20,0 最終話:オカルトマニアのぼくっ娘と陰キャオタクな先輩のラブコメホラー ΦOLKLORE・序


 ぱしゃり、と顔に水をかけた。

 毎朝、洗面所で顔を洗う。代わり映えのない一日が始まる。

 ひどい顔。

 たいしてやる気もないメイクを施してゆく。

 べつに可愛いくしても見せたい相手なんて、いないんだけど。

 ただ周りから浮かないために、世界に溶け込むために、ぼくは仮面をかぶる。


「うん、メイクばっちり。かわいいかわいい」


 指で強引に口角を釣り上げて、にっこり。

 ぼくは鏡の前で笑顔の練習をする。

 いつからだろう、心の底から笑うことが減った気がする。


「悲しくってもさ、笑ってたら楽しくなるかもしれないじゃん。そうだよね、お父さん」


 お父さんの遺影に手を合わせて、扉を開けて。

 家を出る、その時に珍しくお母さんが声をかけてきた。


「あーちゃん、あんた最近元気ないじゃない。ちょっと前までは毎日嬉しそうに学校に行ってたのにさ」

「そ、そうかな。あはは」

「ほら、そうやって作り笑い。あの人・・・にそっくり」

「……お母さん」

「何?」

「お父さんって、どんな人だった?」


 なんでだろう。

 お父さんがいなくなってから、お母さんにお父さんの話をしたことはない。

 けど、なぜかこの言葉が出てきた。

 今更。

 お父さんの死の原因を探すなんて目的をどこか見失い気味になった今になって訊くようなことじゃないかもしれないけど。


「お母さんは、お父さんのこと……どうして好きになったの?」

「さあ、わかんないよ、そんなの」

「え? わかんないって、そんなのアリ?」

「人を好きなることって理由とかあるのかねぇ。あったとして、全部後付けになるだけでしょ……大事なのは、そのときの気持ち」

「気持ち……」

「だいたいあの人はさ、理屈屋で女の気持ちなんて全然わかってくれない朴念仁で。仕事でいつも家庭を顧みない、ほんっと、サイテーの夫だった。いやほんと、お母さんなんであんな人好きになっちゃったんだろうね」


 お母さんは苦笑いしながら言う。

 その様子はどこか嬉しそうにも見えた。


「誰よりも頭がいいのに、妙に自信がなくて、いつも何かに怯えてて……だけどいつのまにか目で追っちゃってて……あたしが側にいなきゃって気持ちにさせられて」

「お母さんは、さ。後悔してる?」

「ん?」

「お父さんと結婚して」


 「バカね」お母さんはぼくを抱きしめた。


「あーちゃんがここにいる。それが答えでしょ」

「……うん、ありがとうお母さん。ちょっと元気出た」

「そりゃ良かった。いってらっしゃい、あーちゃん」

「いってきます」




   ☆   ☆   ☆




 学校が嫌いだった。

 授業は退屈。

 新しい知識が手に入るのはありがたい反面、常に疑問も残る。

 教科書にのっている知識は、本当のことなんだろうかって。

 誰が発見して、誰が検証して、誰が事実と認めたのだろうかって。

 考え始めてしまう。


 たとえば地球が太陽の周りを回っているとして。

 それが世界の常識で、覆せない事実だったとしても。

 地上から見れば太陽は地球の周りを回っているように見えるんだ。

 だからって今更太陽が地球の周りを回っているなんて主張したら、ぼくは世間の笑いものになるだろう。

 でももっと古い時代には、真逆の考えが常識だったんだ。

 太陽こそが地球の周りを回っていて、地球こそが宇宙の中心なんだって。

 それが世界の真実だった。

 いつか宇宙に対する理解も変わってしまって、今の常識が時代遅れになる日が来るのかもしれない。


 だったら真実ってなんだろう?


