20,1 最終話:オカルトマニアのぼくっ娘と陰キャオタクな先輩のラブコメホラー ΦOLKLORE・破


 目を開く。

 そこは、黄昏たそがれの光に満ちた世界だった。

 夕日が一面を照らし、空は深い紅色に染まっている。

 大地には赤い彼岸花が辺り一面に咲き誇り、小風に揺れていた。

 花々の周りにはたくさんの紅い蝶がひらひらと舞っている。

 ぼくはこの景色に見覚えがあった。


「”Φファイの世界”」


 ”境界”を超えた先にある、より”死”に近い世界。

 かつて境界”きさらぎ駅”で出会ったおじいさんは、境界にもいろんな形があると言っていた。

 駅であったり、川であったり。

 キサラのいうように井戸であったり鏡であったりもするかもしれない。


「キサラは……?」

『ここだよ』

「うわ! 頭の中で声がする! ぼ、ぼくの中にいるんですか?」

『そうだよ! 便利でしょー?』

「便利ですけどちょっとびっくりするかも……」


 キサラによって鏡を通って”Φの世界”に入ったぼく。

 さて、ここからどうしよう。

 見渡す限りの紅い大地と紅い大空。

 行き先はわからない。


「キサラ、どっちに行けばいいかわかる?」

『ぜぇーんぜんわかんない! 言ったじゃん、中では自力でセンパイを探さなきゃだよって!』

「それにしても自力すぎるよ!」

『いい? ”Φの世界”は外の世界と時間も方向も違うんだよ。だから五感を使っても目的地までは行けない。普通の人が迷い込んだら絶対に迷っちゃうんだよ!』

「だったらどうすればいいんですか?」

『ふふーん、そこはぬかりないのです! キサラは激カワで気遣いができるオンナだからぁ~、なんと案内人を呼んでいたのです!』

「あ、案内人?」


 気付いた時には、ぼくの目の前に1人の男性が立っていた。

 オレンジ色のクシャクシャ頭。

 上半身が作務衣で、下半身がジーンズというチグハグな格好。

 ぼくはこの男性を知っている。


「く、黒咲さん!?」

「よぉ、比良坂の嬢ちゃん」

「なんでこんなところに!?」

「いやー、話せば長くなるかって言うとそんなに長い話じゃないんだがよ。童咋沼の戦いで肉体を失っちまったんだわ」

「肉体を失ったって……」


 それって「死んだ」ってコトだよね。

 知り合いの死を突きつけられて衝撃を受けざるを得なかった。

 むずむずと湧き上がる喪失感に、まぶたの端が濡れるのを感じた。


「そんな話、軽くするもんじゃないです」

「なんだよ、悲しんでくれてんのかい。たいして長い関わりってワケでもなかったってのによ。いやぁ、お人好しだねぇ」

「だって……やっぱり知ってる人がいなくなるのは、つらいですよ……」

「悪い、イジワルだったな」


 黒咲さんはぼくの背中をポンポンと叩いた。


「ま、心配しなさんな。後悔はしてねぇからよ。オレのことはいい、今はお前さんの問題だ」

「え、ああ。ぼくの案内人を飼って出てくれたって」

「頭の中に変な甲高い声がひびいてよぉ、ここに呼び出されたってワケだ」

「たぶんキサラの仕業です。でもどうして黒咲さんが?」


 頭の中のキサラは答えてくれなかった。

 かわりに黒咲さんが冷静に推測する。


「ここ最近嬢ちゃんが関わった相手で、”Φの世界”で動ける人間がオレだったんだろうな。知ってるだろうがこの世界では時間も方向もありゃしない。そんな世界で道しるべになるのは”人の縁えにし”だ」

「縁……?」

「嬢ちゃんはオレの行く末を心配してくれたんだろ? それがオレと嬢ちゃんの縁として残っていて、この世界で引き合わせた。これから縁をたどって行けば、嬢ちゃんの目的地にたどり着けるって寸法さ」

