてますよ、僕たちが忘れない限り」


 秋山の励ましを聞きながら、三百円を握りしめる右手にチクリと痛みが走った。痛みと空腹と羨望を嘲笑で誤魔化し、秋山と別れを告げた。




 規律を破った俺への処遇はただの減棒だった。

 魂一つ二百円の格下げで済んだのは上位三隊に属する智天使ケルビムの慈悲に違いない。

 女主天使から召集をかけられて軍庁舎へ向かう道中、秋山が背後から声をかけてきた。


「異動にならなくて良かったですね、紛争地は激務と聞きますから」

「あの女と顔を合わせるのは最悪だがな……」


 自殺率の高い日本は孤独死を迎えた魂の回収に手間がかかるが、紛争地は死者が後を絶たず天使不足と聞く。どちらも一長一短だが、あの女のことを思うと、後者の方が俺の性に合っているかもしれない。

 愚痴をこぼした俺に秋山が疑問を投げてくる。


「でも、何で異動じゃないんですかね?」

「さぁな、智天使の慈悲だろ?」

「いやいや、五日前に霧島さんが南アフリカの管轄部隊に左遷されたばかりじゃないですか」


 深く考えない俺に激しく首を振って否定する秋山。彼の判断はいつも正論で答えに窮してしまうのが困りものだ。


「それは人手不足だからだよ。君のようなやんちゃ坊主の手も借りたい状況なの」


 背後からの声に何気なく振り向いた瞬間、全身の毛が逆立った。横一文字の傷痕を持つ角刈りの男に、秋山はいつの間にか俺の背後に隠れて震えていた。


「大島だ。山橋組幹部でムショ歴六年。鉄砲玉の若い衆に切られたこの傷で死んじまって、今は能天使パワーズ。よろしゅう!」

「山橋組って暴力団じゃないか!どうして天国にいるんだよ!」

「こう見えて俺は信心深いんだ。念仏往生、誓願の心なりって知ってるかい?」


 下品に笑う大島と泣き叫ぶ秋山を余所にこの人が上司かと一人得心する。

 大天使は戦場で天使を指揮する戦闘員。彼がいると言うことは戦いの始まりを意味する。


「早く行かないと主天使様に怒られるぞ」 


 爽やかに走り出すヤクザの背中を追いかけた。




 軍庁舎の会議室で整列しながら待機していると、女主天使が姿を現した。恨めしげな視線を俺に向けて手を叩くと、プロジェクターが降りて来た。


六墓りくはか村廃旅館の怨霊討伐作戦を説明する!耳の穴をかっぽじってよく聞け!」


 戦国時代の落武者が築いた六墓村にできた温泉旅館はバブル景気が弾けると共に廃れ、忘れ去られた魂の悲しみが集い生誕した怨霊の住処に変わり果てた。

 怖い物見たさに訪れた多数のインフルエンサーが不可解な交通事故で亡くなり、その魂が怨霊に取り込まれている。


「天使は人を助ける存在、人に害なす怨霊は退治しなければならない」


 そう力説する女主天使は作戦を告げた。


「怨霊は大量の触手に覆われている。その中心にある怨霊の魂を撃ち抜く」


 偵察部隊が撮った怨霊がプロジェクターに写し出される。大木のように太い触手が旅館に絡まった心臓の形をした化け物だ。

 その前に二人の能天使が現れた。ヤクザの大島とモアイ像みたいな男が俺たち下っ端を品定めするように眺めた。


「私は元自衛隊員の将門まさかどだ。今回の作戦では観測手を務める」

「狙撃手で元ヤクザの大島。くれぐれも俺のライフル銃に当たるなよ」


 俺たちに銃口を向けてはしゃぐ大島を将門が嗜めた。二人の能天使に秋山が珍しく手を上げて質問した。


「あのぉ、僕たちの任務はなんでしょうか?」

「囮だ」


 したり顔で笑う大島の言葉にどよめきが走る。その隣で将門が淡々と作戦を告げた。


「諸君ら天使には怨霊の気を引いて触手をできる限り剥がしてもらう。出てきた怨霊の本体を大島能天使がライフルで仕留める。以上だ」

「蝿のようにしつこく飛び回れ。勝てば金が出るし、MVPには褒賞金も出る。怪我しても手当ては出ないから注意しろよ。後、くれぐれも主天使様のお手を煩わせるヘマはするなよ」


