第四章『恋』③

 まるで俺は泥になったように無意識と眠りの海に深く沈み、そのまま醜い沈殿物となって、色と音のない世界を彷徨っていた。

 そこは臨死体験をする者だけが踏むことを許される三.五次元の世界であり、人影はなく、俺は感情を持つこともなく、ただ存在していた。

―なぜ俺はこんなところにいるのだろうか?

 そういえば俺はさっきまでシーロムの『竹亭』で「貴子」という女と何か言い争いをしていたような記憶がある。そして、残像が見え、色彩感覚の異常で視覚が狭まり、気付いたらこんなところにいるのだ。

「おーい!リョウ!」

 とりあえず俺はこの街で一番、信頼できる男の名を呼んでみたけれど、返事はない。やはり、約束をすっぽかしたことを根に持っているのだろうか?一度、臍を曲げて、ヒステリーを起こしたら手がつけられないだなんてまるで女みたいだ。俺はそんなリョウの薄情さを呪いつつ、必死になって光を探したが、無駄だった。

―そういえば「貴子」はどこに行ったんだろう?

「おーい!『貴子』!」

 俺はこの色のない空間が恐ろしくなって、天を仰ぎ、今日会ったばかりの女の名前を呼んでみた。

 すると、三十秒ほどして、それまで色と太陽のなかった空が真っ二つに割れて、その隙間から碧色の光が差し、やがて「貴子」の顔をした無数の天使が降りてきた。その天使はラマ密教のものと思われる神秘的な響きのするお経を唱えながら、俺の頭上で円を描くように舞っている。なんだか『フランダースの犬』の最終回でネロとパトラシュがルーヴェンスの絵の前で仲良く寄り添って命果てた場面に似ているが、メルヘンとは程遠く、ひたすら背中が薄寒い。やがて俺は動けなくなる。

―あぁぁぁぁぁ!

 俺は恐怖に身を起こした。明らかに俺の部屋のものではない、蒼い海の色のシーツの上に全裸で寝かされている俺の軀は汗でグッショリ濡れている。

 ゴーグル無しで海に潜ったときのようなぼやけた視界に入ってくるのは象牙色の壁にバンコクのアパートでは珍しいキッチン。本棚の上には『少年アシベ』に出てくるゴマちゃんのぬいぐるみ、ハノイやサイゴンのカフェを彷彿とさせる籐の卓と椅子、そしてもうひとつ、俺の横で頬杖ついて俺を見ている「貴子」。

「貴子」?

「貴子」は痩軀にバスタオル一枚を巻いて、勝ち誇ったような顔で俺を見詰めている。俺が悪夢にうなされていたことなどまるで当然の報いであるかのように。

「ここはどこ?」と訊くまでもなく、「貴子」の部屋のようだ。

「リュウさんってお酒弱いんですね。でも、可愛いかったですよ。リュウさんの寝顔」

 なるほど。俺すら見たことがない俺の寝顔を見たから「勝ち」ってわけか。

「ろ、ろういうすもりなんら(ど、どういうつもりなんだ)?」

 まだ薬が効いているのか、意識は相変わらず朦朧としていて、舌も満足に動かないので問い詰めることも、確認を入れることもままならない。こうやって俺はますます「貴子」の引力圏内へと引き釣り込まれてゆく。

「貴子」は寝汗で脂ぎっている俺のオデコに軽いキスをした。

「無粋ですよ。女性に喋らせるなんて」

「貴子」はバスタオルの前をはだけて、それを俺の背中に回してくるんで、俺を押し倒した。俺は「貴子」の甘い体臭と南進を続ける暖かな舌の動きに包まれながらも飛田新地で童貞を棄てたときのような虚しさを感じていた。

 だけど、「貴子」は娼婦と違ってちゃんと血が通っていると感じたし、まるで俺の性感帯を探り当てるようにひとつひとつが繊細で丁寧な愛撫を受けていると「貴子」の初恋の人が俺であることは嘘ではないように思えた。

 俺は動かせるのが不自由ながらも薄い密林を抜けて「貴子」の中に指を滑り込ませた。なんだか懐かしい場所や歌に似て暖かく、入れたままで何秒も動かすことを忘れてしまった。

 そして、俺にはまた、夢が訪れる。「貴子」という柔らかな絹の夢が。

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