幕間
幕間 春嵐
大学生になったら、上京しようと思った。
Instagramに流れてくる東京を見ていると、そこには何でもあると思ったから。
どこにでもあるような地方都市。
みんなが
そんな空気に嫌気のさした私は、いつからかスマホだけが心の頼りになった。
スマホの小さい画面は、田舎の閉塞感に穴を開けて新鮮な都会の空気を吹き込んでくれるような気がしたのだ。
少なくとも自分の生まれ育った街で、何者にもなれないまま大学の4年間を
だから、受験勉強に
国立に行けるほど頭が良くないから、3科目で済む私立に。
受験のために東京にやってきた2月。
誰もが自分に無関心な人の列と田舎じゃありえないほどの長い電車にクラクラして、絶対に東京に来てやると決意した。
その決意のおかげかどうかは分からないけれど、私は合格した。
最初は進学上京に反対していた両親も、私の合格通知を見て笑ってくれた。
『頑張ってきてよかったね』と言ってくれて、私は春から大学生になった。
初めての東京、初めての1人暮らし。
1人暮らしの部屋はとても静かというのが発見で、東京は思っていたよりも桜が多いんだなというのも発見だった。
決して裕福な家庭じゃないのに、安全のためにと父親が借りてくれたオートロックマンションの家賃は8万円。アルバイトの求人情報に載っている時給だと、私は何時間働かないといけないかと計算して思わず目を回した。
反抗期で父親を嫌っていたのが、恥ずかしくなった。
そんな自分だけの部屋で、初めての自炊をした。
そして、大失敗した。
間取りの関係なのか、東京の家は全部こうなのか知らないけど、私の部屋にあるコンロは一口だけ。段取りが下手で、思わず卵焼きを焦がしてしまった。こんな簡単な料理すらできないのかとちょっと落ち込んだ。
そして、これから毎日ご飯を作らないと行けないのかと思って、母親はすごかったんだなと思った。高校生の時は出てきたご飯にケチをつけたりしていたけど、次からは無理だな、なんて考えた。
あれだけ待ち望んでいた夢の1人暮らしだったのに、いざ自分がやってみると寂しくて思わず友達との通話時間も増えた。
大学入学を1週間後に控えた頃、久しぶりの母親からのLINEで『アンタ。転入届は出したの?』というメッセージがスマホを震わせた。
転入届というのはつまり住民票を移動させる手段のことで、私が奨学金を借りるために必要な手続きのことだ。
そういえばまだやっていなかったと思って、母親には『明日出す』と送る。
すぐに母親から『アンタはいつもそういうことが遅れるんだから』と説教のメッセージが届き出したので、スマホをスリープにしてベッドに投げた。ご飯を作ってくれてたのはありがたかったけど、こういうのは面倒。
どうせ市役所……じゃなくて、区役所に出しに行くんだし間に合えば良くない?
