第45話

 クローゼットのお化けと称された暗闇は、全てを飲み込んだ。

 アルチアも、その屋敷も、アルチアに従っていた者達も。助けようとしたメレディスとカートもだ。

 何もかも飲み込んで、そこに残されたのは、恐怖によって自らの力に取り込まれてしまった、マギーの身体だけだった。


 そして、マギーは夜の国で、目を覚ました。

 小さなベッドは夢心地を誘って、起き上がってもなおゆらゆらと揺れるマギーを支えるには不十分だった。

 マギーは、ぼやけた視界と思考で考える。

 いつから、眠っていたんだっけ、と。


『やあ、マギー』


 暖炉のオレンジ色を背後に宿しながら、ニルがそっとマギーを覗き込んだのだった。


 ◆


 そう、あの日。マギーにとって、意識が混乱する中、現実と夢を取り違えてしまったあの日。

 夢の世界に飲み込まれた者達は、みんな御伽話の登場人物になってしまったのだ。

 アルチアは古城で眠る魔女に、メレディスは悪事を企てるオオカミに、マギーは夜の国を旅する女の子に。


 此処は、マギーの夢。

 幼いマギーがニルと一緒に星屑物語を模して創った、完璧な世界。

 ここは、マギーの領域。そして、マギーに力を与えられたニルの領域でもある。

 ニルは、全てを夢に飲み込んだ後、魔女の概念を消してしまった。

 魔女の概念さえ失くして仕舞えば、例え、優れた魔女だったとしても、この世界の前では魔女アルチアも、御伽噺の登場人物でしか無くなるからだ。


「外だと、守ってあげられない。僕は、マギーとずっと一緒にいたいんだ」


 おもちゃ達は、マギーに命を与えられた者達。ニルも、その一人だ。

 マギーの一番近くにいて、いつも一緒。

 誰よりも、マギーの力をよく知り、その扱い方を知っている。

 だからこそ、ニルはそのボタンの目と尻尾を揺らして不満を訴えた。

 この世界が、どこよりも安全だと。

 その安全の為には、マギーが帰りたいと想う相手も記憶も、邪魔だった。


「もう一回、私の記憶を消す?」


 ニルは、項垂れながらも首を振った。

 結局、記憶は消える事はなく深く深く眠るだけ。

 大きな衝撃に耐えられずに、元に戻ってしまうのだ。

 ならば、マギーの魂を新しい器に入れて、完全な御伽の国の住人に変えてしまえば永遠に一緒にいられる。

 そう、考えたけれども、やっぱりニルには出来なかった。

 

 それは、きっとマギーじゃないから。

 

 ニルの変わらない筈の表情が、苦しそうで、その想いに押しつぶされている様。それでも何とか、ゆっくりと息を吐いては顔を上げた。


「行くんだね?」

「うん」


 今、夜の国は崩れかかっている。

 小さなマギーが創り上げた世界は、マーガレットの意志によって、終わりへと突き進んでいた。


「じゃあ、行こう。マーガレット」


 ニルは、いつもの様に手を差し出す。

 フラムへと二人で星を拾いに行った、あの日の様に。


 その瞬間、マギーの姿に変化が始まった。

 ぼんやりと、幻の如く虚いを見せたかと思えば、その姿は身長が伸び、身体つきも大人の一歩手前となった十五歳のマーガレットの姿へと変わった。いや、元の姿に戻ったと言うべきだろう。

 マーガレットはニルと手を繋ぎながら、向かう先を頭に浮かべる。

 その脳裏には、ハッシュの姿があった。


 マーガレットとニルの身体を、月影に照らされた足元の影が包み込む。そうして二人は影に飲まれ、湖から姿を消した。


 ◆


 ハッシュに起き上がる力は無かった。

 鬱蒼と茂る大木の一本を背に、力なく凭れる。

 赤く染まった視界はぼんやりと、黒に包まれた女を映すも、最早恐怖は無く、死神にすら見えていた。


 時間は、稼げたのだろうか。一介の魔女が太刀打ちできる相手でもなく、無謀とも言える行為。あっさりと殺されてもおかしくはない状況で、アルチアは未だハッシュにとどめを刺してはいない。

