第43話

 あっという間に、マギーは湖へと辿り着いた。

 

 空を飛んだのは初めての筈なのに、何をどうすれば良いかを、全てを体が理解していた事に、マギーは驚いた。

 ただ、次はどうすればいいかがわかならない。

 湖の淵に座り込み、その光を目に映す。

 覗き込んだ輝きの中、薄らと自分の姿が水に映る。

 首から懐中時計がぶら下がったままの、その姿。


 銀色の、シンプルな何の飾り気もないその時計。

 マギーは瞼を閉じて、その時計を、ぎゅっと握り締める。

 誰もいない、何の音もないそこで、瞼の向こうの輝きが淡い光となって擦り抜けた。


 淡い光が揺らめく中、マギーは心の底から望むものを考える。


 ――ハッシュを助けなきゃ


 何が夢で、何が現実か。マギーは、今も蘇る記憶は夢現ゆめうつつの間で揺れている。

 だから、マギーにとって記憶よりもハッシュの存在こそが、お母さんとの繋がりになりつつあった。

 ハッシュは、モルガナとお母さんの名前を呼ぶ度に、いつも強張った顔が、緩むのだ。


 その想いは、きっと本物なのだと。そして、ハッシュを助けたいと願う、自らの心も――


 ふと、瞼の向こうが眩しく感じた。

 マギーが目を見開くと、湖の輝きが増している。マギーは徐に、その湖の中を覗き込んだ。

 すると、輝きの中の景色が変容し始めた。風も無いのに、中心から弧を描いて、水面が揺れる。波紋が、一つ二つと増える中で、マギーは水面に映る自分の姿も歪んでいる事に気がついた。

 その変化に、マギーは思わず「あ、」と声が出る。無理もない。それまで、幼い少女が岸辺に座っていた筈なのに、水鏡に映るのは、すっかりと身体が成長し大人びた姿だったのだ。

 同じ赤毛のその姿は、身長が伸びて、幼さを残しつつも、顔の丸みがなくなり、身体つきも女性へと変わりつつある時期だろうか。マギーから見れば、それは大人の姿、とも言えたかもしれない。


「これ……私?」

  

 水鏡の向こうから見つめてくる大人の姿。驚きと戸惑いで、マギーは岸辺に座り込んでしまった。まじまじと湖を覗き込み、その水鏡に触れる。

 その触れた部分から水面が揺れ、新たな波紋によって、再び景色が変わった。


 それまで、対面していた大人の姿は立ち上がり、湖から視線も外れている。湖に沿って延びた視線の先を目で追うと、そこにいたのは、ハッシュだった。

 水面に映った景色が、記憶に変わる。

 水鏡の中で口が動くと、そのままマギーの頭の中に声が響いていた。


『ハッシュ、私、帰れない』

『何言ってる、思い出したんだろう!?』

『……お母さんには会いたいけど、まだ何か忘れてる……大事な事』


 何だっけ、と呟くその目は虚だ。

 まるで、自分の意思が伴っていない。

 ハッシュは、マギーに近づき肩を掴むと、大きく揺すった。


『このまま夢に呑まれて生きてくつもりか!?』


 マギーの意思を呼び起こさなければ。ハッシュがどれだけ必死になっても、マギーがそれに応える事は無い。

 何が足りないのか、マギーはその答えを探そうともせず、小さく「あ、」と零した。ハッシュの肩越し、その視線の先で、ガサリと草を踏む音がする。

 ハッシュも、漸く気配に気づいて慌てて背後を振り返った。 


『マギー、マギー、迎えに来たよ』


 マギーのオモチャ達が隊列を成して、楽しげに踊りながらマギーを囲む。その最後尾には、ニルの姿があった。

 ニルは、ハッシュを無視して、マギーに近づくと、その手を引いた。


『さあ、家に帰ろう』


 小さくはない姿で、マギーはニルの手に応えて握り返すも、足は動かなかった。


『……ニル、私……』


 あそこは、私の家じゃないの。囁く声は、消え入りそうな程にか細い。はっきりとしない意識の中に、大事な記憶が消えているのだと、ニルに訴えようとしていた。 

   

『中途半端に思い出しちゃったんだね。可哀想に』


 そう言って、ニルは漸くハッシュを視界に捉えて睨んだかと思えば、すぐにマギーに視線を戻す。 


『マギー、大丈夫だよ。また、忘れてしまえば良いんだもの』

『ニル?』


 何するの?そう聞き返そうとした瞬間に、マギーの意識は途切れた。

 記憶の中で声は無くなり、景色だけが水面で続く。気を失ったマギーの身体は、その場で崩れ、みるみると小さくなっていた。

 今と同じ、小さなマギーの姿に。

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