「縁をたどる……」

「オレに心当たりがある。ついてきな」

「は、はい……」


 ぼくは黒咲さんの言葉に従い、彼の後ろをついて歩いた。

 彼岸花が生えていない、人が一人通れるくらいの小さな道が見つかったから、そこを進んだ。

 道の周りには紅い折り紙で作られた風車がいくつも立てられていて、カラカラと乾いた音とともに回り続けていた。

 歩きながら黒咲さんが質問する。


「嬢ちゃんが探してるのはあの眼鏡クンだよな?」

「はい、黒咲さんが”古き神”を殺したあと、地下空間からぼくを逃がすために自分を犠牲にして……そのまま消えてしまったんです」

「なるほど、”忘却の海”に沈んでそのまま”Φの世界”の深淵まで堕ちたってワケだ。こりゃあ、探すのはホネが折れるぜ」

「黒咲さんには先輩の居場所はわからないんですか? ほら、不思議な力で探すとか」

「”Φスティグマ”はそんな便利能力じゃあねえよ。それにオレと眼鏡クンの縁は細すぎる、直接は繋がらないぜ」

「だったら今どこに向かってるって言うんですか?」

「それは……見ればわかる」


 黒咲さんが指をさした先には、建物があった。

 白くて長方形の、一見病院に見える巨大な建造物。

 ああ。

 ここにもぼくは来たことがある。


「――『F.A.B.きさらぎ研究所』……!?」

「おや、来たことがあるのかい? なるほど、最近関わったってだけじゃあ縁が細いと思ってはいたが……オレと嬢ちゃんの縁はここに繋がっていたってワケだ」

「どういうことですか?」

「すぐにわかる。行こうぜ」

 

 研究所の中に入ってゆく。

 黒咲さんの所持していたAランクIDカードがまだ機能しているみたいで、内部は自由に移動できた。

 だけど誰もいない、がらんどうだ。

 でも……どこか違和感がある。


「なんか、ヘン……」

「どうした、嬢ちゃん」

「この研究所、前に見たときはもっと埃かぶってて全体的に老朽化していた気がするんですけど……なんだか、ずいぶんキレイなような」

「そうかい? オレの記憶にある研究所はこんなもんだったがね」


 そう言われてみれば、自分の記憶に自信がなくなってくる。

 記憶違い、と言われたらそれまでだけど。

 でも……。

 思考を巡らせていたその時だった。


 ――バン、バン。


 ナニカ・・・が壁を叩く音がぼくの耳に飛び込んできた。


「え、嘘……?」


 背筋が震える。この音には聞き覚えがあった。

 嫌というほど、脳に刻み込まれている。


 バン! バン! バン! バン! バン!

 バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン

バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン

バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン

バンバンバンバンバンバンバンバンバン!!!!


 音はだんだん近づいてくる。


「これは……!」

「おいどうした嬢ちゃん。なんだこの音は」

「これは――”多腕の鬼”です!」

「なっ……!?」


 ぼくが言い終えた瞬間、壁に這いつくばって移動するソレ・・が姿を現した。

 女性のような顔を持った、上半身だけの怪物。

 肩甲骨のあたりから八本の腕が生えていて、壁伝いに這い寄る”呪創鬼人グリゴリ”。

 ”ファウンダリ”に製造された人造の怪異。

 前に”きさらぎ駅”に到着した瞬間から、ぼくを狙ってきた存在だった。


「くそ、よりによって”呪創鬼人”かよ!」


 黒咲さんは手のひらを多腕の鬼に向ける。

 だけど、


「ダメです、その鬼は視力が弱いんです! たくさんの手の触覚と、壁を叩いた反射音の聴覚で周囲を知覚してるんだと思います!」

「ってことは”Φスティグマ”は効かねえ……逃げるぞ!」

「はい!!」


 ぼくらは怪物に背を向け、思いっきり走った。

 背後からバンバンと壁伝いに這い寄る怪物の音が迫ってくるのを感じる。

 研究所の奥へ、奥へ、廊下を走った。

 黒咲さんは厳重にロックされた扉をカードキーで1つ開けると、ぼくを通してからロックをかけた。

 ドンドンドン! と扉を叩く音が続いたけれど、やがて止んだ。


「高レベルセキュリティの扉だ、おそらく迂回路はない。いったん安心だな」


 ふぅ、と黒咲さんは息を吐いた。

 その時だった。

 部屋の奥から声が聴こえてきた。

 誰かいる。


「世界の未来は今、君の手の中にある。未来を決める力は、特別な存在などではない……誰もがその手に持っているんだ。僕はここにたどり着いた君に、これを伝えたかった」


 その言葉には聞き覚えがあった。

 いや、声も。

 覚えがありすぎるくらいに、何度も聞いた声だった。

 そして思い至る。この部屋の扉にはなんと書いてあった?

