第二章『リョウとの邂逅』①

 二〇〇三年三月三十一日。

 TG六四一機バンコク行きの機上の人になった俺は不安な気持ちも当然あったが、それよりも「黄家の呪縛」から逃れた解放感のほうが勝っていて、六時間のフライトで気圧のことも考えず、機内サーヴィスの赤ワインのミニボトルを十一本も空けたので、バンコクドンムアン空港に降り立ったときはすっかりヘベレケだったが、あの熱帯の「ムワッ」とした熱と湿気を帯びた大気を浴びると体は一気に汗ばみ、一瞬、魂がどこかへ連れ去っていかれるような感覚に陥った。

 荷物なんて特に何も持たずに来たし、何にもあてなんてなかったが、下川裕治氏の本に因ると、空港からい小一時間くらいのカオサンというところに日本を含む世界中の貧乏旅行者が集まるみたいなことが書いてあったので、とりあえず俺は会って話したこともない下川さんとやらを信用することにして、当面の生活費分の両替を済ませ、一階の到着ロビーに大挙している出迎えのガイドや運助タクシーやツアー会社の斡旋をかわし、タクシーを拾い、カオサンを目指した。トールウェイ(高速)を降りたところでバンコク名物の渋滞に引っかかってしまい、目的地のカオサンまでは二時間半も掛かってしまったが、効き過ぎのエアコンの風にヤードンの薄荷の匂いと運転手のハーブ系の体臭と大蒜の匂いが程よく混ざったタクシーの車窓から見えるバンコクの街は今日一日の喧騒を夕闇が包もうとしている途中で、夕焼けがやけに美しく、亦、悲しかった。

 日本で言えば浜松町から東京駅までくらいのタクシー代でカオサンに着いた俺は路地裏にあって、静かで、居心地のよさそうなATゲストハウスに僅かな荷を下ろして、スーツでは動きにくいうえに暑いので露店でTシャツ数枚と風通しのよさそうなサロンのようなズボンとビーチサンダルを購入し、なんとか身軽と言うか現地人らしい格好になったら、最初に感じた熱風は熱風であることには変わりないのだが、とても心地のよい優しい風に感じられた。路地裏の屋台で一見、名古屋のきしめんのような麺料理をすすり、やたら日本の漫画や文庫本が置いてあるゲストハウスの共同スペースに戻り、腹ばいで頬杖を着いて人心地ついたところで今後のことを考えようとするのだが、夜でも三十度を下回らないこの季節は考え事をするには適していなく、タイに着いてからおそらく、百回以上は口にしている「暑い」をまた怠惰に口にし、目を閉じる。

「陽が翳っても暑いな。このへん、氷屋サンとかないのかねぇ」

 上のほうから人懐っこい、悪く言えば図々しいトーンの日本語が聞こえてきた。まさかこんな南の果てまで逃げてきてこんなにも早く日本語を耳にするなんておもっても見なかったので、俺は少し躊躇いがちに声のした方向を見た。

 声の主は麻の半袖シャツとちゃんと折り目のついたアイヴォリーのチノパンという出で立ちで一見、それなりにお金を持ったツアー客に見える二十代中盤の痩せ型の青年で顔がユースケサンタマリアに似ていてどこか頼りない。殴り合いになれば普通に勝てるだろうと思った。

「氷屋サンはないと思いますけど、冷たいビールならそこの冷蔵庫の奴を売ってんじゃないですか」

 暑くて少々、面倒くさいと思ったので俺はあまり誠意を込めず、共同スペースの奥を陣取っているオープンケースタイプの冷蔵庫を指差した。早くも悪名高き、「タイ化」が始まったようだ。

 意外にもさっきまで氷を求めていた青年は「あ!」という目をして、「オタク粋なこというね。おごるから付き合わない?」と俺を促したと思ったら間髪を置かず、冷蔵庫からシンハビールの大瓶を二本取り出し、レセプションで遠くを見るような目で煙草をくゆらせていたタイ人のお姉さんに「ヨッパライキライ」などと軽口を叩かれながら代金を払い、内一本を俺に手渡した。

