第六章『暗転』①
年が明けて、二〇〇六年一月、二月、三月と俺と「貴子」にとって緩やかな春が続いた。
それはこの想い出があれば後半生が灰色でも構わない、と思わせるのに充分なほど幸せな歳月であり、「貴子」の持つ神秘さと魔性に平伏し、言いなりになることにもある種の快楽を覚え始めていた。
俺は「貴子」に勧められるがままに髪型を変えてみたり、ハッピーエンドの爽やかで闊達な青春小説を書いてみたり、例の『堕天使の涙』を文學界新人賞に応募してみたり、前儀によって性交はより、豊かなものになることを教えられたりとまだこんな「生活」ともいえない日々でさえも俺は尻に敷かれっぱなしだ。「悦子さん」のせいで俺には「男らしさ」というものがすっかり欠落してしまっていた。だが、「貴子」はそんな俺が「可愛い」と言う。
ただ、ひとつだけ引っ掛かるのはあのイヴの晩、別れ際に憔悴しきったリョウが体中の気力を振り絞り、怯えた目で俺を見据え、人差し指で俺を指して「リュウはあの女に騙されているんだ」と言ったことだ。「貴子」が天性の女優であり、何を考えているかが簡単にわからない恐ろしさがある女だということは百も承知だが、この「蜜月」を「貴子」と共に暮らしていると、ほとんどリョウの嫉妬と強がりのように思えてくる。勿論、そんな呪術に屈する俺ではない。
文學界新人賞には結局、落選したが、俺の元に天国は降ってこなくても、「貴子」という当面か、永遠かは知らないが、安らげる園があると思うと、ほとんどと言っていいほど悔しさはなかった。そして、そんなことなどなかったかのようにヘラヘラして依頼があれば取材を厭わず雑文を書き、発注が入ればバイアグラを届ける。つまり、俺は「貴子」に牙を抜かれてしまったってわけだ。
そして四月になり、「貴子」の部屋に俺の私物とブルガリのブルー交じりの俺の体臭とが完全に馴染んだ頃、人づてにリョウの噂を聞いた。さすがにあの手痛い仕打ちを思うと気にならないと言ったら嘘になる。
教えてくれたのは白石さんなのだが、あれだけ冷静で、気丈夫で、先見の明が利くリョウが意気消沈し、鬱気味な時期を経て、とうとう狂ってしまったと言うのだ。俺の部屋に遊びに来るときですら糊がきき、アイロンがけされたダンヒルのワイシャツとスラックス姿だったりするリョウが髪を金髪のモヒカンにしてパンクロッカーさながらの格好をしているのだと言う。それだけでも十分に驚くに値するのに、朝っぱらからアルコールとヤーバーを決めてラリパッパで、日本語でもタイ語でもない誰とも通信不可能な言語でわけのわからない独り言を絶え間なく呟いてはその独り言と独り言の間に狂人のような奇声を発するのだと言う。白石さんが言うには、株で作った財産も薬でほとんど使い果たしてしまったらしい。そういえば最近、メディアでもリョウの話は聞かない。
リョウにこのような転落をもたらしたのは間違いなく、俺と「貴子」なのだが、不思議と可哀想だとも、何とかしてやりたいとも思わず、白石さんに「あたしからもお願い。リョウちゃんに会うだけ会ったげて」と言われても承服しかねた。
俺は「貴子」を愛している。
ただ、その影で泣いたのがリョウだったというだけだ。
四月十二日。
ソーンクラン(タイ正月)前日。
ただでさえ暑いタイの大地は日本の夏のヒートアイランド現象を凌駕するほどの灼熱地獄になる。エアコンのない俺の部屋の温度計は連日のようにふてぶてしく四十度を越えるので、最近、ほとんど帰っていない。なので「貴子」の部屋が定宿であり、帰る港になっている。
その部屋と俺の飼い主である「貴子」はソーンクラン休暇を使って昨日から一週間の予定で日本に帰っている。一応、「リュウちゃんも一緒に来る?」と誘われはしたが、説得されて、その足で父や「悦子さん」の元に送り返される可能性も「なきにしもあらず」なので、俺は着いて行きたい衝動を堪えて、おとなしくお留守番することになった。本心半分、冗談半分で小さい子が母親に甘えるように「淋しいよう」と言ったら「貴子」は「バカね」と笑って、俺の頬をつねった。
ソーンクランとは、海外にも「水掛け祭り」として知られ、この三日間は公共機関や一般企業、個人商店は概ね、休みになるのだが、三文作家でバイアグラ売りの俺には全く関係ない。リョウと出逢ったのもこの時期だが、リョウが狂人になったことも含めて例年と事情が変わってしまった。
そんなわけで「貴子」不在のソーンクランを迎える俺だが、例のエロ本まがいの三流雑誌に「潜入ゲイの楽園サウナ」というタイトルからして気が滅入るルポをソーンクラン明けまでに入稿しなくてはならないので、「貴子」の部屋から歩いて行ける「エヴァーグリーンホテル」のロビーでお仕事というわけである。余談ながら、俺がここを仕事場にしている理由は近所と言う他に台湾資本のホテルだからだ。
チョノンシー通りから歩道橋の手前を左折すれば日本人会館、右折すれば仕事場であるエヴァーグリーンホテルなのだが、道中、気の早い奴らは水鉄砲や溢れ出しそうなほどの水を張ったバケツを片手に、一日早い水掛け戦争を始めている。俺はどっちかというとアジア系の顔ではないので彼らから水を掛けられることはなかったが、この歩くことすら煩わしい暑さなので寧ろ、掛けて欲しいと思った。「暑い」というよりも「熱い」と言ったほうが正確な空気の中を汗かきかき潜り抜け、一秒でも早い「涼」を求めてエヴァーグリーンホテルのエントランスに向かって足早に歩く俺にこのホテル独特のサファリルックをアレンジしたような白い制服を身に纏ったボブサップのような巨軀のドアマンが近付いてくる。いつも出迎えてくれる二十四五の愛想のいいチビで痩せた男じゃないので「変」だとは思ったが、特に警戒はしなかった。
エントランスまであと一メートルのところまで来て、俺とすれ違おうとしたとき、そのドアマンの目が一瞬、「カッ!」と見開いたところで俺から一切の視界が消えた。どうやら急所に一発、お見舞いされたらしい。
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