 あの女は参加しないらしい。戦地に向かわず天国で高みの見物とは良い身分だと毒づく。


「以上って……怨霊に捕まったらどうなるんです?助かるんですか?」


 収まらない天使たちのどよめきに、「知らねぇよ」と大島が鼻で嘲笑う。

 上は下っ端天使を塵芥ちりあくたとしか見ていないが、下っ端にも知る権利がある。ましてや、戦争経験のない日本人集団が初めて銃を片手に怨霊と戦うのだ。不安に駆られた他の天使に同調して俺も声を荒げたが、二人の能天使は黙して語らず、ただ一点を見つめていた。


「知りたいなら教えてやる」


 二人の視線の先に佇んでいた女主天使が歩み寄る。整列する俺たちの顔を一瞥して、プロジェクターの電源を切った。


「怨霊に混じった百足や蜂やあぶに睨まれ、犬や熊や猪に全身を舐められ、猿や人間から身体を凌辱され、怨霊の悪意に心を折られ、怨霊の慟哭に脳を侵され、やがて意識が混濁していく」


 彼女の独白はあまりにも生々しかった。

 能天使のヤクザですらばつの悪そうな顔をして突っ立っている。


「なぜそこまで詳しい?」


 気づけば俺は彼女に尋ねていた。女はなぜか物悲しげな目を俺に向けながら答えた。


「かつて怨霊に呑み込まれたことがある。寸前で助けられた私も今や立派な大天使だ」


 彼女はぎこちなく微笑んだ。誰も笑わないし、ジョークだとしても笑えない。


「作戦会議は以上だ。君たちの健闘と無事を祈る」


 そう言い残し、女は静まり返る会議室を去った。再びざわめく同僚を将門が宥める中、俺は彼女を追いかけた。廊下の遥か先をポツリと歩く彼女の背中はいつもより小さく見えた。




「各人、配置についたか?」


 支給された無線機から流れる将門の確認に「十三番、配置につきました」と返事する。

 自然豊かな緑に囲まれた六墓村の夜は薄気味悪い暗闇に包まれていた。そこに赤い心臓、もとい、怨霊が不気味な光を放って鎮座している。


「作戦開始」


 将門の合図を皮切りに木陰から天使が飛び出した。すっかり怯えた秋山の首根っこをつかんで俺も飛び出す。

 天使の誰かが赤い心臓に向けて銃弾を放った。魑魅魍魎の悲鳴が心臓の中で反響し、叫びとも分からない奇声となり、幹のように太い触手を伸ばしてきた。


「動きましたよ、栗原さん!」

「触手から目を逸らすな、それだけだぞ!」


 元自衛官の分かりやすい指示と共に俺は秋山を宙に放り出した。秋山が翼を広げるのを確認してから空高く飛び上がると、二人の間を赤い触手が通り過ぎた。そこに銃弾を撃ち込むと、触手がもがき暴れる。それを無視して、他の触手を剥がしにかかる。

 度重なる飛行訓練と単調な触手の動きで翻弄は着実に進んでいた。


「十三番!油断するな!左上に飛べ!」


 無線機越しから名指しで怒鳴られる。

 流石は元自衛官、慢心の恐ろしさを心得ている。

 指示された方角へ飛ぶと、俺の足元を大木のような触手が凪ぎ払った。

 触手の引き剥がしは順調だ。心臓の姿だった怨霊は触手が剥がれてタコの姿になっている。

 その中心にひときわ憎悪の色に光る魂が見えた。あれをこの山岳地帯の狙撃ポイントから大島能天使が狙っているのだろう。


「十三番、お前の真下にある触手を上方右斜め四十五度に誘導しろ!」


 将門からの指示が細かくなってきた。

 指示通りにその触手に銃弾を何度も撃ち込んで誘導する。


「皆さん、あと少しなのでお待ちくださいねぇ」


 無線機越しから流れる呑気な大島の声に苛立ちつつ誘導を続けると、不意に秋山の姿が視界に入った。

 六墓村の入り口を見て何やら慌てているようだ。

 注意しようと無線機に手をかけた瞬間、二つの光に気づいた。草木を掻き分けながら呑気に戦地を歩く白い光に目を凝らすと、軽装の青年が二人歩いていた。


「インフルエンサーの莫迦が!」


 戦地に遊びに来た民間人に秋山は一早く気づいた。人に干渉できない規律を知る秋山は板挟みになり、動転のあまり敵に背を向けたのだろう。

 秋山の腹を幹ほどの大きさの触手が貫いた。


「秋山!」

「十二番!何があった!応答しろ!」


 触手が狩りの戦利品を喜ぶように秋山の身体を宙に振り回した。

 腹を貫かれた程度で天使は死なない、秋山は激痛で気を失っているだけだ。そうと分かっていても、戦場に慣れていない俺たちには凄惨な光景だ。

 部隊の誰かから一つの悲鳴が起こり、和が乱れる。その隙を突いて触手が凪ぎ払われ、三人の天使が宙に放物線を描いた。地面に叩きつけられる鈍い音が澄み切った月夜に響き、部隊は更なる混乱に陥った。


