第4話 尼崎える

その日は、2限の英語をすっぽかして、昼食を食べることにした。遅刻しそうだからって朝食を食べずに来たのは失敗だった。完全に頭が回っていない。先に進んでいるつもりが、英文の同じ行を何回も読んでいたことに気づいた時、僕は教室を後にした。

 

学食の前でメニューや食品サンプルを見ていると、不意に視線を背後に感じ、僕は振り返った。だが、昼間の混む時間帯の前に食べてしまおうとする学生が意外と多く、誰からの視線なのか分からない。そもそも僕の勘違いかもしれなかったが、学内でも「一目惚れした」と何回か告白されたことがある。そのためか、いつのまにか人の視線に敏感になっていた。このまま悩んでいるフリをして人が減るのを待って見るか、と僕は考えた。どうせ断ることになるのなら、僕に対する幻想が肥大化する前に早めに振ってしまおうという魂胆だ。すると、背後から声をかけられた。

「せーんぱい!何してるの?」と一緒にメニューを覗き込んでくる。

「あー…尼崎。前にも言ったけど、夏休み明けだからもう一回言っとく。一浪しているからと言って、僕のことを先輩と呼ぶのはやめてくれ」

「えー、せんぱいは、せんぱいだよ」と無邪気に笑う尼崎えるは、僕の肩をポンポンと叩いた。この笑顔と気さくな話し方に、多くの人は警戒心が働かない。尼崎はボディータッチも多い方だが、嫌な感じが全くしなかった。実際にはやらないが、尼崎となら肩を組んで歩くこともできる気がした。栗色の髪は、計算されたように緩やかなウェーブで肩下まである。ぱっちりとした二重に、控えめな鼻と口、動物で例えるとトイプードルのような女性だ。ふんわりとした白いブラウスの上に、ベージュのニットベスト、プリーツの入ったロングスカートを着て、小さなショルダーバッグを持っていた。


「せんぱいだと思うなら、せめて敬語をつけてくれ」と僕は視線をメニューへと移した。

「嫌だよ、敬語は距離ができちゃうからさ。せんぱいと、えるの仲じゃん」

「せんぱいと呼ばれる度に、僕は辛い浪人生活を思い出して、心が抉られるんだけど」

「それは、心配だね。えるが癒してあげようか?」

「本当か?お前は心の友だ。……って、傷つけてきたのも尼崎だけどな」

綺麗なマッチポンプだった。


「ところで、学食のメニューなんて変わり映えしないものを、よくそんなに悩めるね」と尼崎は屈んでショーケースを覗いた。

「尼崎、何か奢るよ」

「いいの?でもなんで?」と尼崎は可愛らしく首を傾げる。

「いや、なんとなく」と僕は最初から決まっていた生姜焼き定食の食券を買うとトレーの上に箸を置いた。

「私は、シェフの気まぐれパスタ。メガ盛りハンバーグトマトスパゲッティにする」

「そんなメニューあるのか?」と僕は驚く。

「気まぐれだから、あそこに居る宮田さんがいない日は出ないよ」と尼崎は厨房を指さした。

確かに、食堂のおばさんの中に紛れて、無駄に意識の高そうなコック帽を被ったおじさんがいた。というかこちらに気づいて、手を振ってきた。僕に、というより尼崎にだろう。尼崎は本当に誰とでも仲良い。

「今気がついたけど、気まぐれってパスタの内容じゃなくて、宮田さんがいるかいないか、気まぐれってことかよ!意識高いのか低いのか分からないな宮田さん」と僕は少し遅れてツッコミを入れた。

「噂では宮田さんの技術は、特別待遇に値するとかしないとか」と意味深なことを言い残し、尼崎は水を取りに行った。

 僕はパスタコーナーの食券を買いに行く。食券機の前で僕は度肝を抜かれた。“シェフの気まぐれパスタ。メガ盛りハンバーグトマトスパゲッティ”と長すぎて、2行に小さく印字されたボタンには“2000円“と油性ペンで書かれていた。

「たっっっっk」と僕は吹き出しそうになる。尼崎のやつ、僕に何か恨みでもあるのか。

「どうしたの?」と尼崎は両手に水を持って帰ってきた。

「いや、パスタなのかスパゲッティなのかはっきりしろよ宮田さん。って思っていたところだ」と僕は慌てて誤魔化した。

「た、確かに。せんぱいはなんでもツッコミを入れたがるよね」と尼崎は笑っていた。

結局、僕は2000円を払う選択をした。

奢ると言った手前引くに引けなかったというのもあるが、尼崎にはいつも仲良くしてもらっている。日頃のお礼みたいなものだ。


大きめの4人がけテーブルに座り、尼崎に了承を得てから、先に僕は生姜焼き定食を食べ始めた。食堂の生姜焼きは懐かしい味がするからいつも頼んでいる。

尼崎のパスタは麺だけで400gあるらしく普通のハンバーグがミートボールに見えてしまう量だった。別々の工程を同時進行し、この量のパスタを数分で出した宮田さんの技術は特別待遇も頷ける。正直大きすぎて、周りの目を気にしてしまう程だ。僕は携帯で明日の授業の課題を見ながら、ゆっくりと食べ進めた。

15分経ち、どうゆうわけか先に食べ始めた僕よりも、早く食べ終えた尼崎は、「ごちそうさま、次移動だからまたね〜」と席を後にした。

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