それなるモノ

こんぺい糖**

それなるモノ

 いる。


 今日も、いる。



 いつものように仕事から帰り、くたくたになりながらワンルームの部屋に入ると、はいた。


 私より少し高い背丈。私の身長が158センチだから、160センチ以上はあるかもしれない。人の脚のようなものが見えるが、それ以外はどうなっているのか分からない、長い長い黒々とした動物の体毛のような髪のようなモサモサした何かで覆われている。


「……」


 は何も言わない。家に現れたときからそうだ。私から声をかけるなんて、そんな恐ろしいことは出来なかったけれど、向こうが何も言わないならそれでいいのだろう。



「……」



 私も特別何も言わない。ちらりとを一瞥し、ショートの明るい髪をわしゃわしゃと手で掻き回して気を取り直すと、簡単な夕食を摂るためにキッチンへ向かった。




*****



 が家に現れるようになったのは、なんでもないただの日常の一コマになるはずであろうある日だった。


 いつものように───いや、少し嫌なことがあったような気がする。とにかく疲れて家に帰ると、部屋の真ん中にそれは立っていた。真っ黒な毛に覆われたは、黄色や花柄で統一された可愛らしい部屋とは正反対の不気味さを放っていた。



「……っ!!」



 声にならない悲鳴を上げ、私はその場で硬直した。疲れなんてすっかり忘れてしまう程の恐怖だった。人間、恐怖を覚えると声なんて出なくなるものなのなのだと、その時初めて知った。


 硬直したままそれと見つめ合い(に目があるのかどうかさえ分からないのだが)、長い長い数分間を過ごした後、は不気味さの象徴と言うべきその長い毛をふるりと震わせると、狭い部屋の隅の方へ少し動いてまた静かになった。


「……」



 は何も言わなかった。最初は恐る恐るそれを見ることしか出来なかったが、だんだんが何もしないような気がしてきて少し安心した私は、のそりと鈍い動きでヒールを脱いで部屋に入った。


 そろそろと部屋に進むが、が動く様子はなかった。念の為、部屋に入る前に手前のキッチンで塩の容器を取ったのだが、あまり意味は無さそうだった。



「……お腹、空いた」



 ふとそんな声が漏れた。何故こんなに緊迫した状況でそんなことが言えたのか自分でも甚だ疑問だったが、急に空腹感が顔を出したのだ。そういえば今日は昼食も食べ損ねていたのだった、そう思い出した私はとりあえず夕飯を摂ることにした。


 手に強く握った塩の容器を一応部屋の真ん中に置いて、私はキッチンで夕食の準備をした。メニューは簡単ドリア。冷ご飯を耐熱皿に敷いて、その上に昨日の残り物のシチューとチーズを乗せて焼くだけの代物だ。最近は作っていなかったのだが、その日は妙に食べたくなったのだ。ちょうどシチューも残っていたし。……何故これを食べたくなったのだろうか。詳しくは覚えていないが、多分昔よく作っていたからだ。最近はあまり作っていなかったけれど。


 トースターから短い金属音がして、扉を開けると、暖かい湯気と共にチーズの香ばしい香りが漂ってきた。


「ぐうう……」


 こんな訳の分からない状況でも、お腹は空くらしい。


 私はあつあつの器を注意深く取り出すと、それをお皿にのせて夕食の支度をした。



「いただきます」


 その言葉を合図に、はふはふと息を吐きながらもこの美味しいドリアを食べ進めた。クリームソースの濃厚な味がしみた野菜がご飯と混ざりあって、とても美味しい。少し焦げたチーズの香ばしさも食欲をそそる。夢中で食べていたのか、気づけば器はあっという間に空になった。