「つい最近、会社を辞めてこっちには着いたばっかりなんだろう?ここの住人にしては色が白いし、顔や着てるモンが汚れていない。まぁ、遠慮せずに飲みなよ」

「まぁ、そうなんだけどさ」

「それ以外に目がまだ死んでいない。今から飛び込みで営業に行くって目だ。それに引き換え、このへんに屯する連中の目を見てみろよ。まるで死んだ魚みたいじゃないか」

「まぁ、実際に営業だったんだけどね、父の会社で」

「へぇ、若社長でもこんな得体の知れない人間のふきだまりみたいなところに逃げて来るんだ。随分と思い切った反乱をするもんだな」

「ところでそっちは何やってる人なの?」

「俺?つい三ヶ月前まで証券マンだっただけどさ、インサイダー取引が会社にばれてコレさ」

 青年は「コレさ」と言って首を切るジェスチャーをした。父から「株と競馬はやるな」と幼少の頃から口すっぱく言われていたものだが、こういう立場を悪用したヤカラがいるという理由もあるのだな、と得心した。俺は初対面の男にこんなやばい話しを平気でするこの男がこの先、かけがえのない相棒になるような予感と好感を持ち、胸襟を開いて話をしようと思った。

「証券屋なんてスーツを着たヤクザさ。そういって語弊があるならペテン師さ。あんたも気をつけることだね」

 青年はそんな捨て台詞ともいえる証券屋論を投げ捨てると、のどが渇いたのか、グラス三杯のビールを一気に飲み干した。尤も、喋らなくとも、じっとしているだけでのどが渇くどころか、体中の水分が全部持っていかれそうな暑さだ。この暑さだと一ダースあけるのに二時間もかからないだろう。間違えても日中、大地を焼くように陽射しが照りつけている表通りで動き回るのは御免蒙りたい。

 すでに二本目のビールも空いている。

「しかしね、考えよいうによっては、俺たちはツイてるぜ。営業での日々の激務を思い出してごらんよ。それが今やいいご身分だ」

「そうだね。つい数日前まで決算だなんだで生きてる心地なんかしなかったし、毎朝、トースト咥えて駅まで猛ダッシュだったんだから」

「え?社長令息なのに?高級外車がお出迎えじゃないんだ?」

「父の方針なんだ。一切、特別扱いしないっていう」

「ふーん。そうなんだ。あ、ごめん。なんか俺初対面なのにエラソーにべらべら喋っちゃって。まだ名前も教えてなかったね。俺はリョウ。木戸涼。木戸銭にASKAの涼」

 故意か天然か青年は三本目のビールも大方、空くとこれで初めて名乗り、照れくさそうにしたのが可笑しかった。俺は青年、いや、リョウの名前を聞いて名前だけ俳優だと思った。

「俺はリュウ。ホワンシンロン。台湾と日本の混血。だけど、リュウって呼ばないと返事しない」

「ハーフなんだ。格好いいね。『リュウとリョウ』かぁ。なんか刑事のコンビみたいだな。タカとユージ。古いところではトミーとマツ」

「なんかリョウさんとはいい友達になれそうだ」

「なぁ、リュウ……さんは二十七?八?」

 俺の年齢を気にし、それによって出方を決めようとするリョウはいかにも日本人だと思った。俺はサバを読んでしばらくリョウに尊大に振舞おうかと思ったが、せっかくいい友達になれそうなので正直に申告した。「二十七」と。

 そしたらリョウも「なんだタメかよ!気を使って損した!」と掌をひっくり返した。

「誰が気を使ったって?」

「まぁ、細かいことは気にするなよ。縁があるんだよ」

「そうだな。ここはリョウの奢りだしな」

 タイの、バンコクの、カオサンのゲストハウスで昨日まで他人だった俺、リュウとリョウとがビールを酌み交わすと言う非現実な出会い方だったためか、リョウとはこの日以来、俺の知る限りこの界隈では最強のコンビとなった。

 このあと、二週間は何をするのもリョウと一緒だった。

 ビールでも色水でも汚水でも液体であればなんでも掛け合うエキサイティングなソーンクランを激戦地であるここカオサンで共に闘ったり、パッポンのゴーゴーバーで夜な夜な乱痴気騒ぎに明け暮れたり、プラアティットの船着場で日がな一日チャオプラヤ川を眺めたり、あてもなく中華街を徘徊し、路地裏の屋台に首を突っ込み、ワンタンメンをすすったりしながら俺とリョウはバンコクの自由な風を感じていた。それと同時に俺は二十七年の人生ではじめて「相棒」、関西風に言うと「相方」を持つに至った。

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