「麗花……」


 俺は心の中で呟き、将門に報告する。


「十三番です。人間が二名、こちらに来ます」

「十三番は人間の意識を別に引き付けろ!他は触手の動きに集中しろ!」


「曖昧な指示出しやがって」と能天使にぼやきながら地上へ降り立った。

 あらぬ方向に身体がねじれた同僚が倒れていた。死ぬことはないと信じて小石を拾い上げると、平和ボケしたインフルエンサーに投げつけた。悶絶するインフルエンサーに舌打ちして飛び立つと、俺の隣を大島が


 二人の能天使が細い触手に捕まっていた。


 唖然としながら飛ぶ俺に大島が声を張り上げた。


「くそっ、あの野郎!馬鹿なふりして触手を地中に隠してやがった!」


 大島が俺にライフル銃を投げた。胸元に収まったライフル銃を慌てて受け取った俺に大島が怒号を飛ばした。


「お前が撃て!」

「無理だ!」

「引き金を引くだけだ!他の天使はそれどころじゃない!」


 触手に捕らわれ気絶する観測手の将門、彼からの通信が途絶え統率が乱れた天使、怨霊に引きずり込まれる秋山――


「秋山!」


 空へ一気に翔け上がった。

 大島の声が聞こえなくなるまで飛び上がり、怨霊に向かって急降下する。触手に凪ぎ払われた天使の悲鳴を聞きながら、怨霊が宿る旅館に飛び込んだ。

 虻の羽音が耳の奥まで響く。蜂の無機質な複眼に見つめられているようだ。


「あれだ!」


 怨霊の魂を見つけて叫ぶと同時に触手が脇を掠める。

 その先に腹を貫かれた秋山の姿があった。怨霊の中心へ引き寄せられている。

 怨霊は秋山を餌にするつもりか――


「秋山!今、助けるぞ!」


 ライフル銃を構えるが、手の震えが止まらない。秋山と怨霊の魂がスコープ鏡の中でぶれて重なってしまう。

 ライフル銃で撃たれても死なないが、痛みは残る。俺には想像もつかない痛みを秋山に負わせてしまう。最悪が頭を過り、引き金にかけた指が緩んでしまう。


「撃て!翔!」


 誰かの声がした。

 その声に合わせて引き金を引いた。

 怨霊の慟哭が突風となって俺の身体を吹き飛ばした。天使の翼でも制御できなくなった俺を誰かが受け止めた。


「無事か?十三番」


 女主天使が穏やかな笑みを俺に向けていた。

 線香花火のように怒りを燃やし霧散する怨霊を二人で見届けた。

 俺たちの戦いはようやく終わった。




「麗花に会って来ます」


 精霊馬に乗り込む俺を女主天使は止めなかった。

 六墓村の怨霊退治で五番隊は壊滅した。人員を新たに補充する必要があり、五番隊に休暇が与えられ、功労者の俺にボーナス三十万円が支給された。

 怪我を治療するため同僚が次々と入院する中、秋山だけは別室に運ばれた。


「蜂がぁ、あっちいけぇ」


 怨霊に近づき過ぎた秋山は鎖で巻かれ、ベッドでのたうち回っていた。

「身体を戻す奇跡は得意じゃが、心は戻せんわ、ハハハ」と頭を掻く力天使ヴァーチュズにしか頼れないのは悔しいが、秋山が良くなるのを祈るしか俺にはできない。


 精霊馬がようやく雲海を抜けた。


 焼け跡が残る地上が広がり、いよいよ麗花に会えると思うと胸が高鳴った。精霊馬が麗花の引っ越したアパート前に降り立ち、玄関でひたすら待ち続けた。

 日が沈みかけた頃、麗花の影が俺の足元まで伸びてきた。


「麗花」


 彼女に声をかけた瞬間、歩み寄る足が止まった。


「無茶するなよ、麗花」

「ありがと、庄司」


 麗花の隣を歩いていたのは彼女を救った頼れる消防士。エコバッグを片手に麗花と肩を組み、どこか誇らしげに歩いていた。

 お腹を撫でる麗花が俺の身体をすり抜ける。赤ん坊の笑い声が聞こえた気がした。

 アパートに仲良く入る二人を見て、その場で膝から崩れ落ちた。


「どうして……」