そんなことを思って、私はそのまま眠りについた。
とはいっても万が一、奨学金が借りれなかったら私は学費滞納者だ。
せっかくの上京が不意にされるのも嫌で、次の日は区役所が開くのに合わせて転入届を出しに向かった。
初めて1人での手続き。
何がいるのか分からなくて印鑑とかマイナンバーカードとか入れたバッグを握りしめて区役所の中に入ると、平日の朝なのに既に人が多かった。
そんな人たちの合間を縫うようにして区役所の中に入ると、美人な区役所の人に話しかけられた。
「本日はどうされましたか?」
「え、えっと。転入届……」
「はい、転入届ですね。でしたら、この書類の黒枠部分に必要事項を書いてください。分からないことがあったら、何でも聞いてくださいね」
『転入届』しか言えなかったのにお姉さんは書類を手にとって、書くべきところを指でぐるっと丸して教えてくれた。東京にも優しい人はいるんだ、と田舎者丸出しな感想をいだきながら、『住民異動届』なる書類を書いた。
これからはこういうことも1人でやらないと思うと、何だか大人になった気がして、ちょっと嬉しかった。
住所とかを書いた紙をお姉さんのところに持っていくと、お姉さんは番号票を渡してくれた。すぐに私の番がやってきて、必須の書類を受付の人に手渡した。受付のお兄さんは、私の書類の代わりに『区民のおたより』と書いてあるパンフレットをくれた。
開いてみるとゴミの日なんかが書いてあった。
こういうのは、ちゃんと見ておかないと。
私がそれをバッグに入れている間に、転入届は受理されていた。
これで晴れて私も東京都民になれたんだという感慨と、高校生の時の夢が思っていたよりもあっさりと叶った拍子抜けのような感情が2つ混じって、私の中でぐるぐると回った。
結局、印鑑もマイナンバーカードも使わずに、私は区役所の用事を済ませた。
お昼ごはんにはまだ早い時間だし、一度家に帰るべきか、それともこのままどこかでお昼にしてしまおうかと思っている時に、私の足がふと区役所入口にある掲示板の前で止まった。
【区民への8のお知らせ】と書かれているボードに思わず目が向かったのだ。
そこだけ、やけに大きな文字で書かれていて、これからこの街の一員になるんだからと、私はそのお知らせに目を通した。
――――――――――――――――
【区民への8のお知らせ】
ここはみんなの
1. ゴミの
2.
3.
4.
5.
6. 『003』から
7.
8. この文章を読んではいけません
――――――――――――――――
最後の文章を読んだ瞬間に、私は何かまずいことが起きているんだと思った。
冷たいものが背筋を走り抜けて、逃げ出したい気持ちでいっぱいになったのに私の足はガッチリと固まって動かなかった。
『お、おし、お知らせはァ……。ちゃんと、読まないとォ……』
掲示板から不気味な声が響くと、腕と口が飛び出して私の腕をぎゅっと掴んだ。
その握力はとても強くて、痛くて悲鳴をあげたつもりだったのに、喉からは
怖くて、意味がわからなくて、周りに助けを求めようとしたのに、
「……な、んで」
他の人はまるで私に気が付かないように、みんな素通りしていく。
誰も私に気が付かない。
誰も私を見ていない。
意味のわからない存在は私の身体を引き寄せる。
両脚で踏ん張ったのにそんな抵抗なんて意味なくて、大きな口が、がばっ、と開いて……開いたまま固まった。
瞬きした瞬間に私を掴んでいた両腕が、ぼとりと地面に落ちた。
すると、後に残った口が区役所の入り口を向く。
思わず私の視線もそちらに向く。
すると、そこには1人の小学生が立っていた。
不思議なことに、その子は私を見ていた。
その子だけが、私を見ていた。
掲示板から突き出していた口は、もごもごと動くと、
『ひ、人をォ、傷つけては、い、いけませんって……お知らせに、書いて、あ、あるだろ……!』
「『勝手に張り紙を貼ってはいけません』も、お知らせに書いてあるけど」
『そんなの、俺の、勝手ぇ……』
と、口はそこまで動いて、真っ二つになった。
真っ二つになったあとは、黒い霧になって消えていった。
そして掲示板に貼られていた【区民への8のお知らせ】の張り紙が一人でに剥がれると、私の目の前でバラバラになった。
まるで、マジックでも見ているかのような光景に思わず目を丸くして……私は佇(たたず)んだ。
多分、その子が助けてくれたんだと思ったけど、どうやって声をかければ良いか分からずに掲示板を前にして、ただその子を見ることしかできなかった。すると、その子のお母さんっぽい女の人と、妹のような女の子がやってきた。
「イツキ。どうしたの、こんなところで」
「ううん。なんでもないよ」
「用事も済んだし帰ろっか」
そういって母親に手を引かれて去っていく男の子に、思わず私は声をかけた。
「ま、待って!」
その子は何も言わずにちらりと私を振り返って、
「助けてくれて、ありがとう……!」
その言葉にそっと微笑み、口を『どういたしまして』と動かすと……そのまま母親に手を引かれていった。
春の桜が、風になびいた。
東京に来て良かったと、不思議とそう思った。
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