第3話 ぴょん吉

今から大学で授業を受けるとは思えないほどの軽装で、僕は大学に向かっていた。駅からくる学生が少ない、腕時計を見ると9時15分を指していた。すでに15分の遅刻だ、完全に油断した。家から大学までそこまで距離はないが、その余裕が逆に気を緩ませて遅刻をすることも多い。それに、夏休み明け1発目の授業は特に、体が追いついてこなかった。


斜め掛けの小さなバックから携帯を取り出そうとしたが、チャックがバックの裏地を噛んでうまく開かなかった。退院祝いに、親に買って貰った携帯は、丁寧に使っているため綺麗なままだった。

「やばい、遅刻しそう。席取っといてくれ」と僕は大学で出来た友達の、ぴょん吉にメッセージを送る。

 入学してすぐ、本人に「何であだ名がぴょん吉なのか」と聞いたら、高校のバスケ部で1番高く飛べたからそう呼ばれるようになったと言っていた。本名も何度か聞いたと思うがぴょん吉よりも印象が薄く、うろ覚えだ。何とか〜吉なのは間違いないが。


 大学に続く長い坂を睨みつけると、ため息のように息を吐いて走る。坂の中腹程まで登ったとき、携帯が震えた。

 「またか、気をつけてこいよ」とぴょん吉から返信がきた。



あの事件の後も何度か好きな人が出来て両思いなった。リハビリを手伝ってくれる、作業療法士の女性は歳上だったが、とても制服が似合っていて清楚な人だった。ポニーテールが彼女の頭の小ささを際立たせ、マスクが彼女の綺麗な顔を隠していることにもどかしさを感じるほどだ。声も綺麗で、応援される度に男なら格好をつけたくなる。そして辛い時期に、文字通り僕をいつも支えてくれた。彼女がいなかったら、リハビリを毎日続けられたか分からない。

 そして、家庭教師の大学生の女性は、知的でいい匂いがした。家に来た時は靴を綺麗に並べるし、笑い方も可愛らしい。茶髪がよく似合い、常に話が途切れることがなかった。よく大学に受かったなと思うほどに僕は彼女に夢中になっていた。問題が解ければ、何度も褒めてくれたし、なんと言ってもいい匂いが…。

だが、そんな幸せな時間はどれも長くは続かなかった。「この人ならば、大丈夫かも」と毎回、運命の人だと信じて疑わなかった。その度に蛙へと変わる彼女らを見てきた。そして時間が空き、興味が無くなった頃に彼女らはよく知った顔に戻っている。好きな人がトラウマを呼び起こし、更なるトラウマに、いつしか僕は恋愛に臆病になっていた。

こんな辛いことを何度も経験したくなければ、女性と出来るだけ関わらないようにするべきなのだが、僕は結構モテる。そして大抵、悪い気はしないのだった。田舎では分からなかったが、都会に来て、渋谷や原宿を歩けば大体スカウトされることを知った。


僕は恋愛がトラウマになったあの日から、恋愛漫画や小説を読むことで、自分の足りない経験を得ようとしていた。あるいは、単純に普通に恋愛出来ることへの憧れだったのかもしれない。そして読む度に、病室に恋愛漫画を持ってきてくれた女の子の姿を思い出すのだ。

 

 大学に着いたが、僕の急足は止まらなかった。教室まではまだ距離があり、かなり時間がかかる。北山大学の学内は、夢の国と呼ばれている某テーマパークほどの大きさなのだが、そのため生徒には「夢も希望もないテーマパーク」と言われていた。共通してあるのは創設者の銅像と噴水くらいだろう。それもすでに目新しさにかけ、今では見向きもしない。

10月の微妙な気温のためか、走ると熱気がこもって暑くなり、脱げば肌寒くなる。着たり脱いだりを繰り返しながら進んでいった。棟に駆け込むと風がなくなり、ちょうど良い具合になった。そこで、携帯が鳴った、知らない番号からだ。最近はネットショッピングをすることも多く、迷惑メールや知らない番号から電話がかかってくることも増えた。授業中にかけてこられても迷惑なので、僕はすぐに着信拒否にした。


 2階にある巨大な教室に入ると、こちらに気づいたぴょん吉が奥の席から手をあげた。生徒の数が多いせいか、空気が生ぬるく感じる。僕は席に着くと、前に映し出されているモニターから、授業の内容を読み取ろうとした。裸眼では小さくて見えない。