 授業中そんな考えがぐるぐると頭をめぐり、全然集中できなかった。

 はぁ、きっと彼なら・・・呆れ顔でこんな風に言うんだろうな。

 「天体を観測すれば惑星の逆行を記録できる以上、地球が太陽の周囲を回っていると考えるのが妥当だろう」なんて空気の読めないマジレス。

 女の子は論理的解決じゃなくってさ、共感が欲しいだけの時もあるのです。

 なんて……言ってもわかんないだろうけど。


 そんな文句を言う相手も、もういないんだけど。


 いつからだろう。

 学校が好きになったのは。

 授業が終われば楽しいことが待ってるって思えるようになったのは。

 放課後、ぼくは廊下を早足で進む。

 高校生になってから何度も繰り返したルーティーン。

 繰り返しの日常。だけど全然飽きたりしなくて、ワクワクする毎日。

 図書準備室を目指す。

 だってそこには、新しい何かが待ってるから――!


「……」


 扉を開けると、誰もいない部屋がひろがっていた。

 無言でソファに腰掛ける。

 パソコンを広げ、メールをチェックする。

 新しい調査依頼のメールが徐々に溜まってきていた。

 最初は中身を開いてみていたけれど、最近はもう未読のまま放置することも多くなった。

 ぼくが立ち止まってしまった後も、世界には新しい謎が生まれ続ける。

 だけどもうワクワクしなくなった。

 一人で謎を解いていても、楽しいと思えなくなった。


「やめよっかな、謎解き活動」


 気持ちはどんどん後ろ向きになっていく。

 そういうときはつい、過去の記録を遡ってしまう。

 ぼく自身がつけた活動記録。

 そこからもさっぱり彼の痕跡は消えていた。

 だけど未練がましく、どこかに痕跡があるんじゃないかと思って探してしまう。

 それでもどこにも見当たらないんだ。

 過去の事件は全てぼく一人が調査をして、ときどき解決したことになっていた。

 ぼくってそんなに賢かったっけ? みたいな推理まで披露して。

 はぁ。

 スマホを開いてメールボックスを見る。

 彼とやり取りしたはずのキャリアメールのフォルダも綺麗サッパリ消え去っていた。

 事件に関わるメールを遡ると……こんな不思議な文面が目に入った。


『アンタの心の中には、アンタを護ってくれる存在がいたんだね。おめでとう。それと、ごめんなさい』


 思い出す。

 これはぼくが夢の中の『死神』に追われた事件の最後に送られたメールだ。

 送り主は、事件の調査途中で亡くなった結崎ゆいざきさんという女子学生だった。

 ううん、実際は彼女が亡くなった後に送られたメールだから差出人はわからなかったんだけど……。

 今更になって気になってくる。このメールの意味。


「ぼくの心の中には、ぼくを護ってくれる存在がいた」


 どういう意味だったんだろう。心の中……。

 もしかしたら。全部、心の中の出来事だったってことなのかな。

 彼はぼくの心の中でだけ存在した男の子で。

 世間的に言う”イマジナリーフレンド”だったとすれば……辻褄が合う。


「そっか、そういうことだったんだ」


 なんだよ、もう。

 結局ぼくの独り相撲ってコトなら丸く収まるんじゃないか。

 落ち込んで、周りに気を使わせて……。

 そんな日々を続けるくらいなら、そうやって終わらせて、この気持ちに一区切りつけたほうがいいじゃん。

 ぼくは立ち上がる。

 図書準備室を片付け、軽く掃除をすると……鍵を閉めて、立ち去った。


「さよなら」


 それは、何に対する別れの言葉だったのだろう。




   ☆   ☆   ☆




 学生議会室。

 ぼくは議長席の美女、東風谷こちや会長と向かい合っていた。


「図書準備室の使用権限を返上したいと、そういうことですのね?」


 彼女は念押しするように確認してきた。


「はい、もう”謎解き活動”はやめますから」

「そう、残念ですわね。わたくし、ファンでしたのに」

「知ってます。申し訳ないですけど、続ける意味が無くなっちゃいましたから」

「意味……ですか」


 会長はぼくの目をじっと見つめて言った。


「出過ぎたマネかもしれませんが、比良坂さんの友人の1人として言わせてもらうと……意味なんて必要なのですか?」

「え……?」

「以前言いましたわね。わたくしは学園の皆さまに、無意味な青春を楽しんでいただきたいのです。突き詰めれば、世界で起こるあらゆることは無意味に帰する。だけれど、大切なのは気持ちよ。わたくしの目には、あなたはあの”謎解き活動”を楽しんでいたように見えたのだけれど」

