19,9 忘却の海 Undine・終
地下の古井戸”忘却の海”から出現した”古き神”は、不純物の入った尻子玉を取り込んだことで不完全な姿で復活した。
腐り落ちた内蔵がボトボトと地面を
もはや神の姿などではない、翼の折れた人魚の化け物でしかなかった。
「不完全なあの姿なら”Φスティグマ”で殺せるかもしれねぇ」
黒咲は思い出す。
暴走したアイをこの手で殺したときのことを。
手のひらから”死の呪い”を流し込んでアイを破滅に追い込んだ。
神が完全ならばそんな力は通じなかったかもしれないが、今の姿ならば……。
そう考えているうちに、人魚の化け物の身体から触手が飛び出した。
「なにっ――!?」
反応したときにはすでに遅かった。大量の触手で黒咲の胴体が縛り上げられる。
足が地面につかず、宙に浮く黒咲の身体。
ギリギリと胴を締め上げられ、内臓が圧迫され胃液が逆流する。
「ぐあっ……ぐ、う……タ、タダでやられる気は……ねぇ、か。だがな……!」
黒咲は手で怪物の触手を握りしめる。
「捉えた……オレも、攻撃手段を得たってこった……! ”Φスティグマ”……”死の呪い”をテメーに流し込む……!」
これでうまくいけばアイと同じように自壊するはず。
だが、触手に触れた”Φスティグマ”を通じて怪物の思念波も逆流してくる。
ビキビキと頭が割れるような痛みに襲われる――精神汚染だ。
「ぐっ、ああああああああああああああぁ!!!」
先ほども感じた古井戸に投げ込まれた少女たちの痛み、苦しみのイメージ。
そして宇宙誕生から星の滅びまで、宇宙を彷徨う神の途方もないイメージ。
常人では脳が融解するほどの情報量を流し込まれ、黒咲の目と耳と鼻と口、あらゆる穴という穴から血が流れ出た。
「が、ああ、あああああああぁ! く、そぉ……! こ、ここまでかよ……!!」
ダメだ。
意識を保っていられない。
黒咲の脳と内臓のあらゆる血管が引きちぎれ、生命そのものが吹き飛ぶ――その寸前だった。
『――パパ』
「……?」
『パパ、ママ、どこ……どこにいるの……さびしいよ』
「なんだ、この声……アイに似てる」
膨大すぎる情報量に全身を、精神までズタズタに切り裂かれた黒咲が最後に感じたのは、アイに似た声だった。
だがアイとは違う。もっと幼くて、不安げで、何かを探し彷徨う声だ。
『ひとりは、イヤ』
「そうか、そういうことか……」
『カゾクがほしい』
今わかった。
童咋の当主はこう言った。
「貴様が手にかけた”ウンディーネ”の死骸を回収し、再利用させてもらった」と。
だが目の前にいる出来損ないの神の”
今聴こえる少女の声は、アイには似て非なるモノ。
アイの死骸から回収され、再利用された別個体の”ウンディーネ”――すなわち、それは。
『次のユメ……もうあるんだ……ワタシね、家族が欲しいの。ケッコンして……赤ちゃんを産んで……育てたいよ。好きなヒトと一緒に』
かつてアイが語った”
その夜、アイは黒咲を誘惑し、身体を重ねた。
それが夢のできごとか、現実にあったことなのかは最後までわからなかったが。
そうだ、この”ウンディーネ”の正体は――。
「オレとアイの――娘か」
『パパ、ママ……どこ、どこなの……』
「アイと同じ
『ひとりはこわいよ』
「大丈夫だ、オレはここにいる。ひとりにはさせねぇよ」
黒咲は死にゆく肉体を最後の精神力で動かす。
両手のひらをあわせて、力を込めた。
まるで、神に祈るように。
黒咲の全身が輝き始める。
「”Φスティグマ”――”
両手のひらに刻まれた2つの「Φ」の刻印をぴったりと触れ合わせて発動する最後の力。
片手から放出されたエネルギーがもう片手によって吸収増幅され、増幅されたエネルギーは腕を通って再び手のひらから放出される。
円環を描く両腕が無尽蔵にエネルギーを循環させ、増幅を繰り返してゆく。
まるでスピーカーから放出される音波をマイクが拾うことでハウリングを起こすように。
爆発的に自己増幅された魂の光は、彼自身の肉体を内側から食い破って放出された。
自らの魂を燃やし尽くして放つ最後の力”心蝕血界”。
それを使用することは、黒咲という人間の肉体的な死を意味していた。
彼の放った光は人魚の怪物さえも飲み込んで、拡がってゆく。
そして――。
光の中。
黒咲の視界には、1人の少女が映っていた。
