第1話 もう、忘れ物はしない

 学校のチャイムが鳴った。

 教室を見回すと、烏三子が私と帰りたがっていることに気づいた。

 そうならないように、私は少し早めに教室を出ることにした。早足で廊下を歩いて校門をくぐった。念のため振り向くと、彼女の姿はなかった。よかったわ、これで無事に帰れそう。

 見慣れた街を歩きながら、私は青空を見上げた。金色の髪が風になびいて、真夏の強い陽射しに全身を浴びる。

 家に帰る途中、何かが違う気がした。なぜかリュックの重さがいつもより軽く感じる。

 立ち止まってリュックを開けると、筆箱を忘れてしまったことに気がついた。


「や、やばい! 見つけられないと今日の宿題ができないわ!」と私は思いながら、学校に向かって全力疾走し始めた。


 走っている間に後ろ髪が乱れる。つまずかないように、私は走る速度を少し落とした。

 本当に馬鹿だな、私。こんな大事なものを忘れるとは思わなかったのに。

 運良く、門扉はまだ開いているようだ。腕時計を見ると、走り始めてから十分も経っていなかった。

 安堵の溜息を吐いて、ゆっくりと校門をくぐった。

 校内は足音さえも響き渡るほど静かだ。正直言って、私は少し怖い。

 教室のドアを開けようとしたけど、なぜか鍵がかかっているようだ。授業が終わってから先生が閉めたのかな?

 私は戸惑って走り出した。どこに行けばいいのかさっぱりわからなかったから、まずは校庭に行くことにした。部活をしている生徒がまだいるはずだよね?

 廊下を出ると、校庭から誰かの声が聞こえてきて私は安心した。その人はドアを開けてくれるんでしょう? やっと忘れた筆箱を取り戻して帰れるかと思いきや、校庭に着くとその安堵はすぐに消えて、鳥肌が立った。

 空が急に曇って周りが薄暗くなった。見上げると、空は青色から灰色に変わって、黒い雲が流れる。風が強くなって、髪が前になびいて視界を遮った。


「ふふふ。皆はもう帰ったよね……。じゃ、始めようか」


 慌てて校庭を見渡すと、真ん中に立っている生徒が目に入った。私はうずくまって、ゴミ箱の後ろに身を隠した。風音のせいで声はよく聞こえないけど、その人は何かを唱えているようだ。

 唱え終えると、校庭から紫色の炎が燃え上がった。呪文だったのか?もしかしてその生徒は魔女なのか?

 目を疑って瞬いた。何らかの錯覚だったはずなのに、再び目を開けると炎はさっきよりも勢いよく燃えている。私は悲鳴を上げたい衝動をこらえて、膝に顔を埋めた。        

 どうしよう!?

 顔を上げると、彼女と目が合った。その赤目に睨まれて、私は気がついた。


ーー校庭に立ち尽くす生徒は、烏三子であることに。


 つまり、

 それを反芻してから私はうろたえた。

 その背中から大きな黒い翼が広がって羽ばたく。


「ま、待って!! つまり、烏三子は中二病じゃなくて本物の堕天使なのか!?」


 しまった。思わず叫んだ。烏三子がくすくすと笑いながらゴミ箱を蹴り飛ばした。


「よく来たねぇ、我が眷属よ!」


 身動きが取れない。立ち尽くして身震いするしかできない。烏三子はだんだん近寄ってくる。私は徐々に後ずさった。


「逃げないでよ、日向」


 そもそも逃げようとしなかったけど。

 烏三子は一歩ずつ距離を詰める。

 私は一所懸命に恐怖を乗り越えて、やっと逃げ出した。学校まで全力疾走した時と同じくらいの速さで走った。しかし、校庭を出ようとすると立ち止まった。なぜなら、紫色の火が逃げ道を塞いでしまったからだ。それに触れたら死ぬかもしれないので、私は逃げるのを諦めた。

 振り向くと、烏三子が目の前にいた。


「逃げようとしても無駄だよ!これは吾輩の結界なのだ」


「け、結界?」


 手を伸ばそうとすると、魔法で作られたような壁にぶつかった。

 よくわからないけど、私たちは何らかの魔法陣の中にいるようだ。


「そうよ。でも誤解しないでね。日向がここに来てよかった。これからは一緒に堕天使部活ができるんだ」


 堕天使部活とは一体何なのか?


「吾輩は天国に帰りたいんだよ。そのためにある儀式を行わなければならない。日向と一緒ならきっとできると思うよ」


 天国!? それより、一体何を企んでいるのでしょう……。なんにせよ、私を巻き込みそうだ。


「そ、その儀式って何をするの?」


 答えをあまり聞きたくない気がした。


「どうせ生贄が必要らしい。でも、日向が生贄なわけではないよ」

「じゃ誰が生贄になるの?」

「吾輩もよくわからない。きっとどこかに手がかりがあると思うけど」


 周りを見た。彼女と結界の間に挟まって、逃げ道はないようだ。ここで断ったら殺されるんでしょう。そう、選択肢がない。


「まあ、手がかりを見つけるくらいできると思う。手伝ってあげるわ。まだ死にたくないんだよ……」


 烏三子は笑顔を見せて、私はほっとした。できるだけ早く教室に行って筆箱を取り戻したい。できるだけ早く平凡な人生に戻りたい。まあ、後者はもう無理だけどね。


「あのね、烏三子に頼みたい事があるんだけど」

「何かな……」

「教室に筆箱を忘れたんだけど、もう鍵がかかっているようだ。ドアを開けてくれないかなぁ、と思って」

使には楽勝だよ!とにかく、せっかく眷属になってくれたからドアを開けるよ」


 一緒に廊下を歩いて教室に着いた。烏三子は右手に魔力を込めて取っ手を回すと、ドアがからりと開いた。そんな力は恐るべきものだ。もし彼女が私の住所を知っていたら、勝手に入るかもしれない。絶対に知られてはいけない。

 教室に入ってやっと筆箱を手に取った。私は、いや、と誓った。烏三子に礼を言ってから学校を再び出た。振り向くと、彼女が手を振っているのを見て、私は歩きながら安堵の溜息を吐いた。

 もう私を追いかけたりはしない……よね?

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