第2話 現代日本に転生しました……日本?

 あれから、数日経った。

 そして、確信した。


 信じられないことだが……俺は本当に赤ちゃんになった。

 赤ちゃんになってしまったのである。


 いや、そりゃあ俺だって人生をやり直したいと思ったことは一度や二度じゃない。むしろ、やり直せるならやり直したいと思うことばかりだ。かつてのスタンプラリーのような人生を気に入っていたが、心の底から満足していたわけじゃない。


 でも普通、人生をやり直すとしたら中学とか高校からじゃね? 

 なんで生まれたばっかりからなん??


 なんていう苦情がどこに届くわけもなく、俺は母親の胸の中でおっぱいを飲んでいた。味は……よく分からない。そういえば、前にネットの記事で赤ちゃんは味覚が育ってないから、味の区別が付かないなんて見た気がする。


 生まれたばかりの俺の舌はまだ育ってないのだ。

 早く育ってほしいものだ。この身体だと、寝る以外に娯楽がないのだから。


 お腹いっぱいになったので、俺がおっぱいから口を離す。

 母親は俺の身体を持ち上げると、優しく背中をとんとんと叩いた。


「げっぷできるかな〜?」


 成人男性に言おうものなら煽(あお)り以外の何物でも無いが、赤ちゃんの身体は自分でげっぷすらできないのだ。


 そもそも、この身体はおっぱいを飲み込むときに空気と一緒に取り込んでいるらしく、食事したらお腹の中が空気でぱんぱんになる。


 それをげっぷとして吐かないと、俺は気持ち悪くて泣いてしまうのだ。


 母親に背中を叩かれること数秒。


「げふ」

「げっぷできて偉いね〜!」


 げっぷするだけで褒められてしまった。嬉しい。

 しかも、げっぷしたことで身体が楽になり思わず、顔がほころんできゃっきゃと声が溢れる。


 それを見て母親が笑ってくれる。

 

 なんて良い生活なんだ。


 前世において、人前でげっぷをしようものなら「きしょ」と言われることは間違いないし、意味も分からず笑っていれば「きも」と言われることは間違いない。


 だがどうだ!


 ここでは何をしたって褒められ、意味もなく笑うと母親もそれにあわせて笑ってくれる。これを幸せと呼ばないでなんと呼べば良いんだ。転生して良かった〜!


 と、思わず安心しかけたが……俺は母親のある言葉を思い出して、思わず泣き出しそうになった。『どうかこの子が無事に3歳を迎えられますように』という、あの言葉を。


 確かに赤ちゃんの身体は弱い。

 病気にかかったりすれば、命が危ないこともあるだろう。


 だが、ここは現代日本だ。それは間違いない。

 母親は俺が眠ったと思った時は近くでスマホを触っていることがあるし、遠くの方からテレビっぽい音も聞いたことがある。


 だからこそ、不思議に思うのだ。

 ……なんで『無事に』なんてことを言いながら祈るんだろう、と。


 赤ちゃんの身体は弱いし、成人と比較すれば死にやすい方だ。

 しかし、日本の赤ちゃんの死亡率は高い方ではない。むしろ低いほうだ。


 なんで知っているかって言うと、俺の前世の仕事は印刷会社で、地元企業のビラや広告、ポスターなどを印刷しており、その中に病院からの仕事があったのだ。仕事内容は赤ちゃんの死亡事故を注意喚起するポスター作成。


 入社してかなり最初の方にやった仕事だから、まだ覚えている。


 もしかして、この身体って持病とかあるのかな……と思ったが、赤ちゃんで命に関わるような病気を持っているなら入院しているはずだ。家にはいない。


 しかも何が気にかかるって、あの祈りが一度だけなら俺もここまで気にしていない。俺の母親は俺を寝かしつけてから、毎回そうやって祈るのだ。


 そんなことをされると、いかに中身が成人男性の俺とて不安になってくる。

 そして赤ちゃんの身体だと不安の気持ちを抑えられずに泣いてしまう。だから、なるべくそういうことは辞めてほしいと思っているのだが、


「……お願いします。イツキが、無事に3歳を超せますように」


 おっぱいを飲み終えて、うとうとしていたタイミングでそう言われて……俺は思わずびびった。


「ふぇ」


 と、泣き声を漏らすと、ぱっと母親の顔色が変わる。

 その不安そうな顔が、心配をかけているのだと思い俺はぐっと泣くのをこらえた。


 すると、母親はそっと俺の頭をなでながら、


「泣くの我慢できたの。えらいね〜」


 そういって褒めてくれた。


 あ〜。赤ちゃんの生活も悪くない〜。

 何だかんだ言いつつ、やっぱり何やったって褒めてもらえるのだから嬉しいに決まってる。


「寝んねしようね〜」

「あぅ」


 しかし、問題が無いわけではない。


 この姿この格好だと、何もすることが無いのである。

 つまりは暇だ。ただひたすらに暇なのだ。


 赤ちゃんとてテレビくらい見れるだろうと思っていたのだが、俺は早々にその考えが間違いだと悟った。


 この家、どうやら相当に広いらしく赤ちゃんである俺には俺だけの部屋が用意されており、そこにはテレビもスマホもタブレットすらもおかれていないのだ。


 教育熱心というかなんというか。情報過多に慣れてしまった現代人の俺からすると退屈で仕方ない。


 いや、もちろん寝る前に母親が絵本とか物語の読み聞かせをしてくれるのだが……今さら、シンデレラや白雪姫、ヘンゼルとグレーテルを聞かされても、なぁ?


 どれも知ってるっていうか、聞くたびに「そういえばそんなのあったな……」ってなる。


 せっかくだから、新しい話が聞きたい。何ならアニメとか見たい。でも、この身体だと見せてくれるアニメはやっぱり幼児向けなんだろうか。アンパンマンとか?


 暇さえなんとかなれば最高の生活なんだけどな〜と思いながら、俺は眠りにつこうとしたときに、あることに思い至った。


 ……そういえば、父親の姿を見てないな。


 俺がこの姿になってから数日。

 出会うのは母親だけで、父親に出会っていない。というか、母親以外の声も聞こえてくるのだが、どれも女性の声。この家にいる男は俺だけなのだ。


 これだけ大きな家に女の人1人で住むのは色々と不便があるだろう。

 それも中身が大人とはいえ、赤ちゃんを連れてだ。


 俺は子育てなんてしたことないけど、これだけ大きな家に住んでいて祖父や祖母の手伝いすら無いなんてことがあるだろうか?


 うーん。子育てしたことないから分からん……。

 子育てだけじゃなくて彼女も出来たことがないので、本当に何もかもが分からない。


 だから俺は考えるのをやめて、寝ることにした。

 時間を気にせず好きなだけ眠れるのも赤ちゃんの特権だしな。


 意識を手放そうとしたその時、下腹部から激しい熱が襲ってきた。


 なんだこれ……腹痛……?


 そんな悠長なことを考えた次の瞬間、ズンッ!!! と、腹の底に響くような激しい痛みと信じられないほどの熱が俺の身体を襲った。


「ほぎゃぁ! ほぎゃあ!」


 痛みと熱に耐えかねて思わず俺が泣き始める。

 すると、俺の横にいた母親が血相を変えて抱きかかえた。


「イツキ、大丈夫? イツキ!」

「ふぎゃあ!」


 痛い! 痛い痛い痛い!!

 なんだこれ!! 痛すぎる!!!


 俺が死んだときに感じていた痛みと熱。

 それに勝るとも劣らない痛みが俺の全身を襲った。

 

 呼吸が止まる。視界が荒れる。


 死。


 再びその言葉が頭をよぎる。


「大丈夫。大丈夫よ! お母さんがいるから!」


 熱に襲われ、回る視界の中で必死に俺を抱きかかえる母親の姿が見える。


 嫌だ。死にたくない。

 死にたくない。死にたくない!


 せっかくあの苦しみから逃れられたと思ったのに。

 もう死ななくても良いと思ったのに!!


「あぁ! なんであの人がいない時に限って……!」


 母親の言葉を聞きながら、俺は苦しみから逃れるべく身体のありとあらゆる箇所に力を入れた。


 それが功を奏した。


 ぶり、という嫌な音と共に俺の全身を襲っていた熱がお尻から抜けていったのだ。


 次の瞬間、先ほどまでの熱が嘘のように引いた。

 視界も穏やか。まるで、悪い夢でも見ていたかのように。


 ……死んで、ない?


 俺がほっと息を吐き出すのと、母親がはっと顔色を変えて俺のおむつを交換しにかかったのは同時だった。


「……『魔喰い』を耐えたのね。良かった。本当にいい子ね、イツキ」


 そう言って涙を流す母親。

 俺は『魔喰い』なんていう今まで聞いたことのない単語に首を傾げつつも、


「うゅ」


 俺のうんちを見ながら、母親が涙を流している光景に、思わず笑ってしまった。

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