 彼女は最後まで俺に気づくことはなかった。彼女は俺の方を振り向くことはなかった。

 俺の姿は見えないのだから、仕方がない。

 吐き気を堪えながら自分に言い聞かせる。


 ――だけど、麗花は俺を忘れていた。

 たった七日で、麗花は俺を忘れていた。


 嫉妬が心の奥底から沸き上がる。

 一つの魂が俺の周りを漂う。

 ざわめく憎悪の声に混じって聞こえる怨霊からの誘惑に耳を塞ぐ。

 魂がまた一つ俺を取り囲む。

 耳にこびりついた憎悪と心に目覚めた嫉妬が憤怒となってまぶたの裏で俺を嗤う。

 魂がまた一つ俺にまとわりついた。

 意識が薄らいでいく。

 期待した俺が馬鹿だったと諦めた俺は包み込んで来る怨霊にその身を委ねた。


「翔!大丈夫か!」


 まとわりついていた魂が弾け飛んだ。天へと逃げ惑う魂の影からあの女が現れた。


「主天使様?どうしてここに?」


 戸惑う俺の前で女はベレー帽とグラサンを脱ぎ捨てた。悪魔と呼ばれた女は天使のように微笑んだ。


 かつて愛した女性がそこにいた。


天音あまね……」


 気づけば俺はその女性の名を呟いていた。

 麗花と会う前、結婚を誓った後にトラックに引かれて亡くなった米山天音よねやまあまねが確かにそこにいた。

 ふらつく身体を奮い立たせ、天音の細い腕をすがるように掴んだ。


「どうして……」

「怨霊に捕まって心を失って、翔のこともずっと忘れてた」


 天音がそっと俺の頬に手を伸ばして優しくさすった。就職面接に落ちた俺を励ましてくれたあの時の彼女の仕草そのものだった。

 懐かしさに止めどなく涙が溢れる。


「あなたを見て思い出したけど、その時には、翔に本当のこと言えなかった」


 涙を拭い、「本当のこと?」と天音に尋ねる。


「私、麗花に突き飛ばされたの」


 声を喉に詰まらせた。


 天音を亡くして悲しみに暮れた俺を励ましてくれた麗花が天音を殺した――


「麗花、あなたのことが好きだったもんね」


 天音の嫉妬めいた呟きに呼吸が荒くなる。天音は優しく残酷な現実を更に突きつける。


「あなたを突き飛ばしたのは庄司さんよ。巡回中にこの目で見たの」

「えっ……嘘だ」


 トラックの光が映し出した影の輪郭は、確かにあの消防士の体格と似ていた。

 だが、炎の海に単身飛び込み、麗花を救助した正義感ある消防士が人殺しをするものか――

 理解に苦しむ俺に天音は慈しみの笑みを浮かべた。


「最近のアパートには表札も名札もないのよ?」


 天音の指摘に俺はその場で尻餅をついた。

 あの混沌とした火災現場でアパートの住人の名前を呼べるのがおかしな話だった。

 、無理な話だ。

 乾いた笑いが北風に流された。


「天音……ごめん」

「気にしてないわ」

「……ありがとう」

「どういたしまして」


 見上げると、天音が俺の腕を掴んでいた。

 大天使の大きな翼を広げる彼女の背中を見て、俺はゆっくりと立ち上がった。


「天国へ帰ろう、翔」

「ああ、帰ろう。天音」


 二人は天へ飛び上がった。似た者夫婦が暮らすアパートが米粒のように小さくなる。


「お腹の子ども、可哀想だな」

「仕方ないわ。いくら主天使でも過去は変えられないもの」


 ポツリと呟く俺に天音は毅然と同情した。

 同じ殺人をした夫婦に同じ殺され方をした天使。

 似た者同士だなと思わず苦笑する。


「何よ?」

「いや、何でもないさ」

 

 薄雲を突き抜けると、ベールのように包み込む夕焼けと二人の門出を祝福するように輝く星空が一面に広がった。


「綺麗……」

「ああ、天音に見せれて本当に良かった」


 その光景は天国の始まりとなった。

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