 『主任研究室』、そうだ。この部屋にいるのは『主任研究員』。

 『きさらぎ研究所』の『主任研究員』とは、つまり……。


「本当の謎は――人の心だ」


 ぼくの、お父さんがそこにいた。

 ちょうど黒咲さんの身体に隠れていて姿が一部しか見えなかったんだけど、声と言葉だけでもわかった。

 お父さんはこちらを見て、


「ああ……君か、黒咲」


 お父さんはちょうど黒咲さんの背後に立っているぼくに気づいていないみたいだった。


「僕を”処理”する役割を負うのがまさか君とはね、これも”業”ということか。いいだろう、僕はここで終わる。”普通である”事を拒んだ、僕のエゴが招いた当然の報いだと覚悟はしている。だけど家族だけは……心残りだ。君ならある意味では、信頼できる。家族に伝えて欲しい。僕の本当の気持ちを。こんなことなら、ただの写真家でいられたら良かった。家族と平和に暮らすだけの、平凡な男になればよかった。世界に確固たる真実なんてないのかもしれないけれど、僕にとってそれだけは唯一の――」


 「あー、遺言を長々並べ立ててるところ悪いんだがよ」黒咲さんはお父さんの言葉を遮って言った「家族に言い残したいことがあるなら、直接言ってやるんだな」。


「どういうことだい?」


 困惑するお父さんの前に、ぼくは姿を現した。

 黒咲さんの背後から出て、お父さんの視界の中に。


「あ、あの……へへ、来ちゃった」

「あーちゃん……?」


 ”Φの世界”で突如再会したお父さん。

 もともと”謎解き活動”もお父さんの痕跡を探すために始めたことだった。

 だから再会できたのは嬉しい。嬉しいハズ、なんだけど。

 どんな顔をしていいかわからなかった。どんな言葉をかけていいのか。


「高校の制服……何年か過ぎた世界から来たのか。きれいになったね、あーちゃん。若い頃のお母さんにそっくりだ」


 お父さんはぼくに笑いかけた。

 ああ、ずっと探していた人の笑顔だ。

 準備ができていなかったから感情がいろいろ追いついていなかったけれど。

 いまごろになって胸の奥から吹き出してくる。


「お父さああああああああああああああん!!」


 ぼくは子どもみたいにお父さんの胸に飛び込んで、子どもみたいにワンワン泣いた。


「会いたかった、会いたかったよおぉ!!」

「……すまない、あーちゃん。寂しい思いをさせたね」

「ホントだよ、お母さんのことだって! 勝手に置いていって! 勝手だよ、お父さんはいつも勝手!」


 お父さんの胸をポカポカ叩いてしまう。

 こんなコトしたいワケじゃなかったのに。

 もしもう一度会えたら「大好きだよ」って伝えたかったのに。

 ぼくはやっぱりお父さんの子どもだから。

 子どもみたいなコトばかりして、迷惑かけちゃうんだ。




   ☆   ☆   ☆




「落ち着いたかい、あーちゃん」


 さんざん泣きじゃくって、お父さんに慰められて。

 やっと落ち着けた頃には、黒咲さんとお父さんが話していて状況を概ね把握したみたいだった。

 お父さんはこう考察した。


「黒咲とあーちゃんの”縁”は僕へと繋がっていた。そのために、君たちから見て数年前の『きさらぎ研究所』に二人が導かれたみたいだね。不思議な話だけど、”Φの世界”ならばあり得ることだ」