「出欠はまだとってない、これ古池の分のプリントな」とぴょん吉は欠伸をしながら眠そうに言った。

「ありがとう、結構道が渋滞しててさ」と僕はプリントを受け取った。

「いや、お前歩きじゃんか」とぴょん吉は笑いながらツッコミを入れるとプリントの穴埋めに戻る。プリントを見た感じ、どうやら記憶についての授業らしい。

「ぴょん吉シャーペン貸してくれない?」

「いいよー」とぴょん吉は快く貸してくれた。

「えー。記憶は大変、心理学と通じています」と小藪教授は低い落ち着いた声で、話を進めていく。


 僕が心理学を専攻したのには理由があった。事故に遭った後から、異性が「カエル」見えるようになったのには何か理由がある筈だと僕は考えた。それが何なのか分からない。人の心理について学ぶことで己を知り、トラウマの「カエル」を克服しようと考えた。だが、そんな固い意志も最近は緩んできていた。それは、心理学の巨匠達の名言に救われたということもあるが、友人の存在が大きかった。必ずしも愛情が全てではなく、僕には友情がまだ残っていた。遊園地や観光地で1日中デートする相手がいなくても、ファミレスでいつまでもふざけ合いながら、日が暮れるまで話せる友人がいる。それだけあれば今は十分だった。

「古池、この前話した合コンの件考えてくれたか?」

友達がいればいい、と思っていたのは僕だけだったみたいだ。ぴょん吉は彼女が欲しくて堪らないようだった。

「いや、今は彼女欲しいと思ってないから、そんな奴が合コンにいても迷惑だと思うし…」と僕はさりげなくまた断った。

「何言ってんだよ!古池がいるだけで、女子は来てくれるんだから、というか逆に何もしないでくれ!」とぴょん吉は大袈裟に言う。「おい」とツッコミを入れようとしたが、教授の声に遮られた。


「えー後ろの方々お静かに。心理学で有名なアドラーは、「原因論」を否定しています。原因論は、結果にはすべて原因があり、自分が現在置かれている状況は自らの過去によって決められるという考え方になっています。原因論を否定するということは、つまりアドラーはトラウマを嘘だと言っているのです。もちろん、過去の出来事が今の自分に影響していることはあるでしょう。実際には、過去が決めるのではなく、今の自分が決断しているのです。目的論とは、人間の行動にはすべて目的があり、自分が現在置かれている状況は自分の目的を達成するために”自らが選択した道”であるという考え方です。」


「怒られたな」と僕は少し呆れ顔でぴょん吉を見る。

「小藪のやつ、また同じ話してるじゃん。記憶の授業なのに、自分の方が心配だろ?」とぴょん吉は不貞腐れながら机に突っ伏し、プリントに落書きをしている。

だが、僕は教授の言葉が耳から離れなかった。確かに僕もいつまでもトラウマに向き合わないわけにはいかない。それに数少ない友人のお願いを聞いてやる度量のある人間でありたかった。

「なぁ、やっぱり僕も行くよ合コン」と僕はぴょん吉の方を向かずに言った。

「……まじか!?」とぴょん吉は視界の端で、その名の由来通りに上半身を跳ね起こした。

「君たちこれ以上騒ぐなら教室から出なさい」と教授は表情を変えずに注意を促した。

「すみません静かにします」と二人で軽く謝ると、授業が再開する。


「あと、尼崎には合コン内緒な」とぴょん吉は、余白に書いた無駄に上手いアドラーの似顔絵を仕上げながら小声で言った。ぴょん吉は変なところに才能を持っているのだ。

「なんでだよ、別に伝えてもいいんじゃないか?友達なんだし」とかなり声量に気を使って聞き返す。

「ダメだ。前に合コンするって言ったら、尼崎めちゃくちゃ怒ってたしな」とアドラーに怒りマークを付け足した。さらに吹き出しをつけて、「トラウマってどんな動物?」と原因論を煽るようなことを言っている。


 ちなみに、尼崎は女性だ。何故、僕が女性と友達になるという、奇跡みたいなことが起きているのかというと”尼崎(あまがさき)える“は初対面で僕に全く動じなかった。尼崎は僕だけでなく周りにも、まるで昔から知り合いだったかのように接するのだ。今は行かなくなってしまったが、ぴょん吉に誘われて行ったテニスサークルで尼崎とは知り合った。

男女の友情など信じない僕だったが、この尼崎(あまがさき)えるだけはすんなりと受け入れてしまった。


 そんな男女に分け隔てなく接する尼崎が、合コンくらいで怒ることが意外だが、もしかしたらぴょん吉のことが好きなのかもしれない、僕が恋愛漫画や小説で鍛えた洞察力がそう告げていた。

普段から三人グループの僕からしたら、この歪にも絶妙なバランスを保っている関係性が崩れてしまうのは残念だが友達として応援しよう。

「分かった、言わないことにするけど。運命の相手ってのは案外近くにいるかもな」と僕は得意げな顔で笑った。

「運命の相手?古池って意外とロマンチストだよな。別に在学中だけ、付き合えたらいいんだけど」とぴょん吉はイケメン顔負けの発言をしている。

ぴょん吉が「テレビでメンタリストを見て、心理学を学べば人の心を読めるようになる」と勘違いして入学したことを合コンで、ばらしてやろうかと僕は思った。


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