第四章『恋』④

 コーヒーリキュールの中に練乳を落とした、要はカルーアミルクのような夜だった。

 それは甘く飲みやすいと思って調子に乗って飲んでいると確実に足を取られるという意味であり、それは昨夜というよりも寧ろ、「貴子」自身がそうであるような気がする。俺はまるではじめて酒に酔った少年のようなものだ。三十年間、一度としてまともに女を愛したことがないこの俺が「貴子」にすっかり酩酊し、不安定ながらも優しい気持ちで一杯だ。真人間になるときって言うのはかように並外れた引力によって一時的に心と体に異常をきたすのかもしれない。

「貴子」……

「あたしの為に俺に自由を差し出して頂戴」って言うつもりなのか?

「なぁ、『貴子』。そうなんだろう?」と声に出してみて、周りを見回したが、「貴子」はいない。機嫌よさげなスヌーピーを中心にタイ数字の文字盤が鏤められた壁時計の針はもう正午を過ぎている。月曜日のこんな時間に目を覚ますのはニートかヒモか小説家くらいのものだ。

 誰もいない「貴子」の部屋で、猛烈な喉の渇きを覚えた俺は身を起こし、全裸のままで「冷たいリンゴジュースなんかがあったらいいな」と思いつつ、冷蔵庫に向かって、のそのそと徘徊している道中の籐のテーブルに「貴子」直筆の置手紙が置いてあった。

「おはよう。リュウさん。昨夜はお時間割いてもらい、生意気に意見した上に変なお薬まで飲ませたりして本当にごめんなさい。もしかしたらあたしのこと嫌いになったかもしれませんね。でも、ベッドの中のリュウさんって大樹君のイメージのままなんだもの。男の人にこんなこと言ってはいけないのかも知れないけど、『可愛いかった』です。あ、下手とかそういう意味ではありませんよ。『高杉悦子先生』。つまり、リュウさんのお母様がリュウさんのことを可愛いがったり、自慢したりする理由がよくわかりました。詳細は言いませんが……長々とごめんなさい。あたしはもう仕事に行く時間です。鍋の中にカオトムがあるからあたためて、よく噛んで食べてくださいね。すてきな夜をありがとう。貴子」

 最後の「貴子」の文字の上にルージュのキスマークが重なっていた。

―薬売りの三文作家には分不相応な朝。

 ひとりの女に心奪われた男はいったいどういう顔をしているのだろうか?

 俺は月に立っているように浮き足立った気分で姿見に映る俺の顔を見た。

 ただでさえ、大きい目を剥き、阿呆のように口を開けてみた。「一寸、痩せたな」と思う以外は特に変わったところはない。「悦子さん」似の髪をブリーチし、青か緑のカラコンを入れたら欧米人と言っても通用しそうな俺の顔が映っているだけだ。

「まぁまぁ、ともかく顔でも洗おう」と洗面所の蛇口を捻ろうとしたとき、櫛やら口紅やらマスカラやらドライヤーやらが雑然と置かれている棚の右端に歯ブラシが二本入れられたマグカップを見つけた。赤と青のシステマの歯ブラシは寄り添っているように見えた。

 これは「貴子」が俺にここにいてくれというサインなのだろうか???

 そんな都合のいい考えは俺をどうしょうもなく優しい気分にさせ、「貴子」に麻婆茄子やら冬瓜のスープやらを作ってやりたくなった。

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