「オレは案内人として呼び出された。比良坂の娘を父親に会わせることがオレの役割だったってコトかよ。確かに、オレにはこれ以上の心当たりはない。ここまでみてぇだな」


 黒咲さんの姿が薄く、だんだん透明になってゆく。


「ど、どうなってるんですか!?」

「役目を終えたから消える、それだけのことさ。何、心配するこたぁないぜ。オレは現世に後悔なんて残してねぇからよ。なあ比良坂」


 輪郭が曖昧になっていく中で、黒咲さんはお父さんに何かを伝えようとしていた。


「オレさ、父親になれたんだ。ずっと欲しかった家族を、最後の最後に見つけられたんだよ。だけどお前さんの言う通りだったぜ、パパさんってヤツは大変だな。だからパパからパパへ、エールってヤツだ」


 彼はお父さんに向かって拳を突き出した。

 お父さんは何も言わず、拳を出して黒咲さんと合わせる。


「がんばれよ、パパさん! ついでにその娘も!」


 次の瞬間には黒咲さんの姿が消えていた。


「まったく、律儀なヤツだ。死ぬ前も、死んだ後も……」


 お父さんはなんとも言えない表情で別れを惜しんでいた。

 黒咲さんとお父さんがどんな関係で、どういう感情を育んでいたのかはわからないけど。

 きっといい関係だったんだろうなって思った。


「さて、悲しんでいる暇はない。時間は限られているからね」

「でもこの”Φの世界”には時間も方向もないって黒咲さんが」

「それはぼくらのような”過去”の存在だけの話さ」

「過去?」

「ぼくらは過去、あーちゃんは現在いま。君は生きたままこの世界に入ってきた、知っているとは思うけどこの世界で食べ物を口にした場合、君は二度と外に出ることができない」

「そ、そっか。『ヨモツヘグイ』……生身の身体がある以上お腹は減るし、いつかは食事をしなきゃならないから……それがタイムリミット」

「その通り、よく勉強しているね。偉いよあーちゃん」


 お父さんはぼくの頭をなでてくれた。

 こんな風に褒められたの、久しぶりだな。


「えへへ……」

「とはいえ、こうして喜んでいる暇もないということさ。黒咲が消えたということは、僕が次の案内人になるみたいだけど……正直、現時点では心当たりがないんだ。まずは聞かせてくれないかい、君が探している人のことを」


 お父さんに促されるままに、ぼくは椅子に座った。

 ぼくはお父さんに今までのことを話すことにした。

 お父さんがいなくなって、”謎解き活動”を始めたこと。

 高校に入って”先輩”と出会って、いろんな出来事を体験して。

 そして最後に、先輩が消えてしまったこと。


「なるほどね」


 お父さんは頷いて、


「あーちゃんの語る人物像を聞いて、一人だけ心当たりのある人物がいる」

「ホント!?」

「うん、君たちにとっては何年も前のことだけれど、僕にとっては……数時間前に出会っているんだ」

「え……それってどこで?」


 お父さんは答えずに立ち上がった。


「まずは行こうか」

「ちょ、ちょっとお父さん!? どこいくつもりか知らないけど、この部屋の外には”多腕の鬼”がいるんだよ!?」

「多腕の鬼……? ああ、そうか。”ジャバウォック”のことだね」

「ジャバウォック?」

「ぼくが製造して名付けた”呪創鬼人グリゴリ”さ。ある意味あーちゃんとは”姉妹”みたいな関係になる。君を襲っているのもおそらくは……羨ましいんだろう」

「羨ましいって……?」

「あーちゃんがとても美しいからさ」


 お父さんは歯が浮くような台詞をサラっという。


「こ、こんな時にそんな冗談――」

「いいや、冗談じゃないよ。呪いなんて、そういう小さな妬みから始まっているものなんだ。姉妹のどちらかが醜くて、どちらかが美しいとすれば愛し合う家族といえど妬みの感情は生まれてしまう。人は誰かを愛する生き物だけど、愛すれば愛するほど、何かを憎まずにはいられない。プラスに傾いた感情を願いとか夢とか祈りと呼んで、マイナスに傾いた感情をぼくらは呪いと呼んでいるんだ。けれどその2つに本質的な違いはない」

