第五章『嫉妬』③

 タクシーはジングルベルにほろ酔い加減なソイトンローを北上し、ペッブリータットマイの交差点を左折し、ソイトンローよりも更に浮き足立っているRCAを目指す。平日と違って夕方の渋滞がないのでRCAまでは十分強しか掛からないのだが、RCAに着いたとたんにいつもよりのも三四割増しの人ごみと熱気に包まれる。おかげでちっとも前に進まなくなるのは火を見るより明らかなので、俺はトップスの前でタクシーを降りて、狂わんばかりの人ごみをかわしながら目的地『コズミックカフェ』まで歩いた。

 元々、キャパの狭い小綺麗なカフェである『コズミックカフェ』は店の外まで人が溢れかえっている。オレンジ系の渋い照明の燈った店内の舞台ではヤスの寸劇やタイを代表する詩人トゥンの詩の朗読なんかが行われている途中だろう。リョウが言っていたように白石さんが国民バンドカラバオを呼ぶことは眉唾だろうが、それを差し引きしても楽しいクリスマスパーティであることは想像に容易い。

 俺は何とか人ごみをかき分けて会場へ入ろうとしたが、中庭の白いテーブルで珍しく浮かなそうな顔をしてハイネケンを呷っているリョウを見つけたので、「貴子」が来るまで相手をしてやることにした。

「どうした?中に入らないのか?皆、盛り上がってるぞ」

 糖衣に包まれた毒を投げる俺の声に気付いて、リョウは迷子のような不安な顔を上げて、表情に射した暗い影を払拭しようと大袈裟に髪を掻き乱した。俺は思わせぶりな確信犯だ。

「ああ。三日ほど損失が続けて出たんで気分が冴えねぇんだ」

 失笑も出ない程に下手な嘘に俺は眉をしかめて同情したフリをした。

「あのなぁ、リョウ。気分がさえないのは四六時中、金のことばっかり考えてるからだろ。『職業病』じゃなくて完全に『病』だな」

「そうかもな。あれ?今日は彼女と過ごすんじゃなかったのか?」

「うん。ここで軽く飲んでからな」

「じゃぁ、彼女も来るんだ」

「じきにな」

「!」

再び、リョウの顔に絶望が宿った!

そして、「貴子」の登場はその絶望を現実のものにさせるのだ。

「リョウにもちゃんと紹介するよ。俺の好みからしたら一寸、背が高すぎで痩せすぎてるんだけど、なかなかいい女なんだ。さてと、中でビールでも買ってくるわ。すぐ戻る」

俺はそう言い残して、人波にしわくちゃになりながらざわめく店内に入り、カウンターでビールを購入し、在タイ日本人藝人の草分け的存在であるパントマイマー矢野かずき氏とヤスが二人芝居を熱演している舞台をさわりだけ鑑賞し、楽屋にいた言語藝人白石昇氏と二言三言言葉を交わしてからリョウの居る中庭に戻った。リョウはイライラしながらマルボロメントールライトを吸いながら指で机をカツカツと叩いていた。

「白石さんがまた、面白いこと言ってた。北の将軍様は山田洋治監督の『男はつらいよ』がお好きだから寅さんの偽者を北に連れて行ったら拉致問題は解決するんだとさ」

 という仕入れたばかりの笑い話を言い終えるか言い終えないかというタイミングで「貴子」の「あ!リュウちゃんだ!リュウちゃん!あたしのリュウちゃん」という陽気な声が被さり、黒のノースリーブとピチピチの白のジーンズで決めた「貴子」が俺に向けて満面の笑みを携えて手を振った。薄い闇の中、ルージュだけが赤く見える。

踵の高いサンダルで走りにくそうにしながらも「貴子」は主人を見つけた猫か犬のように俺のところに駆けて来て、薄い懐に入り込んだ。不思議とアルコールの匂いはしない。俺の脳裏に「全ての女性は女優である」というフレーズが浮かんだが、じゃれつく「貴子」は可愛いのでそんなことはどうでもよかった。

「リョウ。紹介するよ。うちの奥さんだよ」

 俺は「貴子」の長い黒髪を撫でながらこれ見よがしにリョウに「貴子」を「うちの奥さん」と紹介した。「貴子」は「奥さんだなんて、もう、リュウちゃんったら」と照れながら俺の小鼻のあたりを齧ろうとする。リョウに目をやると案の定、動揺を隠し切れず、擦れた声で「木戸涼です」とだけ言った。すると「貴子」は神秘的な切れ長の目を輝かせる。