「アイ……?」
いいや、違う。すぐに分かった。
アイが産み落としたウンディーネの少女。
白いワンピースを着た、アイをさらに幼くしたような少女はうずくまって泣いていた。
『こわいよ、さびしいよ。パパ、ママ、どこなの……』
黒咲はゆっくりと少女に近づいて。
何も言わずに抱きしめた。
『……パパ?』
「ごめんな、遅くなった」
『パパ……やっとみつけた』
少女もぎゅっと力をこめて、黒咲の身体を抱きしめてくる。
ああ。
これがずっと欲しかった。
アイも、この少女も、そして黒咲自身も。
家族。
ずっと欲しかったものが……ここにあったんだ。
「もう離さない。ずっと一緒だ」
『うん……もう、さびしくないよ』
光が強まってゆく。
2つの影は1つになって。
やがて――光の中に消えていった。
☆ ☆ ☆
「奥で何が起こったんでしょうか」
地下空間の入口近くで、小山先生と共に待機していたぼくと先輩。
黒咲さんを送り出した後、水槽に封じられていた女の子に羽が生えて奥の方に飛んでいったのが見えた。
その後は遠目に何か巨大なものがうごめいていたのはわかったけど。やがて強い光と轟音に包まれて、静かになった。
「わからない、決着がついたのか?」
「ぼく、見てきましょうか」
「やめとけ、今更足手まといになるだけだ」
先走るのを先輩に止められたところで、奥から何かが走ってくる。
それは河童たちだった。
カナタくん、サユちゃんのお母さん、そして修験者のような格好の男性……この人はサユちゃんのお父さんなのかな。
三人とも気絶していた状態で運び出されているみたいだった。
ぼくたちには目もくれず、すたこらさっさと地下空間の出口を目指して石段を上がってゆく。
「ど、どうなってるんでしょう。黒咲さんは……?」
「童咋夫妻が両方運び出されたとなると、あの河童は黒咲が操っているように思えるが」
「ぼくもそう思います。いったい何が――!?」
奥を観察していたぼくたちの目に飛び込んできたのは、恐ろしい光景だった。
地下空間の奥から大量の”赤黒い液体”が流れてきたんだ。
どろどろと粘度をもった血のようなその液体は、ぽこぽこと泡立って――その一つ一つに何か苦痛や怨嗟をまとった人の表情が見て取れた。
直感的にわかった。これは忘却の海に満たされた人間の魂が液状化して流れ出したモノだと。
”古き神”とやらの復活は失敗したんだ。
「な、何かわからないがヤバい予感がするぜ。さっきの河童と同じく逃げたほうが良さそうだ」
「同感です、先輩!」
一度魂を抜き出された影響でまともに動けない小山先生を2人で抱えて、地下空間の出口に向かう。
石段をゆっくりと登ってゆく。
後ろを振り返ると、地下空間の床は”赤黒い液体”で満たされ始めていた。
地下に残った河童たちが液体に触れると、なんと苦しみもがいて溺れ始める。
そのまま身体が溶けて、液体に取り込まれてしまったのだった。
「う、うそ……! あんな先輩あれ見ましたか、早く逃げないと溶かされちゃいますよ!」
「わかってる、走るぞ!」
小山先生を抱え、2人で走った。
先生には失礼だし、スタイルいいからたぶんそこまで体重が重いワケじゃないんだろうけど。力が入らない人の身体を持ち上げるってすごく力がいる。
ゆっくりとせり上がる”赤黒い液体”を引き離すことができず、もたもたと石段を登るしかなかった。
「せせせ、先輩、このままじゃ追いつかれます!」
「落ち着け、液体がせり上がるスピードと俺達が登るスピードは拮抗している。足を踏み外したりしなければ追いつかれることはない」
「……そ、そうですね」
先輩の言葉で冷静になる。
そうだ、足を踏み外せば終わりの状況。焦ったらダメだ。
今は一人じゃなくて、小山先生の命も預かってるんだから。
そのまま石段を登る。
永遠に続くかのように思えた外への道もついに終わりがきて、光が見えてきた。
地下空間の入口になっていた祠から外に出る。
かなり体力を使ってしまい、小山先生を地面に放りだしてぼくも座り込んでしまった。
「はぁ、はぁ……せ、先輩。やりました、脱出できましたよ……」
「ああ、そうだな」
「……先輩?」
先輩はといえば、まだ祠の中……つまり地下空間の出口にいた。
顎に手を上げて何か考え事をしているようだった。