「そう……でした。だけどもう、楽しくないです」

「どうして?」

「……」


 ぼくが言えずにうつむいていると、会長は鋭くこう指摘した。


「”先輩”がいないからですか?」

「っ……会長、どうして……! やっぱり先輩のこと覚えて――」

「ご期待に添えなくて申し訳ないのですけれど――覚えてなどいませんわ。わたくしの記憶には該当する学生のことは一切残っていない。加えて、学園の記録にも存在していない。そのことは以前にもお話したはずです」

「はい……そう、でしたね」

「ですが、だからといって諦めるのですか?」

「え……?」

「あなたはいつだって、記憶にも記録にも残らないモノを追いかけてきたのではありませんの。人の噂や伝承にのみ存在し、誰も実在を確認できなかった何か。曖昧なモノ、目には見えないモノ、証明できないモノ……」


 会長は力強く言うのだった。



「そうよ、あなたはずっと追いかけてきたのよ――”都市伝説フォークロア”を!」



 その言葉にハッとさせられる。

 そうだ、そうじゃないか。教科書にものってなくて、今の科学じゃ認められなくて。

 学校じゃ教えられなくて、世間の誰かが笑って否定したとしても。

 ぼくはずっと追いかけてきたんだ。

 この世界の謎を。

 

「比良坂さん、あなたが活動を辞めるというならそれはあなたの自由よ。だけど最後に1つだけ解くべき謎が残っているのではないかしら? それは、あなた自身の心の謎。あなたはなぜ”謎解き活動”を続けてきたのか。なぜあなたの記憶の中だけに”先輩”という実在しない学生が存在しているのか。大いなる謎よね、だけれどこの謎を解かずして、あなたは諦められるのかしら? わたくしのことを諦めなかった、諦めの悪いあなたが」


 彼女はぼくに笑いかけてくれた。励ますように。


「……ありがとうございます、会長」

「それで、どうするの?」

「最後まであがいてみることにします。もしかしたらダメかもしれないけど。全部ぼくの思い込みや勘違いで終わるのかもしれないけど」

「けれど結果だけが大事じゃないわ。それは比良坂さんがわたくしに教えてくれたことでしょう?」

「はい、そうでした。会長、1つだけ手がかりになりそうなモノがあるんですけど――」


 ぼくは会長から、学生議会が所有する倉庫の鍵を借りたのだった。

 鍵を手に学生議会室を出ていく。

 会長が駆け出すぼくの背中を応援してくれる。


「がんばって、比良坂さん! わたくしずっとあなたのファンですから!」

「がんばってみます! もしも失敗したら……慰めてくださいね、その豊満なおっぱいで!」

「おっぱ――っ……もぉ、わたくしを時々いかがわしい目で見るのは何故なんですの!?」

「冗談ですって、半分くらいは!」


 学生議会室をあとにした。足取りは軽やかだった。

 重かった身体がスルスルと前に進む感覚。エンジンがかかってきた。

 そうだ、まだ諦めるには早すぎる。

 会長の言う通り、これは謎なんだ。

 ぼく自身の謎。

 心の謎。

 ずっとぼくはそれに向き合い続けてきたじゃないか。

 失敗しても、見失っても、何度だって進み続けたじゃないか。

 だってそうでしょ?