「ふう…ごちそうさまでした」



 お腹が満たされた私は、思い出したかのように部屋の真ん中に立ち続けるそれを伺い見た。


 しかし、は少しも動かない。夜風で黒々とした毛だけが微かに揺れているだけだ。


 それに少し安心して、私はゆるゆると立ち上がり、「お風呂入ろ」と呟いて脱衣場へ向かった。



 お風呂から上がり部屋に戻っても、それは全く動かなかった。


 私はその光景を見て、が危害を加えない存在なのかわからなくなってしまった。何度もそれを伺いながら思い悩んだが、結局は仕事の疲れに負けて、その日は眠ってしまった。





 次に目を覚ましたとき、が立っていたところを見ると、はもういなかった。疲れ過ぎて見た夢だったのかとほっとしたのもつかの間、部屋の隅に視線を移すとはいた。


 私はさあっと血の気が引いて、恐る恐る部屋をぐるりと見渡す。しかし、荒らされた形跡などはない。自分の体にも特に異変は見られなかった。


 少しだけ胸をなでおろし、もう一度それを一瞥すると、それの隣にある棚の上の時計に目が止まった。そして、再び血の気が引いた。



「やばい、遅刻する!」


 そう叫ぶや否や、私はバタバタと着替えて家を飛び出した。





 その日、仕事から帰ってきてもはそのままだった。そのときの私は、仕事の疲れもあり、なんだかもうどうでも良くなってしまっていて、「不動産会社にこのことを言ったら事故物件扱いになるかな。家賃が安くなればいいなあ」などと考え始めていた。



「次の休みに不動産会社に行こうかなあ」



 そう独りごちながら、私は少しずつこの奇妙な存在に慣れてしまっている自分に気づいた。……もちろん、そんなこと認めたくなかったので気づかないふりをしたが。




*****




 それから今まで、との同居生活は変わらずに続いている。私が仕事に追われていて、それのことにまで意識が向かなかったというのも一因だろう。



 私は食べ終わった夕食の食器を洗いながら、の気配を久しぶりに感じていた。大変だった仕事がひと段落し、それ以外のことを考える余裕ができたのかもしれない。


 ──────一体、あの黒い存在はなんなのだろう。なんのためにここに立っているのだろう。


 の存在を改めて認識すると、そんな当たり前の疑問がむくむくと湧き上がってくる。


 今まで考えてこなかったことのほうがおかしかったのだ。……いや、あえて考えないようにしていたのかもしれない。そうしないと繁忙期の日常生活が送れる気がしなかったから。




 をちらりと見ると、いつものように毛を僅かに揺らすだけで立っている。に目があるのか、口があるのか、その毛をかきあげれば見れるのかもしれないが、その勇気は無いのでやめておく。ちらちらと様子を伺っていても、最初の頃のような嫌悪感や恐怖は湧いてこない。むしろ、何か愛おしいもののような、大切なもののような気分になるので不思議だ。



 私は電気ポットで湯を沸かすと、コーヒーかはちみつレモンのスティックのどちらにしようかと指を彷徨わせ、顆粒をマグカップに入れると、湯を注いだ。ふわりとレモンと蜂蜜の甘い匂いが漂ってきて、私はほうと一息ついた。最近はブラックコーヒー一択だったため、久しぶりに甘い飲み物を飲んだ。そういえば、私はいつからコーヒーばかり飲むようになったのだろうとふと思った。確か、新プロジェクトで仕事が忙しくなった辺りからだったような気がする。眠くならないようにするためか、と何となく考えながらはちみつレモンを飲んだ。



 そのとき、少しだけが体を左右に揺すったような気がした。もはちみつレモンの香りが好きなのだろうか。入れてあげようかな、などと考える。いや、今まで冷蔵庫のものが無くなったことはなかったので、飲食はしないのだろう。変に刺激するのも嫌なので放っておこう。私は目を閉じて温かい湯気を感じた。






 ただ立っているだけで無害だし、このままが居てもいいのではないかとさえ考え始めた頃。


 充電器に繋がれたスマートフォンが震える。電話がかかってきたようだ。登録していない番号らしく、電話番号のみが表示されている。私は何も考えずに通話ボタンを押した。



「お、まだ番号変えてなかったんだ。久しぶりだな香織」



 低くて、やけに馴れ馴れしく私を呼ぶ声がスピーカー越しに聞こえてくる。この声には聞き覚えがあった。だって、かつてよく耳にしていた声だったから。


 しかし、きっと今の私の顔は歪み、苦しげな表情を浮かべているだろう。できることなら、もう一生この声は聞きたくなかった。そもそも、嫌な別れ方をした元彼の声を聞きたいと感じる人の方が少ないと思うけれど。



