第2話 カエル・トラ・ウマ

 彼女の顔は“カエル”になっていた。


顔の皮膚は蛍光灯の僅かな光でぬらぬらとした質感を感じさせ、その目は焦点があっておらず、ぎょろぎょろと何もない空間を舐めるように見ていた。普通のカエルではない、人間の頭部程もあるカエルの顔だ。着ぐるみを被ったかのように、表情が読み取れない。その下は変わらず私服のままで、そのチグハグさが余計に気持ち悪くさせていた。彼女から目を離したつもりはない。告白をされて、瞬きをした瞬間、いきなりカエルに変わったのだ。

「大丈夫ですか!?」と彼女はよく知った声で言うと、僕に近寄ろうとした。だがそれを許しはしなかった。「近寄るな!」と僕は叫ぶと後退りする。ガタリとベッドが揺れた。花瓶が倒れ、隣に置いてあった漫画にかかると、吸いきれない水が床へと滴り落ちていく。

「なんだ、その顔、冗談だろ……」と息が漏れるように言葉が出てきた。本心だった。

 その時の彼女の顔は今でも鮮明に覚えている。大きなギョロっとした目から涙が流れ、蛙の顔が歪み、とにかく酷かった。耳が痛くなるほどの静寂の後、僕は慌ててナースコールを押した。次の日から彼女は病室に来なくなった。初恋は、甘酸っぱいとはよく言うが、僕の場合は本当にゲロで酸っぱかった。それに、カエルはゲロゲロと鳴くことを考えると笑えない冗談だ。


 カエルになった彼女が逃げるように帰ったあと、入れ替わるように看護師が入って来て、僕はようやく安堵した。その看護師は普通の人間の顔だったからだ。ゲロの処理をしてもらい、綺麗になったベッドで僕は先ほどの異常な現象について考えていた。思い出そうとすると、喉の奥がまた酸っぱくなったように感じる。やはり事故が原因なのだろうか。自分の携帯でこの現象について調べたいが、車に轢かれて壊れたらしい。新しいものを契約購入したが、もう少し時間がかかるだろう。何故カエルに見えるのか、それを調べることが先決かに思えた。


 僕は6歳の時、田んぼでカエル釣りをしたことがあるらしい。「いつから、カエルが嫌いになったのか?」と見舞いに来てくれた家族に尋ねると携帯から昔の写真を何枚か見せて、断片的に教えてくれた。言われてみれば、そんなこともあった気がする。

祖父の田んぼの横には側溝があり、そこに小さなカエルが沢山いた。家の庭にある雨上がりの水溜りにさえ、オタマジャクシがいるほどに熊本は自然に溢れていた。教えてくれたのが、誰だったか覚えていないが「連歌、カエル釣りをしたことあるか?どれ教えてやる」と田んぼから、猫じゃらし(正式名称は狗尾草だったか)を取ってくると、その人は穂先を先端以外ちぎって田んぼに垂らした。穂先はカエルの前を虫の如く二、三度飛んで回り、吸い込まれるように口に入る。その瞬間、引っ張り上げるとカエルは無防備に空中に投げ出され、僕の顔に張り付いたのだ。カエルは驚いたのか、叫ぶ僕の口に入りそうになった。というか、半分くらいは入っていた。それだけでも十分トラウマだが、パニックになった僕は足を滑らせて側溝に落ちたのだ。その人は、笑いながら側溝から引き上げてくれたが僕は大泣きして、それ以来、カエルが大嫌いなったそうだ。そして何年も経って、さらにカエルが嫌いになるようなことが起こった。あのカエルの顔がまだ脳裏にこびりついて消えない。まるで見えない傷を頭に直接付けられたかのようだった。この先、リハビリと1年間の浪人生活が待っていると考えると更に憂鬱な気分になった。カエルのことも気がかりだが、リハビリに受験勉強と、忙しさが忘れさせてくれるだろう。そう願いながら、僕は深い眠りについた。 


それから、約1年のリハビリと猛勉強の結果、僕は神奈川の北山大学に入学ことが出来た。文学部、心理学科を専攻している。九州にある熊本から離れて、都会の神奈川の大学を受けた理由は、家族と気まずかったというのが大きい。だからこそ、1人暮らしは魅力的だった。好きな時に好きなことをし、自分の好きなものを食べたい分だけ食べる。その分、空いてる時間はコンビニとフードデリバリーをして稼いだ。熊本にいたら、親が心配してデリバリーはやらせてもらえなかっただろう。実際、交通事故に遭ったせいで、しばらく車が怖かったが、それは時間が解決してくれた。それに今はお金を稼ぎたいという気持ちの方が強かった。地元の苦い思い出を全て忘れて、新生活と薔薇色のキャンパスライフが僕を待っている。

 そうして手に入れた自由の代償に、バイトをして過ごす内にあっという間に1セメスターを終えて夏休みに入り、そして終わっていった。


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