「本当の謎は、人の心なんだから!」




   ☆   ☆   ☆




 薄暗い空間、学生議会所有の倉庫の中に1人。

 ”割れた鏡”の前にぼくは立っていた。


「この鏡は、確か……」


 学園七不思議の1つ、『割れた鏡』。

 もともとは北校舎三階奥の女子トイレの手洗い場にあった鏡のことだ。

 噂では、深夜零時ちょうどに鏡の前で呪文を唱えると、唱えた人間にとって『最も逢いたい想い人』の姿を映し出すというモノだった。

 以前、東風谷会長と一緒に調査した結果、本当に呪いが込められた危険なモノだとわかったので学生議会の倉庫に封印されたのだ。


「この”割れた鏡”の効力はホンモノだった。会長のお祖父さんが映し出され、ぼくごと過去の時間に飛ばされるくらい……」


 本物の呪いによって意識だけとはいえ時間旅行までさせてしまう代物シロモノ

 これを使えば、”証明”できるかもしれない。

 ぼくだけが覚えている”先輩”が実在している人物なのか、否かを。


「今、ぼくが最も逢いたい想い人は間違いなく”先輩”。この鏡の前で呪文を唱えて、先輩の姿が映し出された場合は、ホンモノの呪いの鏡が彼の実在を保証することになる……カモ」


 言っててなんだか無茶苦茶テキトーな作戦だと思った。

 そもそも鏡に先輩が出てきたとして、それを認識しているのがぼく自身である以上、幻覚だのなんだのどうとでも説明がついてしまうから、”証明”になんてならないんじゃないだろうか?

 いやいや、実行する前からいろいろと頭の中でケチをつけてしまえるけれど、やる前から諦めてる場合じゃないよね。

 うん――やってみよう!