「……だったら、あの”ジャバウォック”の呪いを解くにはどうすればいいの?」


 お父さんは首を横にふるだけだった。


「無理だ」

「どうして?」

「君から見て過去の、僕から見て未来の研究所にも”ジャバウォック”がいたんだろう? アレは既に呪いが強くなりすぎて、時間軸が切り離された存在になっているんだ。未来に存在することが確定している以上、過去であるこの研究所では対処しようがない。だから……」


 お父さんはパソコンを操作する。

 モニタに研究所のマップらしきデータが映し出された。

 カタカタとキーボードになにかコマンドを打ち込みながら言う、


「隔壁を閉じて”ジャバウォック”を閉じ込めておく。ぼくらは安全が確保された廊下から出ることができるよ」

「す、すごい……」

「いちおう主任研究員だからね」


 生物学が専門なのにセキュリティシステムを動かせるのは「主任だから」で済まされるのだろうか?

 疑問だったけど、もはやそれ以上に不可思議なことばかり連発していて、感覚がどこか麻痺していた。

 そういうモノとして受け入れるしかない。


「では出発しよう――”きさらぎ駅”へ」





   ☆   ☆   ☆




 研究所を出て少し歩いた先に、駅へつながるトンネルがあった。

 ぼくとお父さんがトンネルを通り抜けると、そこに『駅』があった。

 ”きさらぎ駅”。

 ぼくが以前迷い込んだことがある、”境界”。

 近づいていくうちに、駅前のベンチに2人の人影が見えてきた。

 そうだ、この駅には確か――。


「な、なんであなたがここにいるのよ!」


 2人の人影のうちの1人、スーツ姿の女性……葉純はすみさんが立ち上がり、大きな声で話しかけてきた。

 ぼくが前に来た時は研究所にいたはずだけど……。


「い、いやー。いろいろありまして……」


 本当にいろいろありすぎて説明が難しかった。

 お父さんはというと、葉純さんの隣に座っていた盲目の老人に話しかける。


「お久しぶりです――先生」

「比良坂」


 盲目の老人は静かに頷いた。

 だけど葉純さんは納得いかないようで、


「比良坂博士……ファウンダリの主任研究員ね。あなた、確か死んだはずよね。どうしてここにいるのよ」

「葉純よ、”Φの世界”に死者が現れることなど珍しくはない」

「だからってなんでもありにもホドがあるでしょ!」

「ふム、この比良坂は死者ではない。時間のねじれによって出現したようじゃな。まだ死んでおらん・・・・・・


 盲目の老人の白濁した瞳がお父さんを見つめる。

 その瞳には一瞬だけ――「Φ」の刻印が浮かび上がった、ように見えた。

 まばたきをするとすでにその刻印は消えていた。

 見間違いだったのかな……?


「先生、駅を使わせてもらいます。娘の探し人が、この世界のどこかにいるみたいですからね」

「境界の中で境界を超える。”Φの世界”の階層をさらに降りるということじゃな。しかし危険な手段じゃぞ」

「承知の上です」


 「ねぇお父さん、危険って?」ぼくが訊くと、お父さんはこう答えた。


「”Φの世界”にも階層がある。ここみたいな浅い階層と違って、深層は人間が認識できる時空の形をしていない。最悪、あーちゃんの自我が崩壊して魂が囚われてしまう危険性があるということさ」