 その顔は、愉悦に染まっている。

 相変わらずの狂人振り、だからこそ魔女の悪しき因習をなぞって、マーガレットの心臓を喰らおうとした女でもあるのだ。


 白の魔女モルガナの娘。

 それはそれは、強欲の魔女の瞳にはマーガレットが甘美な果実として映った事だろう。

 何せ、アルチアとモルガナは、対等で拮抗している。何かしら弱みでも無ければ、アルチアがモルガナに勝ち得る事は出来なかっただろう。

 だからこそ、モルガナはマギーの為に魔女達の前から姿を消したのだ。

 たった一人の弟子であった、ハッシュすら置いて。


「ハッシュ、マーガレットとモルガナに遺言ぐらい伝えてあげるけど?」


 ニタリと笑う悍ましい美しさを持つ麗人は、ハッシュにとどめを刺さんと近づいていた。

 まあ、いち魔女として偉大な魔女の一人に殺されるなら悪くないかもしれない。

 ハッシュは途切れそうになる意識を保ちながらも、死に向かう思考が止まらなかった。


「アルチア」


 突如、声が湧く。アルチアではない、トーンの高い女の声。

 アルチアは足を止めた。雑木林が続く暗闇で、声はあれど、気配は無い。動くものもない。

 ピンと張り詰めた空気の中で、アルチアは微動だにせず、気配だけを窺っている。

 アルチアには、その声に覚えがあった。

 優秀で忠実だった、配下の一人。


 突如、景色が揺れる。

 揺れたのは木だ。そこら中の大木が、四方八方からアルチアに向かって枝を伸ばした。

 蛇の様に自在に、鞭の様にしなやかに。

 しかし、アルチアには無意味だった。


「メレディス?それとも、カート?どちらかしら。上手く隠れるのね、久しぶりに顔が見たいわ」


 木は全て、アルチアをすり抜け当たる気配も無い。

 それでも、猛攻は続いた。


「出て来てくれないの?悲しいわ」


 アルチアの口端が吊り上がり、一歩踏み出した。足下は土の筈、なのに鳴らない筈のヒールの音が、コツン――と響いた。


 音が響いたと同時、オオカミ姿の女と、ワニの男が、影の中から弾き出される様に現れた。


「クソッ」

「汚い言葉は嫌いよ。ねえ、メレディス」


 アルチアは動けないハッシュに背を向けて、メレディスとカートの元へ向かう。影から吐き出された反動か、動けなくなっていた二人の前で膝を突いて二人の頬を撫でるも、その目は憎悪で一杯だった。


「二人仲良く裏切って、ねえ」


 アルチアに睨まれ、二人は指一本動かなくなっていた。

 力が使えるのに、結局手も足も出ない。

 ハッシュと同じ、頭の中で敵わないという思考が拭えないのだ。下手をすれば、永く傍にいたメレディス達の方が、ハッシュより重症かもしれない。


 アルチアの赤い目が妖しく輝く。

 その目が近づくだけで、メレディスの息は止まりそうだった。

 嫌な感覚。蛇が全身を這って、今にも獲物を飲み込もうとしている様。


 しかし、アルチアは幼子にでも微笑む顔をしたかと思えば、さてと、と言ってアルチアは立ち上がると、背後の弱々しい気配にむけて振り返った。


「それで、ハッシュ。何か思いついたかしら」


 息も切れ切れに、メレディス達の様子を見届けいていたハッシュは、ああ、と淡々と返事をした。


「くたばれ」


 悔いは無い。

 ハッシュは、モルガナと共にマーガレットと並ぶ姿を想い浮かべながら、目を閉じた。


 クスクスと静かな嗤いと共に、ハッシュの周りに無情な黒い風が巻き起こる。

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