 ぼくは意を決して唱えた。


「鏡よ鏡、我は求め訴えたり」


 ……。

 静寂だけが倉庫の中を流れる。

 鏡の中のぼくはニコニコとぼくに微笑みかけている。

 男の子に変化する様子など微塵もない。

 や、やっぱりダメですよねー。

 そもそも今、夕方だし。深夜零時ですらないし。


「はぁ……やっぱり深夜にもう一度試すしかないかなぁ」


 なんてため息をついた瞬間だった。

 ぼくは気づく、その違和感に。

 相変わらず、鏡の中のぼくはニコニコとぼくに笑いかけている。

 うん……。

 ぼくは笑ってないと思うんだけど。

 そもそもうつむいてて、正面から見つめてなんていないと思うんだけど。

 そう、鏡の中のぼくはずっと、まっすぐぼくを見つめて笑っていたんだ。


「はへ?」


 ぼくは疑問に頭を傾ける。

 すると、鏡の中のぼくもそれを見てワンテンポ遅れてから真似をするように頭を傾けた。


「な、なんですかあなたは! なんでぼくのマネするんですかぁ!」


 ぼくが鏡に向かって怒鳴りつけると、鏡の中のぼくはケラケラ笑い始めた。


『アハハハッ! 驚いてる驚いてる! あーちゃんやっと気づいてくれたぁー!』


 もはやぼくのマネをするのも放棄して勝手に喋り始めた鏡の中のぼく。

 だけど不思議とその声には聞き覚えがあった。

 可愛らしい声。頭の中に直接響くようなその声は――。


「――キサラ?」

『せいかーい! もぉー、いつ気づいてくれるかと思ったよぉー!』

「どどどど、どうして鏡の中に!」

『鏡の中じゃないよ、あーちゃんの中にいるんだよ。ずっといたよ』

「えぇ!?」

『童咋町でイジワルおばさんに襲われた時も護ってあげたじゃーん!』

「え、ああ……そういえば」


 言われてみれば。

 童咋家に侵入した時だっけ、サユちゃんのお母さんに魂を抜き取られそうになって。

 その時キサラの気配を感じた……ような、気がした。


「その節はどうも」

『いえいえこちらこそー』


 二人して鏡越しにサラリーマンみたいなお辞儀合戦をした。

 怪現象が起こっているというのになぜだかぼくには緊張感が湧いてこなかった。

 かつて『きさらぎ駅』に迷い込んだ時に出会った女の子、キサラ。

 彼女は『きさらぎ研究所』で作り出され、そこから出られない生き物だった。

 ぼくを守って死んでしまったと思っていたけれど、こんな形で再会できるなんて。

 不思議だとか驚きとかより、なんだか懐かしくて嬉しい気持ちが勝っていた。


「再会を喜んでるとこ悪いんだけどね、キサラ」

『なぁに、あーちゃん。今のキサラはあーちゃんとお話できてゴキゲンうるわしゅーから、なんでも聞いてあげるのです!』

「キサラはね、”先輩”って人のコト覚えてる?」

『覚えてるよ』

「そうだよね、やっぱり覚えてないよね。ぼくだけの――って、ええ!?」

『だから、覚えてるって』

「そんなあっさり!?」


 探していた先輩の手がかりがこんな簡単に出てくるなんて。

 やっぱり会長の言う通りだった。諦めるべきじゃなかったんだ。


『センパイってあの眼鏡のイケメンのことでしょぉ? あーちゃんと一緒にいつも迷信みたいなモノを追いかけ回して、理屈ばっかりこねくり回してる偏屈な男の子』

「そうそう、それです! 少し前に彼だけがみんなの記憶から消えてしまったんです! 覚えているのはぼくと、キサラだけ」


 だけど希望が見えてきた。

 ぼくだけじゃないんだ。キサラも先輩のことを覚えている。

 これは先輩が実在していたことの証明になるんじゃない?


『うーん、あーちゃんにはごめんなさいだけど、キサラが覚えていることはセンパイの存在証明にはならないよ』

「へ? どうして?」

『だってキサラはあーちゃんの目を通してこの世界を見てきたんだもん。あーちゃんに見えているモノはキサラにも見えるんだぁ。てことはだ、あーちゃんがセンパイを認識している以上、キサラにも認識できるのはとーぜんなんだよね。仮にあーちゃんが見ていたものが夢や幻だったとしても、キサラには現実と区別がつかないってコト!』

「あ……」


 確かに、キサラの言う通りだった。

 キサラがぼくの中にいて、ぼくの目と耳で外界を認識していたとするならば。

 キサラに先輩が見えていて、覚えているのは当然のこと。

 キサラの記憶は先輩の存在証明にはなり得ない……。


「はぁ、手がかりだと思ったのにまた振り出し」

『振り出しじゃないよ! ちゃんとあーちゃんは前に進んでるじゃん!』

「励ましてくれるのは嬉しいけど、ぼくにはこれ以上手がかりがないんですよ」

『ううん。あるよ、手がかり』

「え……?」

『でもその前に、あーちゃんに訊いとかなきゃだよね』

「な、何を……?」


 鏡の中のぼく――あるいは、キサラが言った。


『あーちゃんはセンパイって人のコト、心の底から信じてる?』

「え……?」

『結局ね、世界のあり方ってその人の認識次第でどうにでも変わるんだよ。何が存在して、何が存在していないのか。実在と非実在。その境界線は、人の心の中にしかない。世界の全員が認めなくても、あーちゃん1人さえ信じていれば、それは存在しているってコトになるんじゃないかな』

