井の中の蛙大海を知らず(完結)

土城宇都

第1話 げろげーろ

薄暗く、白い病室は今の僕の内面を表しているかのようだった。ベッドの薄い掛け布団がなければ、そそまま浮いていきそうな程だ。時折、誰かが咳き込む声が聞こえるだけで、カーテンで区切られたベットからは何も見えない。慣れない消毒剤の独特の匂いが鼻を刺した。

 僕はひっそりと息を潜めて、唯一見える天井の茶色いシミを数えていると、医者から言われたことをもう一度思い返した。「古池(ふるいけ)連歌(れんが)さん、あなたは事故に遭いました。覚えていますか。」と冷静にかつ淡々と、医者は僕の体の状況について教えてくれた。パニックにさせないようにという医者の配慮だろうが、僕にはそれが、所詮は他人事だと言っている様に思えて苛立ちが募っていった。溜まった黒い感情を吐き出すように、深いため息をすると、窓の外を見る。積もるほどではない中途半端な雪が空から、ふらふらと落ちていくところが見えた。落ちれば、あとは消えてなくなるだけだ。

 骨折した手足だけではなく、僕がここまで追い詰められているのには別に理由があった。「何で、センター試験が控えるこの時期に………」と何度自分を呪ったことか。家族は何度か見舞いに来てくれたが、僕の様子を見ると気まずくなったように帰っていく。内心ほっとした気持ちだった。どうせ何を話せばいいのか分からない。包帯が蒸れて、頭が痒かったが、ギプスが腕を固定し自分ではどうすることもできなかった。そんなことすら一人で出来ない自分に嫌気がさす。誰かと話せば、少しは心が紛れるかもしれないが、今の僕にはそれも出来なかった。時間が解決してくれるのを待つしかないのかもしれない。幸い時間ならある。

 

ふと目が覚めると、ベット横の小さな机には母が置いて行ったらしいコンビニ袋があった。いくらでも寝られるのだから起こしてくれても良かったのにと思いつつ、おにぎりを食べる。張り付いた海苔を、最後の一欠片を麦茶で流し込むと、カーテンが揺れていることに気がついた。僕はゆっくりとカーテンを開けた。そこには、黒縁のメガネをかけ、少しぽっちゃりとした黒髪の少女が立っていた。

「あの……何か?」と僕が言うと、彼女は少し顔を上げて、視線をこちらによこした。恐る恐る入ってくると下を向き、もじもじとその場に立ち尽くしている。制服は学年ごとに色があり、赤いワンポイントの刺繍は確か高校2年生だったはずだ。どうやら、同じ高校の後輩らしい。

長い前髪がベールのように顔を隠していて、顔はよく見えない。「本当に……」と彼女が小さな声でそう言った気がした。彼女は、果物の入ったゼリーを小さな机に置くと自己紹介を軽く済ませて帰っていった。声が小さく、全体的に聞き取れなかったが、僕には追いかけて話を聞くことすらできない。僕は代わりに残ったフルーツゼリーを眺めた。まだ買ったばかりなのか、病室の暖房で結露している。お見舞いといえばフルーツということなんだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、味気ない病院食の後にゼリーを食べた。

次の日になると彼女は暖色系のガーベラという花を持ってやってきた。ぎこちない会話を10分ほどすると慌てるように彼女は帰っていった。その次の日は、暇を潰せるようにと恋愛漫画を持ってくると、どれほど面白いのかおすすめして帰っていった。入院していなければ読まなかっただろうが、読んでみると想像以上に面白かった。少しずつだが、僕の心に冷たく降り積もった雪が溶け始め、いつしか僕は彼女を心待ちにするようになっていった。彼女との話題は季節の話や、スイーツ、漫画、猫、昨日見た夢の話など、どれも当たり障りのない内容だったが、そんな気を使わなくていい会話が、僕の心には一番必要だったに違いない。僕は聞き逃した彼女の名前を避けながら自然と会話していた。物寂しかった病室は彼女が持ってくる物で彩られていった。

 そんな生活が2週間ほど続いた時、彼女はいつものように病室に訪れた。だが、その日はいつもの制服ではなく、私服を着ていた。白いセーターに紺色の大きめのダッフルコート。ジーパンにブーツを履き、少し髪型を変えていた。縁の太いメガネを外して、耳には可愛らしいイヤリングをつけていた。僕は今までとは比較にならない程に彼女を意識した。今日は何かが違う。空虚だったあの頃とは別の意味で、僕は浮いていきそうな気分だった。一重だが、大きめの瞳が真っ直ぐに僕を見つめると、彼女はこう言った「古池先輩のことが、前から好きでした。私と付き合ってくれませんか?」と。

女子が勇気を出して告白してくれたのだ。そして、告白を聞いた時に、僕も彼女を好きになっていることに気付かされた。僕の返事は「はい」である。

 そのつもりだった。だが、僕の口から出たのは、告白の返事などではなく“大量のゲロ”だった。病室のベッドの上で込み上げてくるそれを、どうしても抑えることが出来なかった。今もなお続く嫌悪感に僕は顔を歪めると、無意識に浅くなっていた呼吸を元に戻そうとした。だが、うまく息が出来ずに嗚咽に変わっていく。そして再び、その元凶に視線を戻した。


 彼女の顔は“カエル”になっていた。

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