「どうしたんですか、早く脱出してください!」
「いや、この地下空間を出たところであの液体が祠から溢れ出ない保証はない……」
「そうかもしれませんけど! さっさとボートで脱出すればいいんですよ!」
「井戸の蓋が開いてこうなったのだとすれば、どこかで蓋をしなければこの現象はとまらない……」
ブツブツと思考を巡らせる先輩。
そうこうしているうちに、彼のすぐ下まで”赤黒い液体”が迫っていた。
「先輩、早く出てきてください!」
「……いや、ダメだ」
先輩は出口の内側にあったハンドルを回し始めた。
徐々に祠の下にある石の板が動いて、地下の入口が閉じ始める。
「な、なにやってるんですか!」
「この出入り口は内側からハンドルで閉じる仕組みになっている」
「だからって先輩がやることないです! それに入るときは外から自動で開いたじゃないですか! 閉じる方法だってありますよ!」
「たしかにな、だが黒咲がいない今、閉じる方法を推理している時間も方法もない。ならば……俺が閉じるしかない」
先輩はハンドルを回し続ける。
だけど、それって……内側からハンドルを回して出入り口を閉じるってことは。
先輩が中から出られないってコト……?
「そんなのだめです!」
「来るな!」
再び地下に入ろうとすると、先輩に思いっきり突き飛ばされた。
既に小山先生を運んだ影響で足腰が震えるほど疲労していた。
全身が痛くて簡単には立ち上がれそうにない。
「お前は小山先生を連れて逃げろ」
「先輩は……先輩はどうするんですか」
「……」
「そ、そうですよね。先輩のことだから、きっと別の脱出手段があるんですよね! ぼくじゃ思いつかないようなすごい逆転の手立てが――」
「……」
先輩は答えなかった。
ただ一言、
「……俺のことは、忘れてくれ」
とだけ言い残して。
ハンドルを回しきった先輩の姿は、閉じた祠の中に消えた。
「え……?」
こんな、あっさり?
「じょ、じょうだん……ですよね?」
ぼくは祠の中の時計を動かす。
入ったときと同じ操作をして、なんとかして開けようとする。
だけどビクともしない。もう地下への出入り口は完全に閉ざされていた。
「……せん、ぱい?」
☆ ☆ ☆
こうして”童咋沼の河童”事件は幕を閉じた。
童咋夫妻とカナタくんを運び出した河童たちは、いつのまにか姿を消していた。
ぼくはその三人に小山先生を加えた、四人を気絶したままボートに乗せて”中ノ島”を脱出したのだった。
黒咲さんがどうなったのかはわからない。
地下の井戸がきちんと閉じたのか、”古き神”はどうなったのか。
”中ノ島”の祠が再び開かなくなってしまった今では、知りようがない。
けれど確実に言えるのは――。
その夜――世界は終わらなかった。
ぼくたちは無事、次の朝を迎えることができたのだった。
その後の童咋町については、カナタくんからメールで教えてもらった。
井戸から持ち帰ったサユちゃんの”尻子玉”は、童咋家の当主がちゃんと本人の身体に戻したらしい。
河童の姿から今では可愛らしい女の子の姿に戻って、元気に学校に通えるようになったようだった。
河童がいなくなったことでカナタくんは男装する必要がなくなって、女の子として学校に通うことになったらしい。なぜか男子にも女子にもやたらモテるようになって、サユちゃんにガードされる毎日を平和に送っているとのことだった。
サユちゃんのお母さんについては……魂が抜けてしまったまま、もどってこないようだった。
幸い、河童にはならずに人の姿のままだけど、言葉を発することもなく、椅子に座って無気力に空を眺める毎日が続いている。
そんな奥さんを支えているのは、今まで”計画”に人生を捧げてきた夫……童咋家当主らしい。彼は今では学校に通う娘の面倒を見ながら、動けなくなった奥さんの世話を献身的に続けている。
それが彼の贖罪なのか。それとも家族の大切さに気づいたからなのかは誰にもわからないけど……。
サユちゃんのお母さんが魂を抜かれても河童にならないのは、”古き神”が死んで童咋町と”おびくにさま”との契約がなくなったからじゃないかとカナタくんは推測していた。ぼくも同意見だ。
メールの最後には、カナタくんとサユちゃんのラブラブなツーショット写真が添付されていた。
「ふふっ」
