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 風鈴に似た清涼な声とともに、巨大蜘蛛を遮るように現れた人影。ビルで切り取られたわずかな隙間から差す淡い月明りが照らしたのは、赤い刺繍の入った白いローブ着の少女と、糸のように細かく舞う、月の色にも似た銀の長髪。


 少女は小さな手のひらを蜘蛛に伸ばす。


 それだけで。


 プリズムが放つような七色の光線を噴射。とてつもない光量で、巨大な蜘蛛を易々と呑み込むほど。現実離れした光を前に、ヒナは目元に手を宛がって瞳を守る。

 魔法? 術? 少なくともこの世に存在しないはずの概念。


「た、倒せた……?」


 光が薄れたら、蜘蛛はガラス片のように散っていた。ゲームのような演出だ。


「さて」


 銀髪の少女は振り返り、尻もちでへたれるヒナを見下ろす。その瞳はルビーのように紅く、顔立ちは中学生くらいだろうか。かわいらしい童顔だ。分け目のない前髪に髪飾りはなく、シンプルな銀髪を腰に流している。

 細身で繊細で、まるで妖精のような女の子。

 蜘蛛と同じく彼女もまた、明確にヒナを認識していた。それも、ヒナを知る目で。


「はじめまして、私はセリア」

「ど、どうも……はじめまして」

「“君に巡る科学のこころマージナル・ハート”の一員になるキミを探していたけど、なかなか見つからなくて。どうやら《拡張戦線かくちょうせんせん》のネットワーク網に紛れ込んでいたみたいだね。すまない、怖い思いをさせてしまった」

「まーじなる……はーと? かくちょーせんせん? もう、なんのゲームの設定!? 日本語しゃべって! って、日本語では、ある? ここ、異世界じゃないの?」


 セリアは苦笑して、


「巨大蜘蛛に魔法を見た手前だけど、異世界じゃないよ。この街は日本の“科学特区”とでも言えばいいのかな」

「科学特区?」

「そうさ。今に至るまでにいろんな技術を見たんじゃないか? あれはこの街の科学の産物だよ」

「ロボットとか、ニュースの医療科学とか? まさか、蜘蛛や魔法も科学の産物ってワケ?」


「ああ。開発中の《拡張戦線》って体験型ゲームのものなんだ。本物と見違うくらいの迫力があったかな? しかし蜘蛛のモンスターでは女子ウケが悪そうだ。ウサギさんに変えるように進言しておくよ」

「ゲームだったの!? リアルすぎるってばぁ。怖かったよ~。……ん、ゲーム?」

「何か引っかかりでも?」


「通行人もNPCなの? いや、すり抜けるのはゲームとしておかしくない?」

「ああ、ごめんね。説明不足だった。街と通行人は現実リアルだよ。ゲームの要素は蜘蛛と私が放った魔法に過ぎない。――現実リアルの街に張り巡らされた“ネットワークの世界”で展開されるゲーム、とでも言えばいいのかな。つまり今の私たちや蜘蛛、魔法は仮想オブジェクトなのさ」

「ネットワークの……世界?」


 普通の女子高生ならこのような説明を受けたところで理解に及ばず、せいぜい疑問符を頭の上に浮かべるのが精いっぱいだろう。だが、ヒナは違う。


「なるほど、複合ふくごう現実げんじつって概念だね。って、なんでそんな言葉を知ってるんだろ?」

「正解だよ。現実に仮想オブジェクトを重ねる拡張現実の発展形。まさに複合現実の技術だ」


 メタバースで仮想世界に意識が潜るように、現実世界そのものに巡らされたネットワーク網に意識が潜っていて、今の身体は限りなくリアルなアバターのようなもの。セリアはそう補足した。


 セリアはヒナに手を差し伸べる。雪のように汚れがない白い手を、ヒナは恐る恐る取ると、確かに握れた。肌の温かみも感じる。今のヒナも仮想オブジェクト側のはずなのに。不思議だ。


「暗いとこにいてもあれだ。戻ろう」

「うん」


 そうしてセリアはヒナを先導し、薄暗い路地裏から煌びやかな摩天楼の下に再び現れると、セリアは通行人を気にせず、ヒナを歓迎するように両手を広げて、


「この街の正式な名は“日本技術革新にほんぎじゅつかくしん特別とくべつ行政ぎょうせい”。ま、そんな堅苦しい呼び方は誰もしないけどね。皆はこの街を――“加速する科学の不夜城イマジナリーパート”と呼んでいる」

「イマジナリー……パート? 複素平面の虚部?」

「うん、やっぱり記憶喪失みたいだ。本来のキミには説明するまでもないからね。はて、“事故”のショックが原因だろうか。ま、焦らず思い出していけばいいさ」


「記憶喪失かぁ。あの、記憶以外にも気になることがあって。私の肉体ほんたいってどこにあるのかな。いやまさか私たちって、NPCではないよね? プレイヤー側なんだよね?」