「な、何の用ですか……」



 やっとの思いでそう告げると、電話越しの声は悪びれる様子もなく声を上げて笑った。



「何、その他人行儀な話し方。お前もしかして緊張してんの?それよりもさあ、ね、ちょっと会えない?話があるんだけど」



 私は顔中に熱が集まるのを感じ、耳まで赤く染めながら叫んだ。



「……会いたい?何を今更!!貴方が私に何をしたか忘れたの!?」


「はっ?お前まだあのこと引きずってんの?はは、お前、俺に未練タラタラじゃん。ねー、それなら尚更いいじゃんか。ちょっとでいいからさ、会おうよ」



 元彼は嘲るように鼻で笑い、何度も会おうと私を誘う。その理由はよく分からないが、きっとろくでもない話なのだろう。


 私は集まった熱で頭が沸騰しそうになったが、何とかそれを抑えた。



「もう連絡してこないで!!」



 そう声を振り絞ると、通話を切った。


 混乱した頭でふと、元彼の番号はすぐ削除してしまい、着信拒否にはしてなかったことを思い出したが、あまりにも遅かった。


 私はズルズルと座り込み、背中を丸めて、ぎゅっと自身の両肩を抱いた。



「早く、忘れたいのに……」



 そう呟くと、主人公はポロポロと涙を零した。ポタリという水音に、徐々にえずくような声が混ざり、その音は大きくなっていく。



「あ…あゔゔ…ひっく、ゔっ……」



 一人暮らしのワンルーム。部屋の隅にいる黒いモジャモジャの何か。部屋の真ん中でうずくまり泣きじゃくる私。なんとも混沌とした場面だが、たった1人の部屋よりも、幽霊だろうが妖怪だろうが誰かが傍に居てくれた方が少しばかりは楽だった。


 それでも、この胸の奥にこびりついて離れないどす黒い記憶は、私の心をどんどん蝕んでいく。元彼からの連絡という、この世界に腐るほどありそうなシチュエーションで、私がこれほど追い詰められるのには、理由があった。言わずもがな、原因はあの男だった。




 付き合い始めたときの彼は、私をとても大事に扱ってくれた。私の自慢の長くて綺麗な黒髪を好きだといい、私のお気に入りの簡単ドリアを美味しい美味しいと平らげてくねた。2人で映画を観ながら飲むはちみつレモンも、2人の甘い時間をそのまま溶かしたかのような、幸せな味がした。




 ──────幸せだった。このままずっとこの日常が続くのだと、私は信じて疑わなかった。


 しかし、そんな確信はなんの根拠もなく、私はその幸せが壊れる音を聞いてしまうことになる。


 仕事がいつもより早くに終わり、彼の家へと向かった。合鍵で家の扉を開け、あと1時間もすれば帰ってくるであろう彼に簡単な夕食でも作ってあげようと考えながら廊下を進む。突き当たりのドアを少し開くと、中から男女の仲睦まじい声が聞こえてきた。



 頭の中で警報が鳴る。「この先へ進んではいけない」「見てしまったら全てが終わる」そう本能が訴えかけてくる。



 それでも、それが杞憂であるはずだと自分に言い聞かせた私はその不安を払拭するかのように笑顔でドアノブを回した。


 その先にいたのは──────





 紛れもない彼と自分と同じ黒髪ロングの清楚そうな女。



 それから先は、あまり覚えていない。多分、思いつく限りの暴言を吐いて、彼の部屋に置いていた私物をかき集めて帰ってきたのだろう。家にそれらが詰め込まれた紙袋がある。自分の部屋にあった彼の荷物は全部捨てて、彼の部屋の合鍵も捨てた。私の部屋の鍵はまだ渡していなかったので、少しだけ安堵した。



