第四章『恋』➁

 その日、俺はちゃんと自分で指定した時間に着くように一一五番の市バスでシーロムを目指した。

 シーロムと言えば、あの忌まわしき、「イワイトレーディング」がある訳だが、今日は日曜日なので元同僚と鉢合わせになることもないだろうからひとまずは安心だ。

 バスは買い物帰りの客で混んでいるが、日曜日のラマ四世通りは、平日とはうってかわって車の流れがスムーズで、いつもなら渋滞で歩いたほうが早いというのにカルフールもクロントイ市場もロータスも視界に現れては一瞬で消えていく。たった二十分でシーロムのバンコク銀行本店前のバス停に到着。こうやって渋滞なしの道を走るとバンコクが意外と小さい街であることがわかる。

 バン銀前の横断歩道を渡って、左折すれば『竹亭』はすぐだ。ここの本店はカオサンにあり、この界隈では日本人会館と同じくらい格安で日本食を食べることができる。俺もリョウもオーナーの周布氏とは懇意なので使い勝手がよい。

 入店すると、ヴィンテージものの赤地のアロハを粋に着こなしたガタイのいい周布氏が人懐っこい笑顔を浮かべて「黄さん。お連れの女性がお待ちですよ」と眼鏡の奥の象のように小さく優しい目で目配せをした。こういう常連に見せる粋な計らいとコストパフォーマンスが抜群の為、日本人にもタイ人にも欧米人にもファンの多い店だが、日曜日の夕暮れ時とあって客よりも店員の方が多いくらいなので「貴子」と思しき女はすぐに見つかった。

 窓際の席でもの憂げに窓の外の暮れてゆく休日のシーロム通りを見詰める「貴子」と思しき女は声の印象とは全く異なり、長く真っ直ぐな黒髪が印象的で、スラリと背が高い八頭身美人だが、いったい普段何を食べているのだろう?と不安になるほどその折れそうな柳腰や手足は痩せていて、若い頃の今井美樹、乃至は『ポパイ』に出てくるオリーヴを彷彿とさせるなかなかの美人だった。肌の白さと木目細かさと切れ長の目から多分、在日朝鮮人であることがわかるが、俺だって都合で台湾人と日本人を行ったり来たりしているのでそのことは口にすまいと思った。

「やぁ。貴子さんだね。待たせちゃったかな」

 俺が軽やかに声を掛けると、偏屈で滅多に笑わないお堅い作家先生を想像していたのだろうか、「貴子」は一寸、目で驚いていた。

「リュウ……さん?ですね。はじめまして伊藤貴子です」と、「貴子」は卑屈でもなく、横柄でもない一礼をし、プラダの財布から名刺を一枚抜き出し、俺に差し出した。肩書きには「ファイナンシャルプランナー」とあるが、金融関係の仕事であるという以外何もわからない。

「高杉龍です。その節はメールをありがとう。なんだ。テキトーにはじめてればよかったのに……ノーンクラップ。コードゥメヌーノイクラップ(すいませんが、メニューを見せてください)」

 俺は従業員の女の子にメニューを持ってこさせ、生ビールとてんぷらの盛り合わせと寿司コンボというひどく差障りのないものを注文した。「貴子」は見た目通り、あまり食を第一に考えない人のようでメニューにサラダの類がないのがわかると「テンモーバン(スイカシェイクを)」とほとんど感情のない声で言った。

 俺はおしぼりを掌で玩びながら、「ええと、貴子さんは……」と言いかけて「貴子」を見たとき、その目はパリコレのモデルか、刃物かというくらい、怜悧に光っていた。実際、「貴子」はモデルだったのかもしれない。その目を見るとなかなか本題を切り出せず、周布氏のことや「ここの新作のスパイダークラブ巻きは美味しいんですよ」なんてどうでもいい話題でお茶を濁していても気まずく、その空気を察したのか、「貴子」のほうから口火を切った。

