第22話 復讐

「今日はせんぱいにお別れを言いにきたの」


「……ん?なんて言った」と僕は尼崎の顔を一瞬見て、すぐに視線を逸らす。

「せんぱい、私は尼崎えるなんて名前じゃないんだ、そんな子は実在しない。思い出せないかな?せんぱいとは結構前から知り合いなんだけど」と尼崎は首を傾げた。いや、首を傾げたように見えた。微妙な動きを僕は視界の端で感じた。僕は意味が分からずに何度も頭の中で尼崎の言ったことを考えた。

「どういうこと、これサプライズなんか?動画を回してるのか?」と僕はわざとらしく周りを見渡して見せた。

「違うよ……ヒントをあげるね。病院、ゲロ、後輩」と尼崎は何でもないようにすらすらと喋っていく。

「分かった?もうちょっとヒントが必要かな?」と尼崎は黒縁のメガネをかけた。僕は、あの時のトラウマを鮮明に一瞬にして思い出した。気持ち悪くなってゲロを吐きそうになる。

「そんなことってあるかよ」と僕は頭を抱えた。僕は目の前の悪魔のようなカエルから目を逸らし続けた。

「せんぱいに……お前の顔冗談だろって、ゲロ吐かれてから…この時のために準備してきたんだよ。ダイエットして…メイクして、髪型を変えて、名前を変えて…性格を変えて。全てはせんぱいを誕生日のクリスマスの最高の瞬間で振るために」と彼女は泣きそうな声でそう言った。その言葉は復讐に成功した者の勝利宣言とは程遠い、崩れた脆い言葉が辛うじて繋がっているように思えた。

「せんぱいは、鈍いから全然気がつかなかったね」と尼崎えるは、ぎこちなく笑った。

僕はあれからずっと、過去から逃げきた。そして君の前でずっと”自分だけがあの事件でトラウマになった”と被害者ズラでいたことに気付かされた。でも尼崎は、あの後、自分のトラウマから逃げず、努力して僕と友達になり、恋人のフリまでした。そこで僕は思い出した。尼崎が最初から知り合いのように親しく接してきたことも、せんぱいと呼んでくることも、ガチャガチャが好きでちょっとオタクな部分もあることも、全部尼崎からのヒントだったのではないかと。僕が気付けばそこで、復讐をやめるつもりだったんじゃないだろうか。なんで僕は気づけなかったのだろうか、あの時の少女だと。

尼崎えるという名前は、君が持ってきてくれた恋愛漫画のヒロインの名前じゃないか。僕の目には涙が溢れては落ちていった。

「ごめん、僕はずっと君を苦しめていた。あの時の僕は未熟だった、本当にすまなかった」と僕は謝った。


逃げて、逃げ続けて、熊本から神奈川まで来たというのに、やはり先送りにした問題は僕に追いついた。謝って済むほどのトラウマなのか分からない。だが、僕も恋愛で傷つく痛みを知っているつもりだった。


「……もう十分復讐したから、別にいいよ。この観覧車が終われば私たちは他人。もう顔も合わせることもないようにするから」と尼崎は冷たく言った。だが、そう言う尼崎は、カエルになっていた。それが僕にとって嬉しいと思える日が来るなんて思わなかった。皮肉なことに、僕が尼崎を運命の相手だと思ったのは、尼崎は復讐が目的で僕に告白したからだとようやく思い至った。思いが一方通行だったからカエルには見えなかった。ならば、尼崎は徐々にカエルになった理由は僕に好意を持っていることの証明だった。ゴンドラはちょうど頂点に達していた。


彼女がトラウマの僕を前にして友達や恋人のように接してくれたように、今度は僕がカエルになったとしても受け止めてみせる。何度もそう思ってダメだったが、今の自分ならいける気がした。実際にその1歩を僕は踏み出した。

「信じてもらえるか分からないけど僕は、恋愛対象の女性がカエルに見えるんだ。高校3年の時に事故に遭ってからずっと僕は、その問題に悩まされていた。僕が病室で吐いたのもそれが原因だ。カエルが嫌いなんだ。昔田んぼで〜」

今まで誰にも話さなかったカエルの話を僕はゲロでも吐くかのように尼崎に全部話した。そして静かに、僕の告白を聞き終えると「そっか、だとしたら尚更付き合えないよ」と彼女は独り言のように呟いた。すぐに信じて貰えるとは思えなかったが、尼崎は何かに納得したような顔だった。

「どうしてだよ、僕は尼崎の顔がカエルに見えたってもう狼狽えない。中身が好きなんだ」と僕は必死に伝えようとした。

「カエルの話を聞いて、全部分かっちゃった。本当はせんぱいの心の奥で何が起きているのか」と尼崎は上を向いて、深呼吸した。

「なんだよ、それ」と僕はイライラした。以前ぴょん吉と話した時と同じような感覚だ。

「せんぱいのことは、私の方がよく知っているから。でもそんな真面目で一途なせんぱいだからこそ好きになったんだけどね」と尼崎はさらりと言った。お互いが好きなのに一緒に居られない理由が僕には分からなかった。しばらくの沈黙の後、尼崎は口を開いた。

「ねぇ、最後にせんぱいから私に告白してよ。私ばっかり告白してるから」

「………本当の名前なんて言うんだ?」

「薬師寺(やくしじ)珠緒(たまお)」と彼女は言った。全然違う名前に僕はおかしな気分になった。

「珠緒好きだ、僕ともう一度付き合ってくれないか?」と僕は言った。

「ごめんなさい」そう笑った彼女の顔は晴れやかで、完全に僕を過去にしていた。ゴンドラはゆっくりと乗り場まで戻り、扉が開くと僕たちは外に出た。彼女は「じゃあ今から行くところがあるから」と走っていった。

残された僕は「今までありがとう尼崎」とつぶやいて、駅までゆっくりと歩く。初めて告白して振られるという痛みを僕は知った。この痛みを知らないまま数多くの人を振ってきてしまった。それは彼女たちにとってどれほどの痛みだったのだろうか、僕は涙を流しながら1歩ずつ前へと歩いた。

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