幸せへの第一歩①


 自分が言い放った言葉を聞いて固まった腐敗公を見ながら、リアトリスはふむを腕を考えて思考を巡らせた。



 先ほどまでリアトリスは腐朽の大地の主である腐敗公を打倒し、罪人生贄人生から人類の英雄への華麗なる転身を狙っていた。思いがけないきっかけでその腐敗公と和解を果たした彼女だったが、その際自らに起きた事象は実に衝撃的だった。


 この腐朽の大地という場所は、どういうわけか魔力が他の土地より早く消費される。そのためこの地に花嫁として捧げられる生贄は、いくら加護の結界を施されても長く持たない。結界そのものの魔力もすぐになくなり、消えてしまうからだ。

 腐朽の大地は生き物の魔力も術式の魔力も、分解し全てを枯渇させる。これは人間族にとっても魔族にとっても非常に恐ろしいことであり、腐朽の大地が恐れられる要因の一つだ。

 保有する魔力が常人より遥かに多いリアトリスも例外ではない。ただでさえ呼吸するだけで魔力が消費されていく土地で、しかも全力で腐敗公に戦いを挑んだのだ。あの少しで…噛みつく…などという選択肢をとっていなければ、彼女は力尽きて死ぬ運命にあった。

 だがリアトリスは現在生きて腐敗公と対峙している。それはリアトリスの魔力が回復したからにほかならない。


 たった、ひと口。たったのひと口だ。


 腐敗公の眼球に噛みついた時にリアトリスの口内へ流れ込んできた、苦く酸っぱく最高にまずい液体。それをほんのわずかに飲み込んだ。それだけで枯渇しかけていたリアトリスの魔力は回復したのである。

 それは異常な事だった。少なくとも他の魔術師から回復のために魔力を譲渡されたとしても、リアトリスの魔力保有量を満たすためには軽く見積もって五人分の魔力は空になる。それをたった一舐めの液体が満たした。


 それを体感したことでリアトリスがまず思った事は「もったいない」だった。


(こんな魔力の塊を持っているのに、使い方を知らないですって? なんて宝の持ち腐れよ)


 聞けば腐敗公は膨大な魔力を有しているにもかかわらず、なんとそれを行使する方法を知らないらしい。実に勿体ない。

 だがリアトリスはそれを聞くと同時に、これは人生最大の好機ではないかと思い至った。



 ────────こいつを使えば世界の覇権も夢じゃない



 そんな大望が、ふと脳裏をよぎる。


(いや、それはどうでもいいわ! 世界規模は面倒くさい! でもこれだけの魔力なら、大抵の望みは叶うってものよね! これを逃す手は無いわ……!)


 が、すぐに捨てた。

 思いついたばかりの不穏な考えを容易く放り投げると、リアトリスはより現実的な未来にむけて打算的に考え始める。世界の覇権などという、何の旨味があるのかいまいちわからない展望など彼女にとってはお呼びでないのだ。



 リアトリスの明るい人生設計が「人類の救世主」から「凄い魔力を持った魔物を利用して悠々自適な楽々生活」に変わった瞬間である。



 リアトリスは元々、特別な魔術師の家系でもなんでもなく、ただのしがない田舎娘だ。それが紆余曲折あったものの、自分も他人も利用してここまで成り上がった。

 今でこそその地位も砂上の楼閣となり果てたが、確かに一度は成功をその手に収めたのである。

 …………ふと一瞬、成功のために師匠に弟子入りする際蹴落とした魔術学校の同級生が脳裏をよぎる。が、どうせ自分がこんな苦労をしていることも知らず呑気にしているのだろうと、すぐに考えを振り払った。


(まあここを無事脱出できたら、記念に奢らせてでもあげようかしら)


 自分が奢るのでなく奢らせることを当然のことのように考えつつ、リアトリスは打算的な考えを再開する。


 ともあれそんな人生を送ってきたリアトリスは、自分の欲求に素直な人間だった。

 そしてそんな彼女の望みが何かといえば、それ自体は何のことは無い普通の事。美味しい物を食べて、いい物を着て、いい場所に住んで、いい暮らしがしたい。自分の実力を認めさせたい。

 そんな物欲と承認欲求にまみれながらも、普通の域を出ない単純な望みこそリアトリスの生きる目的だ。


 そのために今、何が必要か。答えは目の前に存在している。


 美味しい物どころか食べ物すらなく、身に纏うのは汚泥にまみれたボロボロの花嫁衣裳。

 見渡す限り座る事すら躊躇する、臭くて汚くて屋根すらない最悪の土地。

 極めつけは魔族の王すら近づかない、この腐り切った大地を凝縮したような醜くて強烈な腐臭を放つ化け物が自分の夫ときた。

 考えうる限り最悪に近い状況が今ではないかと言われても否定できないだろう。だがその劣悪な環境をひっくり返して欲しいもの全てを手に入れたら、いったいどんな気分だろうか。自分を貶めてくれた連中にどんな顔をさせられるだろうか。

 それを考えた瞬間、リアトリスの顔は喜悦に歪んだ。


(ふっふっふふ……面白いじゃない。あいつらをぎゃふんと言わせて、私はこいつの魔力を利用して快適な暮らしを手に入れる。……完璧だわ! 流石稀代の天才魔術師! 私最高! ふふふふふ、これは楽しくなってきたわね!)


 リアトリスはうんうんと頷いて自分の考えを心の中で盛大に自画自賛すると、先ほどからこちらの様子を窺っている単眼の化け物を見上げる。

 相変わらず醜い上に臭くてかなわないが、これから自分の人生を幸福に彩ってくれる相棒だと思えば少し可愛く見えてくるから不思議だ。


 リアトリスはにやけていた顔をキリッと引き締めると、相棒こと自分の夫となる化け物を真っすぐに見上げた。


「ごめんなさい、待たせたわね! 悪いけど、あなたが今までどういった魔物生を過ごしてきたか聞かせてちょうだい。さっきの話を詳しくする前に、私まずあなたの事をもっと知りたいわ!」


 それを聞いて喜色に満ちた気配を放った魔物。まずはこの相棒の事を知らなければ。




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