第7話 嘉元しょうこ

「早く授業終わんねぇかな」とぴょん吉は教室の後ろの席で、突っ伏していた。今日ぐらい休むこともできたが、ぴょん吉は意外なところで真面目さを発揮する。

「まぁ、もうすぐ終わるって」となだめつつ、僕もぴょん吉に同意だった。というのも、鍵の件を大家さんに電話し忘れていたのだ。出欠を授業の終わり頃に毎回取るため、電話するために出て行くと出欠までに間に合わないかもしれなかった。

「えー、ではこれで授業を終わります」とおじいちゃん教授は出欠を取り終えてゆっくりと教室を出て行く。


僕は教室を出て、大家さんにすぐに電話をしようとした。するとまた、背筋にあの粘っこい視線を感じ、すぐに僕は辺りを見渡した。だが、教室から出てくる生徒が多く誰の視線かまでは分からない。尼崎と一緒にいるところを見て、勝手に諦めたと思っていたがやはりこの場で断っておく必要がありそうだ。

雪崩のように出て行った学生がいなくなると、そこには1人女性が立っていた。暖かそうな黒いタートルネックにシルバーのサテンキャミワンピースを着て、ショートブーツを履いていた。そのまま、コツコツと音を鳴らし距離を縮めてくる。


長い艶やかな黒髪に、対照的な白い肌。ぱっちりとした綺麗な目が僕を真っ直ぐに見ていた。その時、僕の体は電撃を受けたかのように動かなかった。瞳孔も今までにない程に、開いていたに違いない。とにかくタイプの顔だった。

「連ちゃん。………久しぶり!昨日ぶつかった時に鍵を落としたよね」と彼女は、柑橘系の甘酸っぱい匂いを漂わせて言った。深呼吸したいほどにいい匂いだったが、緊張した僕はすぐに息を止めた。確実に僕の思考は、先程の授業を受けていた時よりもさらに回転していた。だが、呼吸を止めたせいか酸素が足らず、うまく思考がまとまらない。頭には”断らなければ”ということでいっぱいだったが、告白もされていないのに何も断ることは無かった。

 ここ2日間の粘っこい視線は、鍵を渡すタイミングを探していたと考えるのが普通だろう。だが、彼女の妙に親しげな態度を僕は疑問に思い、返事が辿々しくなった。いくら過去を振り返ってみてもこんなに綺麗な人は見たことがなかった。そもそも昨日ぶつかった相手とは思えない、髪はボサボサではなく、メガネをかけていなかった。

「えぇ……。あ、ありがとうございます。前に会ったことあります?」と言いながら、鍵を受け取る。僕は顔を見れずに、鍵に向かってお礼を言った。

「え、あっ……すみません。人違いでした」と彼女は少し落ち込んでいるように見えた。そのまま帰ろうとする彼女を僕は勇気を持って引き留めた。

「すみません、名前教えて貰っても?」と僕が聞くと、彼女は振り返って「嘉元しょうこです。じゃあ」と小走りで行ってしまった。


「なぁ、今の誰なんだ?すごい可愛かったけど」とぴょん吉が教室からゆっくりと顔を出した。

「ただの鍵を拾ってくれた人だよ」と僕はぶっきらぼうに言った。逆にぴょん吉が、黙って聞いていた方が珍しい。恋愛の話になるとぴょん吉はいつもより饒舌になるのだ。これ以上は絡まれたくはなかった。

「ほー、まぁよかったな。これで俺の貸した服のまま、合コン出ることはなくなったわけだ」とぴょん吉は大きな欠伸をした。

「あぁ…そうだね」と生返事をして、僕はその場で立ち尽くしていた。まだ鼻の奥に柑橘系の匂いが微かに残っていた。

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