微笑ましい2人の様子に、思わずぼくも笑みがこぼれる。
「あら、良いことでも合ったのかしら?」
小山先生がぼくの前に紅茶を置いてくれる。
「いただきます」とぼくは一口啜った。
「カナタくんたち、うまくいってるみたいです」
「良かったわね。あの街
「はい」
「私も……過去のことは振り切って、前を向いて生きることにしたわ。あの地下に入って、もしかしたら夢や幻かもしれないけれど、あの子に会えた気がするから。もう後ろを向くのはやめようって、励まされた気がしたの」
小山先生もまた、童咋町の人々と同じように前を向いていた。
変わろうとしていたんだ。
「あの、小山先生。黒咲さんとは、その後……」
「連絡は来ていないわね。でも、あの人はいつもそうだから。いずれひょっこり顔を出すわよ」
「そう、ですか……」
黒咲さんは行方不明だ。
童咋夫妻もカナタくんも、”古き神”と彼の戦いを見届けることはできなかった。
けど、確かにひょうひょうとした彼のことだから。
いつか唐突に現れたりする姿は簡単に想像できた。
「……あの、先生」
ぼくはおずおずと切り出す。
「先輩のことは――」
「――比良坂さん。以前も言っていたけれど、私もカナタくんたちも……その”先輩”という人のことを知らないのよ。比良坂さんはその人のことを心配しているようだけれど、もう何度も確認したことじゃない」
「……はい」
「比良坂さんも、童咋沼で大変な思いをしたから……きっと、心が疲れてしまったのよ。それで心を守るために、自分自身を守ってくれる人を想像の中で作り上げてしまった……そう、なんじゃないかしら。きっと時間が解決してくれるわ」
そうだ。
先生に聞いてももう無駄だって、わかってるのに。
祠を閉じるために中に残ってハンドルを残した先輩。
ぼくらが脱出に成功した後は――誰も先輩のことを覚えていなかった。
いろいろと調べてまわったけれど、記憶だけじゃなかった。彼がいた痕跡も記録もすべて消えていた。
童咋沼の人々だけじゃなくて、学校や喫茶店、先輩の行動範囲を当たってみても無駄だった。
先輩という学生が存在していたことを示す証拠は、どこにも残っていない。
残るは、ぼく自身の記憶だけだ。
記憶という不確かで曖昧なモノだけが、彼の存在を保証していた。
いや……保証になんて、なるのだろうか?
「さて、私ももう行くわ。仕事に戻らなきゃ」
「あ、はい。先生ありがとうございました。紅茶、ごちそうさまです」
「いいのよ。童咋町から戻ってから比良坂さん、ずっと難しい顔してるから。ちょっとは息抜きになればいいと思って」
「話せて楽しかったです」
「私もよ、じゃあまた」
先生はそう言って、図書準備室から出ていった。
二人がけのソファに座って、一人の放課後を無為に過ごす。
新しい調査依頼のメールは、既に何件も届いていた。
だけど手につける気になれなかった。
「この部屋……こんなに広かったっけ」
いつもここで、彼と一緒にいろんな謎を追いかけてきた。
時にはひどい目にあったり、時には謎が謎のまま終わったり。
怖い目にあったり、恥ずかしい目にあったり。
全部がうまくいったワケじゃなくて、というかたぶん、うまくいかないことのほうが多かったりして。
つまずいて、そのたびに立ち上がって。
傷ついて、それでも前を向いて。
そうやって一緒にやってきたんだ。
「あ、れ……?」
いつの間にか、頬をとめどなく流れる涙に気づいた。
「あ、あはは。なんでだろ、とまんないや」
みんなが彼のことを忘れていて。
彼の話をするたびに想像上の存在だとか言われて。
この世界で自分だけが彼のことを覚えていて。
そのうち、本当は彼が実在しなかったんじゃないかって気になってしまって……。
ぼくが勝手に作り出した幻想なんじゃないかって考えはじめて……。
「ねぇ先輩……先輩がいなきゃ、ぼく……もう、前に進めない。どこにも行けないよ」
空っぽの部屋の中で、一人。
ぼくは、泣いた。
ΦOLKLORE: 19 “忘却の海 Undine” END.
次回、最終章後編。
ΦOLKLORE: 20 “オカルトマニアのぼくっ娘と陰キャオタクな先輩のラブコメホラー ΦOLKLORE” へ続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます