第2話

 僕の小さな心臓はドキドキと暴れっぱなしだ。


 西も東もわからずに見慣れない風景を走っているせいか。久しぶりに会った南萌みなも姉ちゃんと手を繋いでいるせいか。小さな心臓の大きな音が僕の手を引いて走る南萌姉ちゃんに聴こえてしまわないか。


 急に手を引っ張られた不安と南萌姉ちゃんと一緒にいる安心とがごちゃごちゃに混ざり合って、僕の呼吸は乱れまくっている。


「南萌姉ちゃん、ちょっと、待ってよ」


 漁港の灰色で武骨な建築群を走り抜ける。潮風に負けないよう頑丈に造られた、まるでコンクリートの要塞だ。


「ねえ、どこ、行くの?」


 息をはあはあ吐く度に、魚と海藻が腐ったような、でもどこか甘みがあるすえた匂いが僕を追う。


「電子ジジイは、まだ、死んじゃいないの」


 南萌姉ちゃんの弾む声が小型船のエンジン音に掻き消される。何て言った? 小型船の走る音が騒がしい動物の鳴き声みたいでうるさい。


「あたしだけが、真実を、知ってる」


 漁港に併設された笠子崎かさござき魚市場は一般にも開かれた魚市場で、そこにおじいちゃんの笹山商店もある。もう昼過ぎなので人影も少ない。南萌姉ちゃんは僕を連れて魚市場に突っ込んでいった。


「電子ジジイの町を、あたしと一緒に、守るんだよ」


 見知らぬ町。騒々しい海。要塞のような漁港。人のいない薄暗いマーケット。「一緒に町を守って」と無茶な願いを言う少女。ただでさえ非日常な夏休みに訪れた特別な一週間。


 昨日まで僕はこの町にいなかった。この町は電子ジジイがいた世界だ。そうだ。違和感のあるこの風景はまるで異世界だ。異世界に転生したのは電子ジジイじゃない。僕だ。


 僕の目の前に舞い降りた一人の女子中学生。小学四年生の僕からすれば、喪服っぽい黒のハイソックスと学校の制服を身に纏った中学三年生はとても大人びて見えた。


 前に会った時は南萌姉ちゃんもまだ小学六年生だったはず。僕は一年生で、もらったお年玉を握りしめてコンビニへお菓子を買いに連れてってくれたものだ。


 あの時と同じように、温かく柔らかい手で僕を引っ張って二人でお通夜の準備を抜け出した。


「理来くんはレトロRPG得意だよね?」


 謎の決め付けをする南萌姉ちゃんは大人の人たちがまだ働いてる漁市場を堂々と突っ切っていく。小学四年生で見たこともない余所者の僕は市場内では特に目立った。


「得意って、普通にダウンロードして遊ぶくらいだよ」


 異世界転生勇者ってこんな気持ちなんだろうか。僕は異物だ。大人の人たちがじろじろ見る。


「世界の崩壊を防ぐには逆にそれくらいで十分」


 世界の崩壊って、ますます僕は異世界転生勇者だ。南萌姉ちゃんはようやく僕の方を振り向いてくれた。大人っぽいシャンプーの香りが魚臭い市場の通路にふわっと漂う。


「世界の崩壊って意味がわかんない」


「大丈夫。全部電子ジジイが教えてくれる」


 自信あり気に頷いて真っ黒い前髪を揺らす。それは僕に対しての言葉じゃないかもしれない。南萌姉ちゃんはまるで自分自身に言い聞かせてるみたいだった。


「でも、電子ジジイってもう……」


 死んじゃったよね。僕は言えなかった。


「そうよ。電吉おじいちゃんはね、あたしたちだけじゃなくこの町の子どもたちにも電子ジジイって呼ばせていたの」


 笠子崎漁市場の一角、笹山商店と看板が掲げられたブースに僕を引き摺り込む。お父さんたちが魚を運び出した後なのか、店の冷蔵ケースは空っぽで『臨時休業します』とマジックで手書きされた紙が貼っ付けられていた。


「町の人たちも電子ジジイって呼んでたの?」


「子どもたちのボスみたいなものよ」


 南萌姉ちゃんはキョロキョロと注意深く辺りを見回して、とは言っても隣の魚屋さんが訳知り顔でニコニコ見送ってくれてるが、事務所っぽい商店裏手の扉を開けた。僕は隣の魚屋さんにぺこり頭を下げて事務所に入る。


