第46話

 今にも、黒い風がハッシュを取り込もうとしていた時だった。


「待って」


 ハッシュの前に立ち塞がる様に影から現れたマーガレットとニル。その姿を目にした瞬間、アルチアの余裕のある顔が、更なる嬉々を描いた。

 赤い唇が、更なる愉悦を作り出す。


「マーガレットじゃない」


 しかし、その表情は、あっという間に消え去った。

 憎しみにも似た、重苦しい表情を浮かべている。


「私をこんなくだらない夢の中に陥れた挙句、肉体まで奪った償いは、してくれるのでしょうね」


 麗人の顔は消え去った。憎悪に塗れ、悪魔の如く古代の魔女を体現した姿、とでも言えるだろう。


 アルチアの望みは、本来ならマーガレットの心臓だった。自らに肉体に若く純粋な力を取り込めば、モルガナの力すら上まる、そう考えていたのだ。

 だが既に、アルチアの肉体は闇に溶け、現世うつしよにすら存在しないのだ。

 計画が狂った所では無い。


 現世に戻るには、マーガレットの肉体を奪う事だけが手段になり得る。

 しかし、それではモルガナには敵わない。


 だから、他の楽しみを考えた。


「貴女の身体に入った私を見たら、モルガナは娘を殺すかしら?それとも……」


 マーガレットの反応を見て楽しもうとしたのかもしれないが、マーガレットもニルも小さな表情の機微すら見せない。

 ただ二人は手を繋いで、モルガナを静かに見据えていた。


「貴女は此処から出られない」


 ゆっくりと近づくマーガレットに、アルチアは更なる憎悪を向けた。

 なぜ怖がらない、なぜあの日の様に怯えない。

 アルチアの中で焦りが募る。 


「此処は、私の夢」


 それが何だと言うの?とでも言いたげに、アルチアの身体が変化する。全身が黒い風となって、マーガレットへと向かう。


 マーガレットとニルに風が纏わりつこうとするが、それよりも先にマーガレットは胸の懐中時計に触れていた。

 その天頂部にあるスイッチをカチリと押すと、懐中時計の蓋が開く。


 チク、タク、チク、タク――

 マーガレットの手の中で、時を刻む音が鳴り響いた。

 次第に、その音は大きくなり、耳の中を埋めていく。

 そして、ボーン――と古時計が時刻を報せる音に変わる。

 更に大きく、数が増すと、音の反動でアルチアの動きが止まった。


 黒い風に姿を変えたはずなのに、アルチアは人の姿へと戻っていた。

 アルチアは、何が起こったのか判らないと言った顔で、呆然としている。

 しかしそれも束の間、マーガレットをギラリと睨む。

 睨むだけ。アルチアの身体は動かなくなっていた。 


「あの日、私は貴女の領域を侵した。あれは、私の力が死を感じて偶然、貴女の力を上回っただけかもしれない」


 でもね、と、マーガレットは動けなくなったアルチアにニルと共に更に近づいた。


「お母さんが言ってたの。夢の中では、私の思うまま」


 どれだけ強い魔女でも、意味は無い。 

 マーガレットが自身の足下に目を落とす。月明かりに照らされたマーガレットの影がモゾモゾと蠢き始めた。


「コラプスの魔女って知ってる?」


 アルチアの余裕は消えていた。その意味を聞き返さずとも、魔女ならば容易に汲み取れるだろう。魔女は最後に大鍋に落とされるのだ。

 大鍋はどこにも無いが、要は――


 モゾモゾ蠢くだけだった影が、一斉にアルチアに纏わりついた。

 アルチアが悲鳴を上げる間もなく、覆い尽くしてしまうと、アルチアの形だった影の塊が出来上がる。

 それは、中でアルチアが暴れているかの如く、モゾモゾ動くとその形はどんどんと小さくなっていった。

 どんどん、どんどん、小さくなって、しまいには掌サイズにまで。

 マーガレットが影に向かって手を差し出すと、その手の上にちょこんと影が何かを吐き出した。

 小さな、小さな、ブリキのネズミの人形が、マーガレットの手の上でちょこんと乗っていた。ご丁寧にネジまきまでついて。


 誰かがネジ巻きしなければ、きっと永遠に動けない、弱々しい姿だ。

 流石に大鍋に落とすなど、マーガレットの思考には浮かばない。

 でも、もう動けない。何より、この夜の国が消え去れば……


「マーガレット、それは僕が預かるよ」


 行っておいで、とニルがマーガレットの手を離して、ハッシュを指差した。

 その指差す方には、傷だらけで、血まみれで、今も息絶え絶えの姿のハッシュが大木に凭れて、マーガレットを見ていた。


「あっちは僕が様子を見るから」


 そう言って、ニルはもう一方で倒れていた二人に目を向けた。アルチアの力が消えたからか、ゆっくりと肩を支え合いながら立ちあがろうとする二人の姿がある。

  

