第六章『暗転』➁

 いったい俺はどれくらい眠らされていたのだろうか?

 また、どれだけ記憶を遮断されていたのだろうか?

 とりあえず、意識は戻ったものの、一番最近の記憶であるはずのエヴァーグリーンホテルで忽然と俺の目の前に現れ、消えたドアマンの姿があまりにも醜く、恐ろしかったので目を開けることを躊躇っている。目を開けたとき、また、奴がいることを思うと憂鬱だが、まさか一生、このままでいるわけにもいかないのでゆっくりと薄目開けてみた。

 夜なのか、薄目だからか、それとも俺は盲目になってしまったのか絶望的な闇しか見えない。

 今度は視力二.〇の両目を闇に慣らせて、周囲を注意深く凝視してみる。

 頭上のハンガーにワイシャツが十枚ちょいとスーツが五着ほど架かっているのが見える。不幸中の幸い、五体満足で体はちゃんと動かせるようなので、手を伸ばしてワイシャツを触ってみるとどれもシルク地でかすかにシャネルのエゴイストの匂いが漂う。

「!」

 俺はその匂いに底のない不安と悪い予感を感じ、体中に電流が走るような悪寒を覚えた。なぜなら、俺の知る人間でひとり、背伸びして何とかかんとか東京人に化けようとする地方出身者が好みそうなこの香水を好む人間の顔が浮かんだからだ。

「リョウ!リョウなんだろう?」

 心身の疲弊と喉の乾きと今、白日に晒されようとしている現実が恐ろしくて大声が出なかった。俺はこめかみの鈍痛を押されて、闇に慣れた目で見つけたクロゼットの扉を二三発蹴ってみた。

 扉はすぐには開かなかった。できるだけ俺に闇の恐怖を植え付けたいのだろう。期待し、愛した分だけ憎しみも深いってわけか。それでも諦めきれずに仕舞いには拉致監禁か?ふん!泣けてくるね。「だからリョウはモテないんだ」と言ってやりたくなった。

「おい。リョウ!」

 今度はしわがれ声で怒鳴って扉を蹴ったら、扉は簡単に開いた。目をやられそうなほどに久々に見る光は強烈に俺の両目を射し、三十秒ほど俺はまともにものが見えず、うずくまって低く喘ぎながらゆっくりとゆっくりと細めた目を開き、顔を上げた。先ほど、或いは数日前に俺に一撃を喰らわせたニセドアマンが金のネックレスやらローレックスやらを身に纏い、黒の上下のスーツと言うこちらのマフィアのような格好で表情ひとつ変えずに「オークマーシィ(出て来い)」と威圧的に顎をしゃくった。

 俺は不審と不安と疑心でやっと光に慣れた目で周りを見渡すと、俺も何度か腰掛けたことがあるフカフカですわり心地のよいベージュのソファーに邪険そうと言うよりも寧ろ、淋しそうな目でリョウが俺を見下ろしていた。少し痩せてはいるが、モヒカンではないし、発狂したようには見えない。どうやら俺は白石さんに一杯食わされたようだ。

「リュウ。イヴの夜いらいだな」

 しっかりとした口調。嵌めたつもりが嵌められた事に気付く。腐っても相場師だ。俺よりも聡明なことはわかりきっている。

「白石さんに千バーツ渡して『俺が狂ったってリュウの耳に入れてくれ』って頼んだのに、心配してくれないんだな。まったく、薄情な奴だよ」

「生憎、ゲイは嫌いなんでね」

「親友だろ?俺たち」

 リョウはこれ見よがしにそう言うと、逃げ出そうにも、抵抗しようにも状況が把握できず、体に力も入らない俺の元に歩み寄ると言うよりは擦り寄り、親指で俺の顎を持ち上げキスをしようとしたが、俺は「厭だ」と思い、咄嗟にリョウの顔に唾を吐いて、「汚らわしい!」と拒絶したら、すぐに俺の悪態へその制裁であるニセドアマンの重い鉄拳が下っ腹に入り、俺は激しく咳き込んだ。

「リュウはいつもそうやって残酷なんだ。ゲイかと思えばそうじゃないし、散々、思わせぶりしといて彼女なんか作って俺に見せ付けるんだもん。わざと俺の思い通りにいかないようにしているようにしか思えない」

「言っただろう?ゲイは嫌いだって」

 今度はリョウが「信じられない」と言う目でまるで女のヒステリーのように俺の左の頬を打擲した。あまり痛くはなかったが、俺を殴るなんてそれはよくよくのことなんだろうということは流石の俺でもわかる。

「なぁ、リュウ。俺はお前をあの女から救い出してやりたいだけなんだよ。お前は親友にそんな仕打ちをする奴だったか?違うだろう?お前はあの女の毒牙にかかって糞も味噌もわからなくなってるだけなんだよ。いい加減目を覚ませよ」

「リョウに『貴子』の何がわかるんだよ?」

「リュウは、本当はわかってるんだろ?あの女は危険すぎる」

 俺は「貴子」を庇いながらもリョウの言葉がいちいちミゾオチに食い込んだ。「貴子」は妙なファンレターで俺をおびき出し、薬を盛り、初恋を成就させてしまうようなしたたかで恐ろしい女だ。もしかしたら肝を食いちぎられる日がそう遠くない未来に来るのかもしれない。だからと言ってリョウに折伏されるくらいなら「貴子」に滅ぼされるほうを選ぶ。なぜならそれが本望だからだ。