「今はそんな観念論の話をしている場合じゃ」

『それでも大事なことだよ、答えてあーちゃん』


 キサラはどうやら真剣だった。

 だったらぼくも、真剣に答えなきゃ。


「うん、信じてる。ていうか、たとえ夢でもいいんだ。幻想や幻覚の存在だってかまわないよ。先輩がいる世界が、ぼくにとっての本物なんだって思いたい」

『……わかるよ、あーちゃんの気持ち、伝わってくる。ホンキなんだね、だったらキサラも手伝いたい』


 鏡の中の少女が言う。


『もしもセンパイが実在したけど、なんらかの理由で消えてしまったのなら。童咋沼で神が死んだ影響で、世界のあり方が少しズレ・・ちゃったからだと思う』

「世界が、ズレた?」

『センパイがいる世界から、センパイのいない世界にシフトしたってコト』

「それって……」


 かつて『ファンタ・ゴールデンアップル』の謎を調査した時に彼が言ってたっけ。

 『マンデラ効果』人とは違う記憶を自分だけが持っている現象がある。

 その原因の一つとして、並行世界の移動が考えられるって。

 確か――。


「――”分岐した異なる現実オルタナティブ・リアリティ”」

『そのとぉーり。今のあーちゃんはセンパイがいないという異なる現実に迷い込んでしまった。まるで『ふしぎの国のアリス』なのです!」

「だったらどうすれば」

『世界を変えちゃえばいいんだよ!』

「世界を……変える?」


 そんな大それたことをキサラは平然と説明する。


『センパイという存在を”忘却の海”から取り戻せば、この世界はもう一度修正されるハズ』

「ちょっとまって、どうして”忘却の海”が出てくるの? あれって童咋沼の井戸なんですよね?」

『単なる井戸じゃないよ、アレは現実世界に顕現した”境界”だから。その奥は直接”Φファイの世界”につながってたんだ。ううん、”Φの世界”の中でも最も深い場所……”こきゅうとす”に』

「”コキュートス”? 氷の地獄……という意味ですか?」

『魂も記憶も、思い出も心残りも全てが凍りついてしまって、その先に進むことも戻ることもできない世界。時間が止まった世界。時間の概念そのものが凍りついた世界。それが”こきゅうとす”。そこに魂が囚われてしまえば、全ての並行世界に存在ごと浮き上がってこられなくなる。センパイが消えた理由は、”忘却の海”に取り込まれて”こきゅうとす”まで堕ちちゃったからだと思うんだぁ』

「だったらどうすればいいんですか? ”忘却の海”の入口になっていた井戸は童咋沼の地下にあったけれど、もう祠は開かなくなってしまった……先輩を助けに行く手段が……」

『一つだけあるよ』

「え……?」

『キサラの能力”Φファイクオリア”を使えば、あーちゃんの魂を”Φの世界”につれていける。この”割れた鏡”も一種の境界として機能してるからね、鏡の中に飛び込めばキサラが連れて行ってあげるよ』


 この鏡の中に飛び込めば……”Φの世界”へ先輩を探しに行ける。


『”Φの世界”のどこに”こきゅうとす”があって、センパイの魂がどこに囚われているのか……時間も方向もない世界でどうやってセンパイを探すのか。キサラの力じゃそこまでは手伝ってあげられないよ。だからその先はあーちゃんが自力で頑張らなきゃだけど――』

「ううん――それでじゅうぶんだよ、キサラ」


 そうだ。可能性が目の前に現れた。

 なら迷ってる暇なんてないんだ。飛び込むしかない。


「ぼくが先輩を探し出すから、”Φの世界”に連れて行って」

『いいんだね、あーちゃん。たぶんわかってると思うけど、”Φの世界”に一度入れば出られる保証はないよ。もしも”こきゅうとす”までたどり着いたとしても、センパイを探し出すのはたぶん……不可能に近いと思う。万が一センパイを見つけられたとして……出ることなんてできない。あーちゃんは全ての世界から消えてしまって、皆から忘れられる。センパイと同じように』

「それはちょっと寂しいけど、でも。いいんです」


 ぼくはもう迷わない。

 決めたんだ。


「先輩にもう一度会いたいから。まだ伝えてないことがいっぱいあるから。ぼく自身の気持ちも……まだ、始まってすらいないから。その前に全部終わりなんて嫌なんです。だから!」


 鏡の中のぼくは。

 キサラは。

 手のひらを鏡にぴったりとくっつける。

 ぼくもその手に手のひらを重ねた。

 するとキサラがぼくの手をつかみ、鏡の中へひっぱりこんでゆく。

 ”境界”を超えて、ぼくの手が、腕が、肩が、身体が鏡の中へ取り込まれてゆく。

 こうしてぼくは――鏡の世界なかへ飛び込んだ。






『これはあーちゃんという最初の謎を巡る冒険たび。センパイという最後の謎を巡る冒険たび。行こう、二人の世界の始まりの終わりへ、終わりの始まりへ――』






 

 ”その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place)”

      赤の女王――ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』より





 ΦOLKLORE:最終話 20 ”オカルトマニアのぼくっ娘と陰キャオタクな先輩のラブコメホラー ΦOLKLORE”

 

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