「実はね、あたし、初めて買った本が高杉悦子先生の『理由のない週末』だったんです」

「あ、平林たい子賞を貰った小説の方ですね。『悦子さん』は基本的にエッセイの人だから」

「まぁ、『悦子さん』だなんて!」

「貴子」はそれが文法的に或いは人としておかしいとでも言いたげに俺が「悦子さん」と言ったことにやや否定的な反応を示したが、俺としてはあんなアメリカのホームドラマのような偽善めいた小説なんかを話題に出す「貴子」の文学的なセンスのなさを心の中で軽蔑した。

「まぁ、うちも色々、あるんですよ」

「それで、あの小説に出てくる乃木美鈴の家族ってとってもあったかくて、絶えず笑い声が聞こえてきそうじゃないですか。あたし両親が離婚しちゃって、母の実家で育てられたのであの家族にずっと憧れていました。特にひとり息子の大樹君はあたしの初恋の人なんです」

 大樹のモデルは勿論、俺だ。

 つまり、「貴子」は初恋の人にひと目会う為にあんな意味ありげなメールを、ファンレターを送りつけたというのだろうか?

「同じ作家としてああいうひねりのない作品はどうかと思いますよ。小説なんてしょせん嘘ですから。僕に言わせると駄作もいいところですよ」

「素直でお勉強もできる大樹君はそんな行儀の悪いことは言わないんですよ」

「大樹じゃなくて、俺はリュウだ!しかもあの乃木さんちだかなんだか知らないけど、あの家庭の欺瞞に気付いたから俺はバンコクくんだりまで逃げてきたんだ!」

「だからあたしは訊いたんです!『リュウさんはいつまで逃げ続けるつもりなんですか?』って」

「何だって?!」

 大声や怒鳴られることに慣れていないタイ人客や従業員が「悦子さん」の小説を巡って、思わぬ討論になってしまった俺と「貴子」をおそるおそる窺っている視線が刺さるように痛い。

両親と離れ離れの少女期に「悦子さん」の小説の世界に憧れた「貴子」。

 そして、その砂の城のような家族の幻想に絶望し、バンコクへ逃れてきた俺。

 俺と「貴子」はまるで水と油のようだ。妥協点など見つかりそうもない。

 そして「貴子」の初恋の人は「悦子さん」目線で書かれた少年期の俺。

 実際の俺は三文作家のバイアグラ売り。

おかしくて死にそうだ。「貴子」だってきっと俺に絶望していて、すでにいかにこの場から立ち去ろうかということを考えはじめているに違いない。嫌うなら嫌うがいいさ。俺だっていつまでもあんたの初恋の人としてここにいるのは苦痛だ。

 そんな思いを逡巡させていると、舌戦の疲れもあってか、すっかりのどが渇いてしまった。俺はシンハビールの生を一気に飲み干し、ひと呼吸置いて続けた。

「君も付き合えよ。初恋の人がいいと言ってるんだ」と「貴子」にビールをピッチャーからグラスに注いでやって勧めた。「貴子」も「イケルクチ」のようで、その飲みっぷりは男らしいとさえ思った。

「だから、リュウさん。もう逃げるのはやめにしよ」

「は?」

「リュウさんは知らないかもしれないけど、悦子先生はエッセイにこの二三年ずっと、お見合いの日に行方不明になったひとり息子、つまりはリュウさんのことばっかり書いて、心を痛めているの。マガイモノやイカサマ師のはびこるこのバンコクの街にいったい何があるって言うんですか?」

「ねぇ、『貴子さん』は俺の何?『悦子さん』の何?」

 と、言い切らないうちに、「貴子」が二人、「貴子」が四人、「貴子」が八人、「貴子」が十六人、「貴子」が三十二人、「貴子」が六十四人と目の前で増殖を始め、俺は呂律が回らなくなってきた。

 どうやらビールにハルシオンかなんかの強い睡眠薬を盛られたようだ。

 薬売りのこの俺が……

 そして視界はやがて暗転する。

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