「そんな……」

「大丈夫、だとは言えない。覚悟が必要だ。だけどね、あーちゃん。君はもう、覚悟してきているように見えるけど」

「……はい」


 ぼくは頷いた。

 「ふム」盲目の老人も頷いて、


「比良坂の娘よ、”キサラ”がお主をここへ導いたのじゃな」

「は、はい。わかるんですか?」

「ハッキリと視えておるよ、この――”Φファイクロミア”でな」


 ぼくを見つめる老人の両目にはハッキリと「Φ」の刻印が輝いている。

 「うわキモッ、それどうなってんの!?」葉純さんがツッコミを入れると、老人は一度目を閉じて開く。

 刻印は消えていた。


「昔、実験の失敗で”Φの世界”に堕ちたことがある。その時に刻まれた呪印じゃよ。現世うつしよでの視力と引き換えに幽世かくりよでの霊視能力を得た」

「”Φの世界”での恩恵ですか。先生、人が悪いですよ。僕にも秘密とは」


 お父さんですら知らなかったらしい。老人はくつくつと笑った。


「恩恵などではない、罪への罰じゃよ。お主もまだ未熟ということじゃ、比良坂」

「しかし先生、”キサラ”があーちゃんを導いたというのは……?」

「まだ気づいておらんかったのか、”キサラ”は今、お主の娘の中におるのじゃよ」

「”キサラ”が……あーちゃんの中に……そ、そうか。魂を操る”Φクオリア”なら他人の肉体に魂を宿らせることが可能。だけど……」

「お主はキサラに適合する肉体をついぞ創ることはできなかった。まさか、お主の実の娘が唯一の適合者になるとはのう」


 適合する肉体を創ることができなかった?

 よくわからないけれど、キサラが最初に入っていた”肉塊”はやっぱり失敗作だったってことなのかな。

 でもだとしたら、今更になって疑問なんだけど。

 キサラという2つ目の魂が身体に入ってるのに、ぼくはなんで無事なんだろう?

 わからないけど、お父さんは納得できたようで、


「だとしたらまだ可能性はある。世界の未来も、まだ……希望は、ある」


 ぼくの手を掴んで歩き始めた。


「行こう、あーちゃん。君の中に”キサラ”がいるのならば、全てが繋がるかもしれない」

「ど、どういうこと!?」


 老人と葉純さんに「失礼します!」と挨拶して駅の中へ入った。

 改札のカードリーダーにお父さんがIDカードをかざす。

 駅の電源がついて、暗かったプラットホームの電気が全て点灯した。


「もうすぐ電車が来る。本来”きさらぎ駅”は”ファウンダリ”が人工的に作り上げた”境界”だ。現実世界と”Φの世界”をつなぐための。つまり、ここから電車に乗ると行き先は普通なら、現実世界ということになる」

「う、うん。前は現実に戻れたよ。だけど――」

「その通り、今回の目的地は違う。”Φの世界”のさらに深層だ、そこにがいる可能性が高いからね。”Φの世界”の中でさらに”境界”を通ることで、より深く潜ることができる。駅の本来の仕様とは違う使い方だが」


 ”Φの世界”の中でさらに”境界”を通る……。

 たぶん、夢の中で眠ることで”夢の中の夢”を視るようなことを言っているんだろうと思った。

 ただでさえ時間も空間もめちゃくちゃな”Φの世界”から、さらにもう一段階”Φの世界”に入ってしまうとすると……どうなってしまうんだろう。

 ぼくみたいな普通の人間の精神で耐えられるのだろうか。


「大丈夫だよ、あーちゃん。君の中にはキサラがいるんだろう?」

「……お父さん、キサラって何者なの? 研究所の奥にいて、カプセルの中にずっと閉じ込められて」

「……そうだね、話すと長くなるから端的に言おうか。昔、神を人工的に創ろうとした愚かな男がいたんだ。その男は家族を顧みず研究に没頭し、非人道的な人体実験を繰り返し……ついに造り上げたんだ……”人造天使ネフィリム”をね」

「”人造天使”……それが、キサラの正体」

「だけど男は気付いた。全ては間違いだった。神を創ろうなど、傲慢だったんだ。だから研究所ごと全てを葬り去ろうと思ったのさ」


 それがお父さんが家族のもとを去った原因。

 だけど……違う。お父さんの言ってること、全然わかんないけど。

 たぶん、違うんだ。


「お父さん……お父さんの覚悟とか、迷いとか、たぶん全然わかってあげられないけど。だけどね……キサラは危険な存在じゃない、良い子だよ。キサラのことを”間違い”だなんて言わないで欲しい」

