第44話
また、水面が揺れた。ゆらゆらと揺れる水面は、波紋を描くだけの留まらず、次第に大きく波打つ。
風もない。
誰も触れてなどいない。
静かな情景の中で、静寂がマギーの心そのままの様に、輝きが元に戻った。
行かなければ。
覗き込んでいた湖から僅かに目線を上げる。その視界の端に、見慣れた存在が映り込んでいた。
ツギハギだらけの、猫。
マギーはゆっくりと、そちらへと頭を向ける。見慣れていたその姿が久しぶりの様で、懐かしくも感じていた。
相変わらず、大きさの違うボタンの目で、マギーをじっと見て、その目が物申そうとしている事は確かだ。
マギーは立ち上がると、ニルに向き合った。
行かないと。そう伝えるよりも、マギーは口から別の言葉が飛び出していた。
「ニル、どうして私の記憶を……」
「マギー、外は危険なんだ」
ニルはマギーの言葉を遮り、近づいた。
「迎えに来たよ。帰ろう」
「でも、アルチアが」
「マギー、身体はアルチアに渡してしまえば良いよ。
ニルが、そっと手を差し出す。
その手を取れば、夢は続く。
だが、マギーは首を振った。
もう、誰かに助けてもらうだけの、小さなマギーは居ないのだ。
姿形こそ小さな女の子のままだったが、その目には、しっかりと意思が宿っていた。
「ニル、急に消えてごめんね。でも、もう逃げない」
マギーは、にっこりと微笑んだ。
「……もう、怖くないの?」
「怖いよ。だけど、このままハッシュが夜の国の住人のままアルチアに殺される方が嫌なの。身体を奪われたら、今度はお母さんが……」
マギーは全てを思い出した。
魔女アルチアに殺されそうになった、あの日。
◆
『逃げるぞ!』
暗闇の中、ボソリと誰かがマギーの肩をゆすった。
確か……メレディスと呼ばれてた。同情の目を向けた女が、今はせっせとマギーを縛っていた縄を解いている。
そして、目を凝らすと、ドアのそばにはもう一人、外の様子を伺う役目の男が一人立っていた。
『早くしろ、勘付かれる前に出るぞ!』
『カート、車の準備は?』
『問題ない、それより縛りは解けたのか?』
『今やってる!』
呆然とするマギーを他所に、男女が必死になってマギーを助けようとしているではないか。アルチアを出し抜こうとしているのか、暗闇の中でも、二人の焦燥は手に取るように浮き出ていた。
『出来たっ!行くよ!』
パンッ――と何か小さく爆ぜる音と共に、縛られていた感覚が消えた。何時間も横倒れの状態でいたせいか、立ちあがろうとすると少しふらつく。
それを見てか、メレディスが、マギーを横から支えた。
『歩けるか?』
マギーは頷く。支えるて力は優しく、気遣いがある。
『何で、助けてくれるの?』
『お前の母親に恩を売りたいだけだ、気にするな』
上手くいけばな、とメレディスは弱々しく笑う。まるで、失敗を恐れているよう。
この屋敷は、アルチアの術式が張り巡らされ、魔力を扱えるのは、その時々、アルチアの許可があった者だけ。
だから、屋敷から出てしまえば……メレディスはマギーを支え歩く中、マギーにそっと説明した。
刻々と、時を刻む古時計の振り子の音だけが、屋敷の中で響く。そこは玄関ホールか、大きな広間は吹き抜けになり天井は遥か上だ。左手には上へと続く階段が、右手には目指していた玄関が、薄暗い中で仄かに光って見えた。
これで逃げられる、そんな希望が見えた矢先だった。
『メレディス、カート、何処へ行くの?』
上階から、艶のある声が響いた。ぞわりと背筋をなぞるような、身体中を絡め取られているような。
メレディスとカートは、その声を聞いた瞬間に動けなくなっていた。その声に囚われた、とも言えるかもしれない。
アルチアの声が、二人を縛ったのだ。
『二人して仲良く裏切るのね、悲しいわ』
一切動けないメレディスの額から汗が伝った。同時に恐怖を滲ませた瞳が、メレディスの心象をそのままに映す。それは、先導していたカートも同じだった。
それでも、メレディスの口だけは動いた。声は出さず、『逃げろ』とだけ。
マギーは戸惑いながらも、従うしかなかった。彼女たちを助けようにも、メレディスの言葉通り魔術を使える気配がしない。
出口はすぐそこ。マギーは、一目散に出口へと向かった。だが、マギーが扉に触れるようとした、その時。
暗闇が揺れた。
玄関口があった筈の場所は、壁になり出口は消えた。
誰の仕業かなど、一目瞭然で、マギーは振り返り二階を見上げ、声の主を辿った。
すると、二階の欄干で肘をついて、高みの見物をする黒髪の女の姿が。マギーはその女に、見た覚えがあった。
濃い青い瞳は暗がりの中でも、サファイアの如く美しい。その輝き故に、その目は真冬の様に冷たい。
『貴女だって魔女の端くれでしょう?魔女の領域から簡単に出る事が出来ると思ったの?』
アルチアの洋館は、魔術で覆われた空間だ。その領域は、アルチアそのものと言ってもいいだろう。その、屋敷の中にいる配下もまた、アルチアの支配下だ。
差し詰め、マギーは囚われた羊。
『カート、マーガレットを取り押さえて』
マギーはびくりと、男の方を向いた。声に支配されたカートに、最早情は残っておらず、ゆっくりとマギーに近づく。メレディスに視線を送るも、メレディスもまた、同じだった。
逃げなければ。けれど、何処に?
玄関ホールと、上階にはアルチアの配下か、人が集まり始めていた。
そこには多くの男女……恐らく、全て魔女。
『今日は満月じゃないのが残念だけれど、始めましょうか』
その瞬間、アルチアの瞳が赤く光る。それに連なる様に、集まった者達も、カートも、そしてメレディスの瞳も赤く染まった。
皆が動き始める。そうすると、その配下の数を前にマギーになす術もなく、簡単に床に押さえ付けられてしまった。
ああ、もう駄目だ。
マギーは自分の終わりが見えた途端に、力が抜けた。どう足掻いても、周りは誰も助けてなどくれない、力も敵わない。
その恐怖の中心に立つ女が、動いた。
コツコツと踵の高いヒールの音を響かせて、ゆっくりと階段を一段一段降りてくる。
待ち侘びた供物を前に、真っ赤に染まった唇を舌舐めずりする姿は、悪魔か怪物だ。
その右手には、魔力の篭ったナイフが一つ。
アルチアは、マギーの上に跨り、その心臓目掛けて振り下ろした。
筈だった。
ボーン――と、玄関ホールに置いてあった大時計が、時刻を知らせた。
その音に、アルチアは手をとめた訳ではない。手がそれ以上動かなかったのだ。
アルチアは、何かに気づき、ハッとマギーの顔を見る。
マギーの顔に、恐怖は無い。そこにあるのは、虚無だ。
その無にも等しいそれと目が合うと、マギーの唇が動いた。
『クローゼットのお化けが来るよ』
子供じみた話し方。
その言葉にアルチアは立ち上がった。
屋敷の中で何かが蠢く。
何かが来る。四方八方、その屋敷の隅々から禍々しい気配が玄関ホールへと向かっていた。
そして――
押し寄せる津波の如く、暗闇が全てを飲み込んだのだ。
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