5-4

「もしもし! うん、よかった! 私は緋那子!」


 サーバーのパスワードとともに、電話をかける旨をSMSで知らせていた。知らない番号だっただろうが、蒼穹祢は無事出てくれた。


「お姉ちゃん、今どこ?」

『タワーの一階よ! ヒナは?』

「地下一階に着いたところ! 階段は降りていいけど、フロアにはまだ入らないでね! 今からセキュリティを無効化するから!」

『お願い!』


 姉に伝え、緋那子はフロアに足を踏み入れる。二十五メートルプールがすっぽり入る広さで、コンクリートの壁に囲まれた空間にはほとんど何もない。簡素な造りも相まって、広いな、とシンプルに感じた。最低限の照明が灯されているだけで、室内は薄暗い。無機質さに気味の悪さを覚え、侵入者はフロアを前にしただけで帰りたくなるだろう。


 ご覧のとおり、簡素なフロア。しかし侵入者が進めば警備システムが作動し、壁から現れた十数体の警備ロボットが侵入者を捕獲、または追い返す仕組みになっている。

 が、ネットワークの世界からの侵入は警備システムに感知されないようで、部屋の隅にある端末の前まで難なく近づけた緋那子。仮想ウインドウを広げ、フロアのみに展開されるネットワークを経由して端末に接続。端末は警備システムのアプリ&データベースサーバーにもなっている。緋那子はデータベースの値を強引に上書きし、数分の間システムの停止を試みる。


(もう少し……)


 セリアは研究部の二人が足止めしてくれている。激しい攻防の音が階段側から響く。はやる気持ちが生じるも、緋那子は心を落ち着かせて、


「よし、解除成功! お姉ちゃん、フロアを突っ走って!」

『ええ!』


 解除成功の証だろうか、フロアの照明が緑色に変化する。

 緋那子もまたフロアを走ろうとしたその瞬間、


「ぐァア!!」


 緋那子の横目に、何かが床を跳ねて転がった。咄嗟に目で追うと、それは大地の姿。彼はしばらく床を弾み、十数メートルを経て停止する。パァン! パァン! 銃声が近づいたのも束の間、緋那子が振り返ると、


「やあ」


 翼を仰いでレミを吹き飛ばし、緋那子の元までスムーズに飛来してきたセリア。生み出した風に、身体を紙飛行機のように乗せ、握り拳を緋那子の懐目掛けて振り抜いてきた。


「――ぐうっ!!」


 くの字に折れる緋那子の身体。足が床を離れ、しばらく空中を滑ってから、大地のように床を跳ねて転がった。

 そして彼女は異変に気づく。


「ああああああああああああッ!! 痛ッ……ううううぅ……!!」


 ――痛い。

 こみ上げる吐き気と、焼けるような鳩尾の痛み。


『ヒナ、大丈夫!? どうしたの!? ヒナ!?』


 電話の向こうでは姉が心配する声。


「あ……がっ……! だ、だいじょ……、だいじょうぶ……だよ……っ」


 なんとか応答した緋那子。強烈な痛みで視界が掠れ、戸惑いとともに揺れる瞳孔には、銀髪を糸のように靡かせるセリアが辛うじて映る。自らのHPも五分の一ほど減少していた。


(どういう……こと? あくまでゲーム……だよね? そもそも情報生命体に……痛みなんて概念……ないでしょ)


 《拡張戦線》はプレイヤーの安全を考慮して痛覚を遮断している。エネミーのダメージを受けてもプレイヤーが覚えるのは、圧迫感や痺れ、脱力感くらいだ。それは現時点も引き継がれているはず。

 この痛みの正体は……? 激痛に歪む緋那子の顔に滲んだ疑念に答えるように、セリアは種明かしした。


「なに、キミの痛覚をオンにしただけさ。データベースのフラグを立ててあげれば造作もないことだよ」

「いや、そもそも私……情報生命体だから……っ」

「たしかにコンピュータで代替した脳では痛みが再現できないね。けれど他の情報生命体と違ってキミの脳は本物だ。ちょうど今、生きている実感を味わえてるんじゃないかな」

「ふざけ……っ」


 歯を食いしばりながら睨む緋那子とは対照的に、セリアは涼しい顔つき。横たわる緋那子に小さい手のひらをかざした。無数の黒い羽根がセリアの腕に吸い寄せられ、膨らんだ羽根の集合が光線のように緋那子に飛来する。


「くぅ!」


 緋那子は腕に力を込めて横に逸れようとしたが、すでに遅かった。反射的に目をつむる。

 躱せない――……。


「……、あれ?」


 まぶたを開ける。羽根の吹雪は、結果的に当たっていなかった。代わりに、


「大地くん!?」


 両手を広げ、緋那子の盾になっていたのは大地。


「先輩を送り届けるって約束したんで!」


 彼はニッと笑ったら、ふらりと力なく倒れる。目覚めることはなかった。


「……っ」


 痛む左の脇腹を抱えながら、すでに緋那子は次のフロアへと進んでいた。アハハハハというセリアの嘲笑と、大地の屍を背に。


「ハハッ、仲間がやられて敵に背を向けるとは。情けない、よくそんなマネができる!」

「うっさいわね! あんたの敵は私よ!」

「ありがとう……っ、大地くん……!」


 悔しさが膨らもうが、レミが足止めしてくれる間に緋那子は先を目指す。


「ヒナ、ここは任せて!」

「うん!」


 レミはセリアに銃を撃ち込んでゆく。レミが的確に行き場を遮るので、セリアは窮屈そうに身動きが取れない。


「まったく、ちょこまかと……」

「しょせん人間よね。動きにパターンがあるのよ」

「煽るねぇ。煽り慣れてるのかな?」

「どういたしましてッ」


 逆にレミは多彩なセリアの攻撃を躱している。これまでのセリアの仕草や攻撃を覚え、パターンを理解しているからだろう。洞察力に長けている証だ。

 緋那子は階段を降りながら姉に近況を伝える。


「心配かけさせてごめん。痛みはあるけど、命に別状があるものじゃないから。我慢すれば問題ナシだよ」

『無理しないでね』

「うん、お姉ちゃんもね」


 口頭で伝えたように、身体の痛みが抜け切れていない。手すりを頼りに一段一段を下る。

 そして地下二階のフロアに到着。上階と同様に、フロアのネットワークを経由して端末を遠隔操作する。


「キャ!!」


 辿ってきた経路からレミの悲鳴とともに、空気を激しく乱した音が緋那子の耳を劈く。思わず緋那子は顔をしかめ、


(大丈夫かな……、大丈夫かな……っ。落ち着け……私!)


 攻防の音は鳴りやまない。耳を塞ぎたくなるような音のオンパレードに手が震える。


「解除できた! お姉ちゃん、いいよ!」

『ええ!』


 フロアの照明が緑色に切り替わったのと同時に、緋那子は姉に合図して、自分もまたフロアを走る。


(なんとかここまで来れた。残りワンフロア、この調子で……)


 次を考えたそのとき、


『いやっ!? ちょっと……っ!』


 電話越しに姉の悲鳴が聞こえたのだ。


「お姉ちゃん!? どうしたの!?」

『壁からロボットが! キャッ!!』

「うそ……っ」


 警備システムの解除の失敗に他ならない。緋那子のミスだ。

 考えられる要因はただ一つ。


 ――焦り。


 知らず識らずのうちに手元が狂い、操作が甘くなっていた。

 顔から血の気が引くような、絶望的な思いの中で、緋那子はただ叫んだ。


「走って! とにかく走って! フロアを駆け抜けて!」

『ええ!!』


 ガンッ! キィン! 蒼穹祢側で電話が鈍い音を拾い、緋那子側に聞こえる。ひたすらに姉の無事を祈ることしかできなかった。

 緋那子がフロアを抜けるタイミングで、


『はぁ……はぁ! 切り抜けたわ!』

「よかったぁ……。ごめん……お姉ちゃん」

『謝らなくていいわ。ヒナはよくやって――……』


 蒼穹祢が言い切る前の、緋那子が階段を降りて壁を折り返したときに、


「――ッ!?」


 ドォンッ!! 鉄球が壁を破壊するような音が姉妹の会話を上塗りした。緋那子が音のほうを見上げれば、


「レミちゃん!?」


 レミの身体が壁を跳ねて宙を舞っている。さらには、


「これで終わりと思うな」


 フロアから登場したセリアが、金髪の映えるレミの頭部を鷲掴みすると、小柄な身体を床に叩きつける。いくらゲームとはいえ、見る者の胸を抉る暴力だった。レミの身体は床を跳ねて階段を転がり落ちる。レミが目覚めることはなかった。

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