第五章『嫉妬』➁

 二〇〇五年十二月二十四日。

 バンコク、いや、タイ全土が一年で一番涼しくなるこの時期、気候的に冬服を着ることがないタイ人が老若男女関係なく、競うようにスゥエターだのブルゾンだの毛糸の帽子だのを着飾る。「涼しい」と言っても日中は三十度近くまで気温は上がるのだが、三年もこんな暑い国に住んでいると冬服を着ることに喜びとある種の拘りを持ち、感じるタイ人の心情も理解できるようになる。

 半袖で過ごすクリスマスイヴもこれで三度目になる。

仏教国タイにおけるクリスマスは欧米や近頃の日本のような盛り上がりは見せないが、場所柄、欧米人の多いスクムビット通りやカオサンやクラヴが林立するRCAあたりではそれなりに盛り上がる。

 概要はともかく、今年は「貴子」と過ごす最初の、いや、最初で最後かもしれないクリスマスであることが重要なのだとわかって欲しい。

「最初で最後」、或いは「一生に一度」と言ってもやはり働かなくては食べていけないので俺は朝からトンローのスタバで日本語三流エロ雑誌からの依頼である原稿を書いているわけなのだけども、こんな日に「暴力バー潜入ルポ」なんて書いていると骨の髄まで侘しくなってくる。筆も当然、進まぬ。今すぐにノートパソコンを閉じて、「貴子」の黒髪、もしくは乳房に顔をうずめたい。

 俺は言語障害のように定まらない声で「たぁはぁほぉ(「貴子」)」と欠伸をした。氷のすっかり溶けたアイスコーヒーを飲み干し、「ユダヤ人よりケチなアメリカン」とつぶやいてみる。すると、となりのテーブルに「デン!」と構えている年金生活者と思しき、でっぷりとよく肥えた初老のアメリカ人が何のクッションもなく、「まだ一ドルが三百六十円だった頃、日本に行ったことがある。雪のフジヤマと女性の着物が美しかった」と遠い目をして俺に語りかける。すでに日本も台湾も失った俺にはどうでもいい話だが、「では、次回は是非、春にいらしてください。満開の桜の樹の下でバンクェット(宴会)ができますよ」とリップサーヴィスしたら、話が止まらなくなった。

 やはり、イヴの日に仕事なんかするなということか。

 夕方。

 半分日本人の俺の肌にも「肌寒い」と感じる風が吹いた。

 スタバの後方にあるトップススーパーマーケットではクリスマスセールをやっているようでいつもより気持ち賑やかであり、着ぐるみのサンタクロースが子供たちに愛敬を振りまいている。

 結局、ルポはほとんどと言っていいほど筆が進まず、俺はノートパソコンを閉じ、淡い藍色とネオンのコントラストに彩られたソイトンローを見渡す。パブだの居酒屋だのが林立するこの通りからタイらしさを見つけ出すのは難しいが、このカオスはバンコクらしさといえるだろう。

 ああ。「貴子」の声が聞きたい。あと数時間後にエンポリアムスゥイートで落ち合えるというのに……

「あ、リュウさんね。リュウさんなのねん」

 電話の向こうの「貴子」の声はすっかりできあがっていた。何も手につかず、居ても立ってもいられないのなら、仕事なんかせずにこんな塩梅になるほど昼酒でも飲んでいればよかった。

「うん。『貴子』の声が聞きたくてさ、つい短縮の一番を押しちゃったよ」

「それはそれは、光栄なことでござ候で御座いますわ。ホホホ」

 携帯の短縮の一番は長らくリョウのポールポジションだったが、それはひと月ほど前に

「貴子」に取って変わられた。俺の中でリョウの必需性は日ごとに薄らいでいくばかりで、その領域を「貴子」がテロリストか新種のウィルスのように侵している。もっとも、それは「貴子」の悪意ではなく、全て俺の心が望んだことなのだが。

「今ね、トンローのスタバで原稿書いてたんだけど、『貴子』のこと考えてたら全然、仕事にならなかったよ」

「それで、リュウさんはぁ、何を書いてたの?」

「パッポンの暴力バー潜入ルポ。取材は終わってるんだけどね、思い出すのも不快で筆が重いんだよ」

「ダメですよ。仕事はちゃんとやらないと」

「そうだな」と俺は苦笑した。

「ねぇねぇリュウさん」

「ん?」

「一寸、寄りたいところがあるんで付き合ってもらえますか?」

「どこ?」

「RCAの『コズミックカフェ』で友達主催のクリスマスパーティやってるから一応、顔だけ出しておこうと思って」

「友達ってヤスのこと?」

「え?お知り合いなんですか?」

「まぁね」

 ヤスというのは元吉本の藝人あがりで、バンコクで俳優として活躍している日本人なのだが、俺は『コズミックカフェ』と聞いて一計を思いついた。この前のリョウの電話がガセか幻聴でないなら、そこにはリョウも来ているはずだ。リョウの前で「貴子」とディープキスでもして見せつけ、リョウに屈折した嫉妬心を植えつけて、その嫉妬のベクトルを「貴子」に向かわせ、リョウと絶縁する大義名分を作ろう。たとえ、親友とはいえ、ホモ野郎に暗い欲情を抱かれるのはあまり気持ちのいいものではないもの。

「いいよ。先行って待ってる」

 俺は氷の微笑を浮かべた。

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