第四章『恋』①
バンコクの日本語フリーペーパー『サイアムウォーカー』誌に小説の連載が決まったのはひとえに売り込みに行ったときに対応してくれた編集長久坂浩次氏が「悦子さん」のエッセイのファンだったおかげだ。
久坂氏は髭面で恰幅がよく、編集長と言うよりはフォークソング好きのペンションオーナーのほうが似合いそうな大陸的な風貌をお持ちだが、プリントされた俺の小説の表紙と俺の顔を見比べながら、ひどく済まなそうに「もしかして高杉悦子先生のひとり息子のリュウさんですか?」と確認を入れてくる。一年間の会社勤めで本名の黄興龍がひどく面倒くさいものに思えてきたのでこの小説を機に「高杉龍」に改名した。親や「黄家」の七光りで肩身の狭い思いをするのはもうコリゴリだったが、「悦子さん」のファンとなると話は別だ。なので、素直に事実関係を認めたところ、久坂氏はドングリ眼を輝かせて、俺にキスでもするくらいの勢いで「悦子さんのエッセイのファンであること」と「悦子さんの作品がいかに素晴らしいか」ということを俺に熱弁した。正直、「悦子さん」の本は代表的なものしか読んだことがないので反応に困ったが、どうやら素直な人のようなので俺は頃合を見計らって「で、私の小説はいかがなものでしょうか?」と控え目に切り出したところ、ストーリーに全く目を通してないのに、「是非、ウチで!いやぁ、今日はリュウさんに会えて本当にしあわせだなぁ」としきりに感激され、近所のパンティッププラザのフードコートでお昼ご飯までご馳走になった。
原稿料はおこづかい程度だが、これで俺もこのバンコクに自分の足跡が刻めるというものだ。
俺が「貴子」と出会ったのは連載が始まってひと月ほど経った頃だった。
最初の原稿料を貰いに俺が編集部を訪れたところ、久坂氏は仰々しく勿体ぶりながら「リュウさん宛に早速、ファンレターが届いています」と言ってプリントアウトしてくださった内容はどれもこれもくだらないと言うか小学生の読書感想文、或いはアイドル歌手へのファンレター同様、思想も深い読みもなく、ただただ俺を呆れさせた。その中で一通だけ一寸、気になる、正直に申告すると気持ち悪いものがあった。
―リュウさんはいったい、いつまで逃げ続けるのですか?
差出人は「貴子」とだけ書いてある。メールアドレスもそれと似たような感じでこのメールの主が「貴子」で日本人、或いは日本語の読み書きができる異国人であると言う以外のことは何もわからないし、想像すらつかない。
なぜ俺のことを知りもしないの俺に「いつまで逃げ続けるのですか?」などと訊くのか?
俺はこの「貴子」と言う女を薄気味悪いと思うと同時に、もしかしたら俺と同じ痛みや共感を持った女なのかもしれないと思い、怯えながらも興味を持った。
俺は興味本位と退屈しのぎ半々で『サイアムウォーカー』誌の読者掲示板で「貴子」に「個人的にお会いしたいので連絡請う」と俺の携帯番号とメルアド入りで掲載した所、発行とほぼ同時に「貴子」から俺に返信が来た。
貴子から俺の携帯に連絡が入ったのは確か二〇〇五年十二月四日日曜日の昼下がりだったと記憶している。
なぜこんなに鮮明に記憶しているのかと言うと、丁度、電気釜でブランチのビーフンスープを拵えていた時だったからだ。味の決め手になるガピを切らしているのに気付いて「ヤレヤレ」と思っていた矢先に俺のノキア二〇〇一はやけに陽気な音を立てて俺に着信を伝えていた。見たこともない番号だったので、俺はおしっこを止めるときのように括約筋に力を入れ、猜疑心を抱きながら、「もしもし」ではなく、タイ人の友だちからの電話に出るように「ガッポム(はい)」と第一声を発した。
「リュウさんですか?」
女の声は光浦靖子に似ていてどう想像を膨らませても美人の顔は浮かばなかったので俺は少し無愛想に「そうですが何か?」と放った。
「あたし貴子です。前にファンレターを送らせて頂いた」
「ああ。あなたが」
「まさか作家さんから『個人的に連絡ください』だなんてなんだか嬉しくて」
「うん。随分と変わった内容だったんでスルーできなくてさ、興味が沸いたんだ」
「あの……リュウさん。イキナリであれですけど、今晩って暇ですか?」
喋り口調は控え目で、寧ろ、丁寧すぎるくらいなのだが、内容が随分と強引だ。そういうアクティヴで自立した女は「悦子さん」をずっと見てきて慣れているつもりなのだが、俺が興味を持った女も同じタイプだとは、と思うと可笑しな因縁を感じた。
今晩はリョウとプラカノンの『秋吉』で俺の初原稿料を祝ってすきやきをつつく約束をしていたが、どちらに重きを置くべきか、は「貴子」の誘い文句で明白になった。まぁ、リョウとはいつでも会えるし……約束を破る罪悪感はゼロに等しかった。
「ダメですか?」
三十秒ほどの沈黙にすかさず「貴子」は食い入る。
「いいですよ。貴子さんご自宅はどちら?」
「ソイビバットってわかりますか?」
「ああ。そこだったらシーロムパクソイ十の『竹亭』が近いな」
「よかったぁ。あたし日本食に飢えてるんです」
「それじゃ、夕方に。貴子さん」
「夕方何時ですか?リュウさんまるでタイ人みたい」
「じゃぁ、六時に」
―リュウさんはいつまで逃げ続けるつもりですか?
かぁ。
心に引っ掛かったままになっている貴子の言葉を反芻しているうちに電気釜のビーフン、つまりはスープを溺死するほど吸ったビーフンは醜く膨張し、すでに食べ物の面影を見つけ出すのは困難だった。
まるで俺が生きているこの世界のように醜い……
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