「俺とやりたいからって何を言ってもムダさ」

「リュウ。なんでわかってくれないんだよ」

「だ、か、ら、何度も言わせるな。ゲイは嫌いなんだよ」

 俺をこのように束縛しても尚、思い通りに行かず、わなわなと肩を震わせるリョウ……

 憐れだ。

 だからと言って、俺は「かわいそうに」とリョウを優しく抱きしめるわけにはいかない。諺を引用するまでもなく、情けと言うものは人の為にはならないのだ。

「リュウ……」

 リョウはよろめきながら立ち上がり、俺の顔の前でジッパーをおろした。示し合わせたかのようにニセドアマンが俺を羽交い絞めにし、俺は身動きが取れなくなった。俺は多分、このゴツいニセドアマンもゲイなのではないかと、直感した。

「頼むよ。咥えてくれよ」と、リョウは硬直しているにも関わらず、褐色のオクラのようなイチモツを俺の目の前に晒す。

―なるほどね。こういう暗いコンプレックスから男色に走ったってわけか。

「ふん。どっちみち俺はお前だけじゃなく、このゴツいのにも犯られてしまうんだろう?だったら早くやれよ。この短小のホモヤロウが!」

 腹をくくると何てことはなかった。こっちのゴーゴーボーイの大半はノンケだが、やはり、「金の為」と腹をくくると男に軀を売るくらい何でもなくなるのだろうか?

 俺はリョウを性的マイノリティにしてしまったその原因を「貴子」が俺のものを咥えるときの舌使いを思い出しながら咥えてやった。リョウは三十秒ほど「あぁぁ」と悩ましく喘いだ後、あっけなく俺の口の中に汚いものをぶちまけた。それにしてもリョウの体液は酸味がきつい。俺は飲み込まず、フローリングの床に嘔吐した。なるほど。風俗店で体液を飲むことがオプションで結構な値段を取られる理由が理解できる。

 へたり込んだ俺は羽交い絞めを解かれたが、なかなか憎悪と吐き気と咳が収まらず、状況も把握できなかった。しばらくしてリョウを見上げたが、残飯のように醜い体液の残骸を二滴、三滴と垂らしながら放心し、憑物が取れたようにすっきりとした顔をしている。逃げられないとは言え、こんなホモヤロウの暗い欲望を叶えてやるなんて俺も人がいいにも程がある。友情などとっくに崩壊していると言うのに……

 強いて言えば、犬に噛まれたとか輪姦されたとか言うよりも、寧ろ、娼婦になった気分だ。このバンコクに掃いて捨てるほどいる風俗嬢や俺が筆おろしをした飛田新地の女はいつもこんな気分で生きているのだろうか?だとしたら最低だ。この落ちない染みのような違和感と穢れてしまったことを悔いる良心は何も感じないことを覚えないと狂死しそうなほどだ。

 そして、ここを出られたとしても「貴子」はきっと俺の異変に気付くだろう。

「なぁ、リュウ。なんでそんなに悲しそうな目をするんだ?俺とお前ははじめからこうならなきゃいけなかったんだ」

 リョウは先ほどの快楽が一瞬の夢であったかのように不安そうに顔を歪め、俺にティッシュを差し出した。俺は一応、それを受け取ったが、手前勝手な運命論に関しては承服しかねた。こういう場合、沈黙されるほうが堪えるはずだ。俺がこれ以上、惨めになる言われはない。

「なぁ、リュウ。俺のこと好きか?」

「……」

「俺は三年前、カオサンのゲストハウスで初めてお前にあったときからずっとお前のことしか考えてないんだぜ」

「……」

「なぁ、リュウ」

「……」

「嘘でもいい。『好き』って言ってくれよ」

 俺は笑いを噛み殺した。ここまで惨めだとメイドインタイランドの性的マイノリティな人間や身障者を見世物にするどキツイ喜劇なんかよりもよっぽどタチが悪く、笑える。ならば俺はそれが「爆笑」になるようにアシストするまでだ。

「好きだよ」

 無理やり、言わされている俺の愛の言葉に雲の隙間から顔を出した陽光のようにリョウの表情に好転の兆しを期待する明るさが宿ったころを見計らって俺はこう続けた。

「『貴子』のことが」

 それはリョウを地獄に突き落とすタチの悪いお笑い。

 リョウの表情は曇る暇もなく、どんなに恋焦がれても俺がただの「男娼」にすぎないことと、それをどうすることもできない己の不甲斐なさとその運命を悲観して泣き崩れた。

 俺はせいせいした。そしてこれでリョウが本当の狂人になってしまっても「因果応報」で片付くと思ったし、寧ろ、「狂ってしまえ」と思った。

「女のように」というよりも寧ろ、「子供のように」激しく泣き崩れるリョウに俺が何か酷いことを言ったのだと思ったのだろう。ニセドアマンが突如、「うぉぉぉ!」という奇声を上げて、俺に襲い掛かってきたが、どっちみちもう、ここから綺麗な軀で出られるなんて思っていないから驚きも抵抗もせず、身を任せた。

―天国も経験さ。

 ニセドアマンに犯されている間、俺は菊の門の激痛に耐えながら、頭の中でずっとジミヘンドリックスの言葉を反芻していた。あまり、救われはしなかったが、愛する俺のヴァージンを奪われているところを目の当たりにしているリョウの半狂乱状態を観察するのは一寸、愉快だった。

 真実がひとつだけあるとすれば、俺にとっても、リョウにとっても舞台が暗転してしまったということだろう。


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