 その後は早かった。美容室に駆け込んで、明るい色に髪を染め、伸ばしていた髪もばっさり切った。苦手なコーヒーだって飲めるようになった。


 しかし、どれだけ彼の痕跡を消そうとしても、ふとした時に幸せだった頃の彼との記憶が蘇る。それと同時に裏切られたときの情景がまざまざと浮かび上がる。




 やっと忘れかけていたのに、あの男は何度私を追い詰めればいいのだろう。何で私はあの男に囚われ続けているのだろう。



 考えれば考えるほど私の気持ちはどろどろとした黒い波に飲み込まれてゆく。とめどなく涙が溢れ、目にかかった明るい色の髪を乱暴に振り払った。



「もう、もうやだ。……疲れちゃった」



 私は蚊の鳴くような声でそう呟き、自分の殻に閉じこもるように肩を抱く力を強める。もう何も考えたくはなかった。



 それから2、3分程経っただろうか、いやもしかすると数十秒かもしれない。夜風で冷えた背中が急にじんわり暖かくなった。



 私は、絶対に感じるはずのない温もりに驚き、びくりと肩を震わせた。背中にはさらさらとした感触があり、その感触は、私がロングヘアーにしていた頃に毎日感じていたものと同じだった。


 だが、私は今、ショートヘアーだ。髪が当たるなんてことは有り得ない。ゆっくりと顔だけ後ろに向けると、そこにはが立っていた。


 の毛が私の背中にかかって、まるで私が黒髪のロングヘアーであるかのように見える。


 間近で見るのは初めてだったが、の毛は長くて量が多い割に、枝毛はほとんどなく、さらさらと美しい光沢のあるものだった。そう、まるで──────




 まるで、私が髪を伸ばしていた頃のような。


 浮気した元彼が許せなくて、怒りに任せて短く切る前の、私の自慢の髪。



「ねえ、黒髪おばけさん。貴方はその毛のこと、好き?」



 ぽつりとそれに向けて呟いてみる。返事なんて期待していない、ただ、もし答えてくれるのであれば教えて欲しかった。



「………」



 それはやはり何も言わない。


 私は少し感じた悲しみを吐き出すようにふっと笑うと、再び強く肩を抱き寄せようとした、そのときだった。




 背中に当たるの毛が上下にばさばさ揺れた。私は初めてが示した反応に動揺しつつも、この動きが首肯をしているようにも感じて、胸にじんわりとした嬉しさが広がった。



「ねえ、その黒髪、綺麗だと思わない?」



 もう一度小さな声で呟くと、ブオンブオ

 ンとさっきよりも勢いよく毛が上下に動きだした。



「……その髪はね、私の唯一の自慢だったの」



 背中に感じる暖かな熱に少し心が落ち着き、ぽつりぽつりと、聞いているかいないか分からないに向かって話し始めてみる。



「毎日ね、お風呂で髪を丁寧に洗うの。いいシャンプーを使って、優しく指の腹で泡立たせるんだ。その後にヘアオイルでケアすると、次の日髪がちゅるんってなるの」



「………」



「私はね、その髪を結ったり、風になびかせるのが好きだった。大好きだった」



 そこまで言って、私はずずっと鼻を啜った。それは始終無言のままだ。もしかしたら、口が無いのかもしれない。それでも私は話し続ける。



「別に、あの男の為にしていたんじゃないの。ただ、私の好きなものを好きだと言ってくれたから。大切そうに指で梳いてくれたから。だから、彼なら私を大事にしてくれるって……」


「………」



「ドリアも、はちみつレモンも、全部私の好きなもの。元々私が大好きだったもの」



「別れた後、あの男の好きだと言ったものが全部憎らしく感じて、自分の髪も、得意料理も、好きな飲み物も、全部否定してやりたくて…全て嫌いになろうとした」


「………」



「でも、でもっ……!本当は私はサラサラの長い黒髪が好き。シチュードリアは私が作ったレシピだし、温かいはちみつレモンも、疲れた夜のご褒美だったの!!私の幸せな記憶だったのに、あの男のせいで…全部、全部無くなってしまった!亡くしてしまったのっ!」


「………」



 ひとしきり思いの丈をぶちまけて、大きくなっていた自分の声にはっと我に返ったとき、背中に当たっていただけだった黒い毛は、後ろから抱きしめるかのように私の体をぐるりと覆っていた。