「何にもしない?」

「しないよ」


 じっと、悪戯にマーガレットはニルを見る。


「じゃあ、お願いね」


 ニルは小さく頷いたのを確認して、マーガレットは急いでハッシュに近寄った。


「ハッシュ、大丈夫?」


 近くで見ると、毛にべっとりと血がついて余計に重症に見えるものだから、あまりの痛々しさにマーガレットは眉を顰めた。


「そんな顔すんな、夢から出たら、怪我なんて消える……」


 傍に座り込んだマーガレットに、ハッシュは手を伸ばして頭を撫でた。身長が伸びて少しばかり頭の高さに違和感を感じるも、ゆっくりと、その感触を実感しようと何度も撫でていた。


「マーガレット、夢から覚めたら、言わなきゃならん事がある」

「今じゃダメなの?」

「……後でだ。それよりも今は……」


 ハッシュの手が止まり、その手を支えにハッシュは座り直す。痛みに苦悶する表情を浮かべながら、その目線の先には、ニルの姿だ。


「おい、クソ猫!さっさと俺のライターと、マーガレットのスイッチを返せ」


 メレディスとカートを気に掛け、何か話をしている様子だったが、ハッシュの大声で、今度はニルが顰め面でもしていそうな素振りで、ゆっくりと振り返った。


「うるさいなぁ、もう返したよ」


 ハッシュは上着のポケットを探った。慣れた利き手の右ポケットに、覚えのある金属の感触を感じて、ハッシュはポケットから手を引き抜く。

 銀色の本体に小さなガーネットの飾りが嵌まった、ジッポライター。

 ハッシュは、慣れた手つきで蓋を開けるも、まだ火はつけない。


「マーガレット、スイッチは……」

「大丈夫」


 そう言って、マーガレットは空を見上げた。

 アルチアを完全に消滅させるには、この夜の国を閉ざす必要がある。

 あいも変わらず、空には満月と、星空が広がっていた。


 見上げていた目線を、今度は正面に向ける。

 その目線の先は――


 夜の国に崩壊が始まった。

 世界の端っこから崩れていく感覚が、マーガレットとニルに伝わる。

 砂の城が崩れ、漂う海の波に消えていく。

 消えゆく先は、暗闇で、虚無だ。


 ハッシュも何となしに感じたのか、ゆっくりと起き上がると、マーガレットを庇い抱き寄せ、メレディスとカート、そしてニルを見据えた。


「そんなに睨まなくても、マーガレットの身体を奪おうなんて考えていないから大丈夫だよ」


 答えたメレディスは、ふわりと笑う。それまでの悪意あるオオカミとは違った表情にマーガレットが驚いたのは言うまでもない。


「マーガレット、もう帰りな、待ってるんだろ?」

「メレディス、カート、ありがとう」


 実直にお礼を言うマーガレットの言葉で二人は照れ臭く笑う。

 二人も、アルチアと同じで既に肉体は存在していない。この夜の国と一緒に消える運命だ。

 じゃあな、と手を振って、何処かへと消えてしまった。

 二人の姿が見えなくなると、マーガレットは目線を下へと下げる。

 猫の人形が、寂しげにマーガレットを見つめて近づいた。


「マギー、さよならだ」

「……うん」


 ニルは、ブリキのネズミを自身の身体の継ぎ接ぎの隙間から、綿の中に押し込むと、空いた手を大きく広げた。

 マーガレットは、ニルに合わせてしゃがむと、ニルをぎゅっと抱きしめる。


「ありがとう、ニル」


 その瞬間、崩壊は加速度的に進み、あたり一面暗闇になった。

 ニルは崩れゆく砂と共に消え、抱きしめていた温もりだけが僅かに残った。

 何もない、無。

 上も下も、右も左もわからない。

 マーガレットは再び立ち上がると、その無を一望する。


 マーガレットの背後で、小さな明かりが灯った。

 仄かだが、ハッシュのライターで闇は照らされる。


 マーガレットも懐中時計に触れた。

 チク、タク、チク、タクと時計の針がしっかりと伝わる。

 そのまま、瞼を閉じて、十秒数える。


 1、2、3、……7、8、9……10


 マーガレットが数え終わると同時、暗闇から最後の灯りが消えた。

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