「……。つらい現実だけど、いつか知ることになるから教えるね。先に言ったようにここは異世界ではない。そして私たちはNPCでもない。けど、キミがヒトから別の概念に“転生”したことは事実なんだ。肉体ほんたいは、もう……」

「え?」

「キミは――“死んだ”。街が計画したプロジェクトの犠牲になってね」


 ヒナへ人差し指を向け、セリアは告げた。


「……ッ」


 グッと奥歯を噛んだヒナ。聞き違い、そうあってほしいと心から願った。たとえ自分の名前さえ知らない今であっても。

 だが、心のどこかでは納得している自分もいた。それは生前の記憶によるものか、はたまた不思議な世界を体験する現在の脳がそうさせているのかまではわからないが。

 セリアは説明を続ける。


加速する科学の不夜城イマジナリーパートはエリア全体にネットワークが張り巡らされていてね。キミはネットワークに生きる“情報じょうほう生命体せいめいたい”に転生したんだ。私もその一人さ。だからネットワークの世界のゲームに参加できても、現実リアルには決して触れることができないんだ」

「肉体が使い物にならない。けど、コンピュータに管理させれば意識はネットワーク上で使い物になる。それを体現した存在が“情報生命体”って解釈で、合ってる?」


 そんな言葉がヒナの口からスラスラと出てきた。


「呑み込みが早いね、合ってるよ」

「私たち以外にも情報生命体はいるの?」

「ああ。事故や病気でどうしてもヒトとして生命を維持できない十代の者たちがいる。その情報生命体のチームが“君に巡る科学のこころマージナル・ハート”と呼ばれているんだ。十代のみの理由は、脳の構造と技術の兼ね合いで制限があってね」

「それが最初に言った……マージナル・ハート?」


 セリアは舐めるように天空を見回す。すると星空から一転して、まるでターミナル画面のように空は漆黒に変貌し、『0』と『1』の羅列が絶え間なく流れる。


「この街の科学は君に巡る科学のこころマージナル・ハートが生む卓越した演算システム――〈.orionドットオリオン〉によって進化し続ける。要は街のネットワークと君に巡る科学のこころマージナル・ハートの力で、――街そのものが高度なコンピュータと化しているのさ」

「ただのAIじゃない、人の意識を組み合わせているからこそ、高度な演算システムを実現できるってことかな。……、なんでスラスラ考えられちゃうんだ? もしかして私、頭よかったりする?」


 ヒナの問いにセリアはうなずく。


「キミが非常に優秀なことは知ってるし、ヒトだった頃の名前も知ってるよ。けど、私の権限でも名前は教えられなくてね。言えるのは個体番号コード『0036』の、愛称――『ヒナ』であることだけだ」

個体番号コードに愛称って、ますますSFの世界みたい。それが君に巡る科学のこころマージナル・ハートのルール?」

「そうだね。そして私は個体番号コード0000ゼロ』の愛称『セリア』。君に巡る科学のこころマージナル・ハート最高責任者リーダーだ。キミがこの環境に慣れるまで私がサポートするからね。よろしく」


「よろしく。……ごめんね、まだ混乱してる。事故で転生して、記憶喪失で、情報生命体……。なんでだろ、『ヒナ』って呼び名は覚えてるんだ」

「記憶が消えたとは思わない。ただ思い出せないだけ。呼び名を覚えているように、混乱が解けていくうちに戻ると思うよ」

「そうだといいんだけどね」


 ヒナはふう、と桃色の唇から息をついた。当たり前のようにしている呼吸も、きっと疑似的なものだろう。酸素はデジタルの身体に不要なのだから。


「さて、混乱中に悪いけどさっそく仕事の依頼だ」


 セリアはヒナに切り出した。


「私に?」

「少し前にね。街が威信をかけたプロジェクトが派手に失敗してしまって。街はその悪夢から早いトコ覚めたい。だから新たなプロジェクトを計画している。情報生命体という立場からヒナにも協力してほしいんだ」

「こんな私でも役に立てるかな? まだまだ足手まといになりそう……」

「いや、キミだからこそ役に立てる。大丈夫、私たちがサポートするから安心してほしい」


 セリアは周囲を眺める。ヒナはあとを追うように視線をスライドさせると、


「……!?」


 セリアの装飾にはない、フードの垂れる黒いローブを羽織る少年や少女たちの姿。周囲のビルに腰かけたり、屹立したりしている。その数、ざっと三十人強。

 言われなくてもわかった。


 彼ら、彼女らこそが、この加速する科学の不夜城イマジナリーパートの高度な演算システム〈.orion〉を担う情報生命体たち、――君に巡る科学のこころマージナル・ハート


 セリアから依頼を受け、そして視線を一身に浴びるヒナは、困り顔で頬をかきながらも、


「ど、どうも。よろしくお願いします」

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