「え……?」



 心地よい熱が、私の体をじんわりと温める。その不気味な見た目にそぐわない、安心できる温度に柔らかな毛の感触。



「………」



 それは何も喋らないが、私にはが言わんとしていることが、そしての正体が、少しだけわかったような気がした。



「貴方は、とても優しいんだね」



 私はそれの目があるかもしれないと予測したところを見て、僅かに微笑んだ。そして、くるりと身体をひねり、絹糸のような体毛に顔を埋める。



「私が捨てたはずのものを、諦めてしまったものを、捨てずに、諦めずに、大切に持っていてくれたんだね。そしてそれを、返してくれようとしているんでしょ」



 私がそう言うと、は長い毛をふるふると震わせて、私の頭に頬ずりのようなことをした。



「ありがとう、私の好きなものを守ってくれて。ありがとう、私の大切な気持ちを諦めないでいてくれて」



「ありがとう、私の幸せがトラウマになる前に引き留めてくれて。ほ、本当に…ひっく、あり…がと……ありがとうっ…!」



 最後の方は涙や鼻水で途切れ途切れにしか言えなかったが、私にとって、何度伝えても足りないくらい、有難いことだった。



「ねえ、もうちょっとだけこのままでいさせて。大切なものを大事にするために、トラウマは断ち切らないといけないから」



 そう言うが早いか、私はするりとスマホに手を伸ばし、着信履歴の1番上に表示された番号を押す。


 短いコール音の後、間延びした返事をする男の声が聞こえた。



「あれー?香織じゃん。連絡したくないんじゃなかったのー?あ、やっぱり俺に会いたくなったんだ?」



 本当にこの男は。私は唇を強く噛み、今にも爆発しそうな怒りを押し込めて、ゆっくりと口を開いた。



「私、貴方と会う気はありません。もちろん一生よ。それと、貴方に未練は全くないわ!見た目が似た女の子を取っかえ引っ変えするような屑に割く時間なんて勿体ないでしょ。だから、二度と連絡してこないで。元カノに未練タラタラなお馬鹿さん!」



 一息でそう言いきって、ふう、と息を吐いた。肺は苦しいが、胸はとてもすっきりしていた。



「なっ…未練なんてねえよ!はいはい!!お望み通りもう二度と!連絡してやらねーから!!ちっ…!」



 元彼は乱暴にそう叫ぶと、すぐにブチリと電話を切ってしまった。



「はあああああ……」



 私は大きなため息をつくと、真っ黒いもさもさに顔をグリグリと押し付けた。



「ふふ、私、頑張ったよね。これも貴方のお陰だよ。ありがとう」



 はまたしても無言だったが、毛が上下にふわふわと揺れていることから、喜んでいるようにも受け取れる。喜んでいてくれていると信じたい。



「……あれ、なんか…頑張りすぎたのかな。ねむたく…なっ……」



 言葉を最後まで紡ぐ前に、私の意識はぷっつりと途絶えた。





*****




 翌朝、何故かベッドで目が覚めると、そこにはいなかった。家中を探してみたが、どこにも居ない。そもそも、ワンルームなのだから、あれだけの大きさと異質感を放つが隠れられる場所などこの部屋にはない。



「……いなく、なっちゃったんだなあ」



 何となく予感していたことではあったが、口に出してしまうと途端にそれが現実であるのだと突きつけられているようで、少し物悲しくなった。



 結局、の正体が何なのか、私には明確に分からないままだった。だけど、ただひとつ、が何のために現れたのかは分かる。


『私にとって大切だったものたちを、私がもう一度好きになれるようにする為』



 屑な元彼なんかのために、自分だけの幸せな記憶まで封印する必要は無い。ひとつのトラウマのせいで好きなものまで嫌いになってしまうなんて酷い話だ。



 だから、だから私は──────。






「わー!お似合いですよ、お客様!!」



 美容師の女性達の嬉しそうな声が店内に響く。



「ありがとうございます」


「前の明るい髪色もお似合いでしたが、お客様は肌が白いので黒髪が映えますね!」


「本当に!でも驚きましたよ〜。お客様、いつも流行りの色を入れてらっしゃるから。黒髪は流行りの色ではないですが、よろしかったのですか?」





「ええ、これがいいんです。黒髪が私に1番似合うと思うから!!」



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