「ここが電子ジジイの秘密基地。作戦本部と言ってもいいわね」




 驚いた。


 笹山商店は魚市場内の小さな個人商店だ。事務所なんて伝票を処理したり請求書を書いたりするだけのスペースだろうと思った。


 狭い事務所には何台ものゲーミングPCが並んでいて、しかもどれも絶賛稼働中だ。青白くSFチックにフィンフィンと光ってる。室温が少し上がったような気がした。


「ここが、電子ジジイの秘密基地?」


「電子ジジイは電脳サブリメイションしたの」


 南萌姉ちゃんの言葉に反応するように青白い光が一瞬強く輝いた。


「病気で死んじゃう前に電脳世界に人格をコピーして、そしてたった一人でこの町を守ってる」


 電脳サブリメイション。それは2040年頃に確立された革新的な電子技術だ。たしか、擬似人格ストラクチャーとも呼ばれてるはず。いわばAIによる人格の外部記録装置で、まるで本人と会話しているかのようにAIが人格を再現してくれるシステム。たとえ死んだ人でもネットの世界で人格が生き続けるわけだ。


 電子ジジイがネットの世界に自分のコピーを残したって? 何で? そしてこの町を守ってる? 何から? ちょっと何言ってるか本気でわからない。


「詳しくは電子ジジイに聞いて」


 僕の頭上に浮かんでいるクエスチョンマークから目を逸らすように南萌姉ちゃんは事務椅子に座ってくるりと背を向けた。


 それが合図になってゲーミングPCたちが青と白にピカピカと明滅して、真っ黒だったマルチディスプレイ群に光が灯る。見ると、それはゲーム画面のようだ。


「おじいちゃん?」


 そのディスプレイの点滅が、説明のしようがないけれども、何とも電吉おじいちゃんっぽかった。対戦ゲームで電子ジジイを返り討ちにしてやった時に見せるわざとらしい瞬きにそっくりだ。


 新型感染症対策で二年以上直接会うことはなかったけど、ビデオチャットで何度も何度も会話してるから、オンライン対戦で何度も何度も戦ってきたからわかる。このPCの中におじいちゃんがいる。まさしく電子ジジイだ。


 ディスプレイのゲーム画面はレトロ感たっぷりのRPGのフィールド上だ。ドット絵がけっこう細かく色使いもきれい。


 そのゲーム画面に一人、デフォルメされたドット絵のキャラクターが現れた。特徴のある崩し文字が画面に並ぶ。ご丁寧にピコピコ音付きで。


『おお、勇者理来よ。よくぞ来たな! 遠かったろう。新幹線は楽しめたか?』


 その喋り方は、まさしくチャットの電子ジジイそのもの。


「そのキャラが電脳サブリメイションした電子ジジイよ」


 回転する事務椅子にあぐらをかいて座る南萌姉ちゃん。制服のスカートから白い太ももがちらりと覗く。僕は目のやり場に困り、ただディスプレイのおじいちゃんキャラに注視するしかなかった。


『いやあすまんな。おじいちゃん、死んじまった。もっと対戦したかったな』


「ほんとにおじいちゃんなの? このPCのハードディスクにいるの? それともクラウドおじいちゃん?」


 思わずディスプレイに話しかけてしまう。それくらい普通におじいちゃんな話し方だ。


『俺は本物の電子ジジイになったんだ。さすがにメモリーが足りずに何台も並列処理させてるがな。南萌に頼んだんだ。なかなかやるぞ、この子は』


 南萌姉ちゃんが事務椅子の上で肩をすくめて見せる。


『もっと話したいが、事態は急を要する』


 ゲーム画面に僕と南萌姉ちゃんっぽいドット絵のキャラクターが登場し、魚市場っぽいエリアの事務所っぽい小部屋にいる絵に切り替わった。


『南萌と一緒にこのゲームをクリアして、世界を破滅から救ってくれんか?』


「電子ジジイがいろいろアドバイスをくれるんだけど、あたしじゃさっぱり。この町が舞台になってるっぽいけど、あたしレトロRPGやらないからわかんないのよ」


 この町は僕にとっては異世界だ。おじいちゃんの葬儀にやってきた転生勇者みたいなものだ。僕だって何が何だかさっぱりわからない。


『まずは北の祠へ行くがいい。家の裏の作業小屋だ。そこに財宝が隠してある。おじいちゃんのレアアイテムだ。それで装備を整えるがいい』


 電子ジジイは秘密めいた言葉使いで僕と南萌姉ちゃんに言った。ドット絵のキャラがもったいぶった身振り手振りでドット絵の僕と南萌姉ちゃんに解説してくれる。


「南萌姉ちゃん。北の祠、行ってみる?」


 僕はゲーム機を取り出して、南萌姉ちゃんも電子ジジイのゲーム機に電脳化した電子ジジイの一部をインストールした。これでいつでもネット端末として行動制限された電子ジジイとお喋りできる。


『さあ行け、勇者理来、勇者南萌よ。電子ジジイと一緒に世界を守るのだ!』


 夏休み。おじいちゃんの家。知らない大人が集まる葬儀。久しぶりに会う大人びた従姉妹。すべてが僕にとって特別な異世界だ。僕は転生勇者。ヒロインは南萌姉ちゃん。とっておきの一週間の冒険が始まろうとしている。

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