第二章『リョウとの邂逅』➁

 四月もあと残り一週間となった頃、当初、バンコクはあくまで通過地点でカンボジアのプノンペンかラオスの山奥か或いは中国の雲南省あたりに移動しようと考えていた俺だが、リョウと風の吹くまま気の向くままに行動をしているうちに「一年くらい住んでみっか」という気になったので、市内へのアクセスが決してよくないカオサンは引き払って、タイ自由ランドという日本語フリーペーパーに宣伝が打ってあった伊勢丹近くのラチャプラロップタワーマンションと言う格安アパートに住居を移した。

ここは家賃四千九百バーツでNHKが映り、フィットネスやプールも付き、一階には日本のお弁当屋も入っているちょっとしたリトル東京だった。現金も物騒なのでバーツ建でバンコク銀行に預金した。このように右と左どころか天と地さえ危うかった俺に確実な正解に導いてくれるのは他ならぬリョウだった。

一方、俺に会うまではその日暮しだったリョウも俺に感化されてかすっかりバンコクが気に入ったようで、まるで俺のあとを追うようにラチャプラロップマンションに入居してきた。

家出同然と言うか、蒸発とも言える荷物なんてほとんどない俺とは対照的にモニターつきのパソコンやらビジネス書やらでやたらと荷物の多い引越しだったが、「引っ越し祝いにうまいもん食わしてやるから」と言われたので俺は嬉々として手伝った。「食べる事が人生の最大の楽しみである」華人一家で育つとどうも口が卑しくなっていけない、と思っても後の祭りだ。

 タクシー二往復分の荷物を十階のリョウの部屋に運ぶだけで軽い筋肉痛になったが、近所のソイランナムの中ほどにある有名店でありながらも庶民的なイサーン料理店『ティダイサーン』で「祝杯」と言う名の「昼酒のシンハビール」で「まだ見ぬ素晴らしいバンコク生活」に乾杯するころには心地よい痛みに変わっていた。

 思えば、俺とリョウは理由をつけてはシンハを飲んでいるような気がする。

 ガイヤーンを頬張り、タイ式にキューブ状の氷を敷き詰めたグラスに注がれたキンキンに冷えたシンハを流し込む快楽に抗うことなんてできるわけがない「魔性」が潜んでいる。それは何人をも急かさないこの南洋の午後の空気がスパイスになっていることは間違いない。

「これでリョウもバンコクの住人だね」

「ああ。やっと始まったって気がするよ。ところでリュウはこれからどうするんだ?ビザ持ってないんだからとりあえずはペナン詣に行くだろう?」

「『ペナン詣』って?」

「お前、そんなことも知らないのかよ」

「知ってるわけないだろ。逃げてきたんだから」

 リョウは兄貴ぶって「ペナン詣」を説明する。何のことはない。マレーシアのペナンに行ってタイの観光ビザを取るだけの話だ。ペナンならば華僑ネットワークのある俺のほうが詳しいので、一昨年、新会社立ち上げのために父に付いてシンガポールとマレーシアを周ったときの話をしてやった。「まぁ、ビザよりも問題はタイ語だよ」といい間合いで俺の旅自慢を終わらせた。俺は他人の国に住まわせてもらっているわけだからそれくらいの道理と謙虚さは持っているつもりなので、向こう一年はタイ語の学習に当てたい、と模範的なようだが実は口からでまかせを言った。

「それがいいね」

「リョウもタイ語を習うのか?」

「んや。俺は仕事があるからさ」

「何の?」

「オンライン、つまりネットで株取引をするんだ。実はもうはじめてるんだけど、中国のB株がこのところ順調でね、贅沢しなければ配当で些少ながら貯金もできる。そのための情報収集は必要だけど、一日の実労は三時間から四時間ってところかな」

 おぼろげなビジョンさえもやっと色が識別できている程度の俺と違ってリョウは今後の生活設計について端的ながらも即答した。父からご法度とされている「株取引」というもの自体が俺にとっては雲や星を掴むことに等しい行為であるが、リョウにとってはATMにキャッシュカードを入れ、暗証番号を押し、現金を引き出すくらい容易なことなのだろう。

 俺は「家族」という呪縛から逃れることしか考えていなかったんだ!

「そんなんで本当に食べていけるのかよ。『実労』って言うけど、モニターとにらめっこしてるだけじゃないのか」

 確信と経験のあるリョウにそんなことを言うのは無駄で野暮天だというのはわかっていたが、俺のささやかなプライドがそう言わなければ許しては呉れなかった。

 リョウは「ここ蚊が多いな」とピシャリと腕をはたいて、まるで台本にそう書いてあるかのように流暢に答えた。

「まず何よりも大切なのが情報収集。いかに正しく、且つ、早く新鮮な情報を仕入れるかってことだ。情報戦ともいえる。情報を金で買うこともある。これは俺よりもリュウのほうが得意そうだけどな」

「まぁな。ネットワークにはいささか自信ありだからな」

 俺は鷹揚に答えた。

「次にその情報を分析して市場を読む。たとえばA社がB社を経営統合することがいったいどういう影響を及ぼすか?とか。C社が世界基準の新製品の開発を発表したらどうとかね」

 と、熱弁を揮われても家訓としてご法度とされたことだけに食指は動かなかった。まるである日突然、悪友に大麻を勧められたみたいに。

「俺はいいよ」

 リョウは腕組をして、首をゆっくりとひねってひどく残念そうな顔をすると、「気が変わったらいつでも言えよ。お堅くやってる分には絶対に損はしないから」と言って俺たちの後ろの席でルゥクトゥンの調べを枕に昼寝する給士に目を移した。勤労意欲旺盛な日本人から見るとタイ人の労働に対する意識や責任感の薄さは眼に余ることがあるが、実害のない俺とリョウは申し合わせたかのようにお互いの顔を見合わせて笑った。

「この人、気持ちよさそうだな」

「ああ。しあわせそうだ」

「きっとしあわせなんだな」

「うん。それよりも追加のビールどうしようか?」

「寝かせといてやろうよ。しあわせなんだから」

「そうだな。それがいい」

 俺は仕事中であることも忘れ、昼寝をする給士の少女の無防備な至福とわずかなビールの酔いにすっかり、優しい気持ちになっていた。「どうすればこの世界から戦争がなくなるか?」という難解な問いの答えがここにあるように思えた。

 一時間後、奥の厨房からよく肥えたイサーン人のおばちゃんが「ソーリーソーリー」と満面の笑みで俺たちがオーダーしながらもサーヴし忘れていたソムタムを持って現れた。

 あまり済まなそうにも見えなかったが、俺とリョウは「マイペンライ(大丈夫。問題ない)」と笑って許してあげた。

 風の死んだ暑期の午後に涼しい一陣の風が吹きぬけたようだった。

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