「っ……あーちゃん、君は」

「だってお父さんが造ったってことはね。キサラはぼくの妹なんでしょ?」

「君は、そうか……そういう風に思えるのか。だから”ジャバウォック”の呪いを解けないかと僕に聞いた……アレも僕が造ったのだから、放っておけなかったんだね。君は、どこまでも……優しい子、なんだね」


 お父さんは泣きそうな顔でうつむいて、ぼくの両肩に手をかけた。


「聞いてくれ、あーちゃん。君の探す男の子とは会ったことがあるんだ。僕が研究所を”Φの世界”に沈める決心をした時、現実世界の駅で少し話したことがある。一目で特別な子だと思った。誰よりも頭がいいのに、自信がなくて、何かに怯えていて……君は、その男の子のことが――好きなんだね?」

「え、い、いや! 好きとか、そーゆーのじゃなくて!!」

「ははは、そういうことにしておこう。うん、あーちゃんにもそういう相手ができるなんてね。ちょっと寂しいけれど……成長した君を見られただけで、僕は嬉しいんだ」


 その時だった。

 駅のプラットホームに、電車が到着した。

 扉が開いて、ぼくの搭乗を待ちわびている。


「この電車の行き先は”Φの世界”のさらに深層に設定した。だけどに繋がるかどうかは、誰にもわからない。あーちゃん自身が縁を辿らなければならないだろう。だけどね、君はキサラのことを見捨てなかった。あのジャバウォックでさえも。僕は家族も研究も、何もかも捨ててしまったけれど……君は何一つ捨てなかったんだ。僕とは違う、君なら本当に大切なモノを見つけられる。今ならそう信じられるよ」

「お父さん」

「さあ、乗るんだ。この先は君1人だよ。いや、キサラと2人か。あーちゃんの言う通り、キサラも僕の娘なんだからね」

「お父さんは行かないの? だってこのままじゃ、お父さんは……」


 この”過去のお父さん”の行く末をぼくは知っている。

 現実世界で死体となって発見されるんだ。

 このまま電車でぼくと一緒にどこかへ逃げてしまえば、その未来は回避できるんじゃないか? 思いつきだけど、ぼくはその疑問をぶつけてみた。


「言ったはずだよ、僕は過去、そして君は現在いまだって。僕の結果は決まっている。しかし結果が決まっていても、道を選び、歩むのは僕自身なのさ。大丈夫だよ、あーちゃん。君ともう一度出会えて僕も……もう一度頑張ってみようって思えたから」

「お父さん……うん、ぼくは行くよ」

「最期に……君たち・・・を抱きしめさせてくれないか?」


 お父さんはぼくを抱きしめてくれた。確かな体温が合った。

 まだこのお父さんは生きている。生きているんだ。

 このまま別れてしまえば、たぶん二度と会えないんだと思った。

 お父さんの手を強引に引っ張ってでも、一緒に行きたいって思った。

 だけど……お父さんも決めたんだ、自分自身の進む道を。

 ぼくはもう、見送るしかない。


 お別れだ、本当に。


「お父さん……大好きだよ」


 やっと、言えた。本当の気持ち。

 その言葉はぼくだけの言葉だったのだろうか。

 それとも――キサラの。

 もう、ぼくたち2人の言葉になっていたのかもしれない。


「ありがとう、あーちゃん。そして、キサラ」


 ぼくは電車の中に入る。

 扉は閉まる。ゆっくりと走り始める。

 窓の外で、お父さんは笑顔で見送ってくれていた。

 電車は走る。

 駅のプラットフォームが徐々に小さくなってゆき、やがて見えなくなった。


 たぶんこれが、最後の別れなんだって思った。

 ううん、もともとお別れしなきゃダメだったんだ。

 あの時、お父さんが死んだ日に。

 別れを認めて、前に進まなきゃならなかったんだ。

 だけどぼくはずっと認められなくて、立ち止まって。

 謎解き活動というモラトリアムに逃げ続けた。

 それでも。

 無意味なんかじゃなかったんだ。

 だってぼくはあの人に出会えたんだから。


 一番大切なモノを見つけられたんだから。


 だからもう、ちゃんとお別れしなきゃ。

 走る電車の中、ぼくはひとり呟いた。




「さよなら……お父さん」

 

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