「あなたがリョウさんですね。はじめまして。うちのリュウちゃんがいつも噂してますよ。デイトレがお上手でホモみたいに仲のいいお友達が居るって、リョウさんのことだったんですね」

「ああ……」

 リョウは「ホモ」という言葉に反応して、明らかに目が泳いだ。俺に助けを求めようにも、肝腎な俺は「貴子」の髪を指で巻いたりして遊んでいて聞いちゃいない。

「株で儲けるなんて頭がいいんですね。それに引き換え、うちのリュウちゃんなんてわけのわからないお話ばっかり書いてるから、あたしがそばにいないと本当に何もできないんですよ。こういうろくでもない男性を『ヒモ』って言うんでしょう?」

「いや……いいと思いますよリュウの小説は」

「ちょっとぉ、リョウさん。リュウちゃんのこと好きなのはわかりますけど、あんまり甘やかしちゃダメですよ。もう、この人ったら真性のマザコンで甘えん坊さんなんですから」

 俺は「ピン」と来た。

 つまり、「貴子」は俺をくさすフリをしながらその実、リョウにじわりじわりとダメージを与えているのだろう。なぜそのようなことをする必要があるのかは知らないが、厄介なことこの上ない「女の勘」という奴が「貴子」自身にリョウの本性というか正体を気付かせたのだろう。ならば話が早い。俺は唇をすぼめて、「貴子」の乳房にしなだれて、甘ったるい声で「なぁぁお」と猫のように鳴いた。

「ほら、すぐ調子に乗る。男の人っていいですね。こうやって甘えるか、行方不明になれば女の気持ちを繋ぎ止めておけると思ってるんだから。リョウさんはこんな最低なことしないでくださいね。ちょっと!リュウちゃん。どこ触ってるのっ!」

 俺はこのへんが頃合だと思い、顔を上げ、まるで示し合わせていたかのように「貴子」の唇を奪い、水蜜糖を舐めるように優しく「貴子」の舌を俺の舌でなぞり、縺れた糸になってもいいと思いながら絡ませあった。「貴子」は全く抵抗せずに前置き無しのディープキスを受け入れた。

―残念だったな。リョウ。

 一分ほどの「放送事故」の間、共犯者のディープキスはまるで悪魔のように残酷な現実をリョウに与えた。それはわずかに希望の入った壜をアスファルトに叩き割る行為に等しかった。

 俺と「貴子」はほぼ同時に唇を離し、「やだ。リュウちゃんったら」、「あ、リョウがいたんだった」と顔を見合わせ、気まずいフリをして苦笑した。

 リョウは当然、何か言いたいのだろうが、それが言葉にならず、受け入れがたき現実を目の当たりにした戸惑いとどす黒い嫉妬の渦の中にいる。本当の幕切れを知った男はじたばたすることさえできず、ただフリーズしてしまうものなのか?

―かわいそうに……

 餌を貰った後に餌を貰ったことさえ忘れる猫のように「貴子」は「サッ」と俺から軀を離して、「一寸、ヤスに顔見せてくる」と言って、颯爽と人波に紛れ、店内に入っていった。舞台はさっきとは打って変わって水を打ったように静かになっている。というのも白石さんがチューニングの合ってないギターをかき鳴らしてカラバオの『アンダマンの涙』を日本語で熱唱しているからだ。

 この曲は昨年末のスマトラ大地震のとき、津波の被災地を救う為、立ち上がったカラバオのリーダー、エートさんが作り、チャリティCDで発表した曲を白石さんがエートさんから直接、許可を貰って、日本語版を発表したものだ。勿論、クリスマスパーティに歌うタイプの曲ではないが、白石さんのこの国に対する真摯さを物語っているようで、俺のような奴が聴いてもグッと来るものがある。

 俺は目を真っ赤にして何か言いたげにしているリョウの震える肩を叩き、「ハッピークリスマス。リョウ」と呟いた。

勿論、傷口に塩を塗る為にだ。

 嗚呼。クリスマスとは一年で一番、不平等な夜なり。

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