第一章『ゆりかごからここに来るまで』➁
「マサばあば」は「悦子さん」の御母堂だけあって八十を過ぎてもフランスアルザス地方あたりの可愛いおばあちゃまという出で立ちであり、服のセンスも年相応に縮こまるのではなく、かと言っていたずらに若作りをするのでもなく、「シック」だ。つまりは「悦子さん」と同様、まだ「女であること」を諦めていないと言うことなのだ。
その「マサばあば」が或る晴れた日曜日の午後にテロ行為同然の暴挙を起こしに我が家にやってきたのだった。
「テロ行為」などと言うと少々、大袈裟かもしれないが、要は「マサばあば」は俺に「お見合いをしなさい」とA3版位のハードカバー付きのお見合い写真を持参し、俺に手渡したのだった。
「マサばあば」が言うには「先方はすでに俺のことを気に入っている」ということだ。「悦子さん」似の俺は見た目で選ぶには最適だろうが、俺はもうその時点で「薄っぺらな女」と失望してしまっていた。ただでさえその頃、周囲の期待と羨望の念と視線を浴びつつも仕事が面白く、趣味であり、生き甲斐になっていた俺にとってこの「結婚」という二文字は異分子に等しく、飛田新地での失望いらい、女性ともまともに付き合っていなかった俺にちゃんと夫婦生活が営めるのだろうか?と思ったら暗澹たる気持ちになった。
当然、お見合い写真を見ても何も感じるものはなく、ただただ憂鬱だった。
同席していた父は「どうせリュウが立派に会社を継いでくれるんだから所帯を持つのは早いほうがいいだろう」とまるでこの黄家と会社の将来しか考えていないような口ぶりで話を進めようとしていたし、「悦子さん」は「悦子さん」で「若いおばあちゃんになるのも悪かないわね。リュウ。早くこの娘とお見合いしなさい」とこれまた自分のご都合だけでお見合いの日取りや自分の着ていくものまで決めようとしている。
この心動かされることもないお見合い写真の女のことはあくまで「黄家の存続と父の会社の益々のご繁栄の為の道具」でしかないのか?
また、縁あってやがて生まれてくる子供は「黄家の子供」でしかないのか?
と、俺は今まで散々、恩恵を蒙ってきた「家族」、或いはそのシステムに対して懐疑的になり、家族という名の欺瞞が耐え難くなってきた。
だからと言って両親や「マサばあば」に毅然と「No!」と言い、反旗を翻すことのできない俺は終始、苦笑を浮かべ続け、気や川の流れを変える術を知らず、ただ流れるままにお見合いを承諾したのだった。魚の小骨がのどに刺さったような違和感を覚えた俺とは好対照に「マサばあば」の顔がライヴを終え、打ち上げの一杯目のビールを飲み終えた後のアマチュアバンドのシンガーように晴れやかだったのが今でも忘れられない。
それから一週間は濃い乳白色の霧の中で座禅を組み、悟りと真理を追求するシッダルッダの心境であった。今まで俺は父や「悦子さん」が喜ぶ方向へと自ら身を置こうとしてきたし、その結果は一度として間違っていなかった。なのに、「結婚」という人生の一大事が俺の意思が全く反映されず、「黄家の為に」行われようとしていることに今まで正しいと信じてきた「家族」への信頼が揺らぎ始めた。
―俺は「リュウ」、「黄興龍」ではなく、「黄家の息子」でしかないのか?
今まで一度も「自由になりたい」なんて青臭いことは思ったことがないし、尾崎のように軽々しく「自由」を口にするヤカラを軽蔑してきた。それなのに、二十一世紀の、平成のこの時代に「黄家の為に」生き、未来の伴侶さえも選べない己の境遇がつくづく厭になった。と、同時に今までの父や「悦子さん」の溺愛ははじめからこのように弁済させるつもりだったのかとも疑った。
そのように考えを限界まで煮詰めていくとある日、頭の中では何か糸のようなものが「プツリ」と切れた音がハッキリと聞こえた。何が切れたのかはよくわからなかったが、ともかく俺は「黄家の子供」であることを放棄しようと思った。
お見合い当日。
玄関で「床屋に行ってからそっちに向かうよ。父さんと『悦子さん』は先に行ってお茶でも飲んでてよ」と告げた俺のポールスミスのスーツの内ポケットには十年物のパスポートと五年間、汗水たらして働いた代償として残った五百万円分のトラベラーズチェックとバンコク行きの片道航空券が忍んでいた。旅行作家下川裕治の本によるとバンコクまで出ればとりあえずはなんとかなるらしいので、用意周到な俺にしては珍しく先のことなど何も考えずにとりあえずバンコクに着いてから考えようと思っていた。
―再見爸(さようなら父さん)さようなら「悦子さん」。
二十八歳にして最初で最後のレジスタンスがまさかこんなに長きに渡る「バンコク在住」になるなんて誰が夢にも思う?
おっと!感傷に浸っている場合じゃない。
寺澤にバイアグラを届けなければ!
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