19,8 忘却の海 Undine


 尻子玉として抜かれた魂を身体に戻すことに成功した。

 小山鏡花は意識を取り戻した……のだが。


「こりゃ鏡花ちゃんは動ける状態じゃねえな」


 強引に魂を抜かれ、再び強引に押し込まれたのだ。

 肉体と精神がマッチせず、身体が満足にうごかないらしい。


「ごめんなさい、黒咲さん……足手まといになってしまって」

「いいさ、ここで休んでな。鏡花ちゃんのおかげで童咋の奥さんがオレたちの話を聞いてくれた。それでじゅうぶんだ。あとはオレにまかせときな」


 黒咲は不安げな鏡花に笑いかけた。


「小山先生はぼくがておきます。この状況じゃ……ぼくは役に立ちそうにありませんから」

「頼む、比良坂の嬢ちゃん。眼鏡クンも二人を守ってやってくれよ」

「ああ」


 比良坂の娘と”先輩”は鏡花と共に置いていく。

 この先はさらに危険だ。一般人は踏み込みすぎないほうがいい。


「これでいい」


 黒咲は歩みを進めた。


「待てよ、オレはついてくぞ!」

「黒咲、あなたが尻子玉を肉体に戻せるのはこの目で確認しました。”忘却の海”からサユの魂を取り出し、元の身体に戻す……約束は守ってもらうわよ」


 その後ろをカナタが、そして童咋の奥方がついていく。

 地下空間の奥では童咋家の当主が儀式を行っている。

 残る目的は儀式の阻止と、”忘却の海”からサユの魂を取り出すこと。

 サユの魂さえ取り出してしまえば、必要な魂の数が足りなくなり”古き神”は復活できなくなる。

 黒咲、カナタ、奥方。三人の目的が一致した。


「なあ、奥さん」

「何かしら」


 移動中、黒咲が奥方に問いかける。


「あの水槽にいた”ウンディーネ”は……この地下空間に最初からいた個体か?」

「……いいえ。あなたの言う通り、この地下空間には古来より一体の”ウンディーネ”が存在した……はず、なのだけれど。はるか昔に童咋の人々が食べてしまったわ」

「やはり言い伝えの”人魚”の正体は”ウンディーネ”だったか。なるほど、この場所の個体は既に人間たちに喰われ、河童と化す”呪い”として残された……なら、新しいあの”ウンディーネ”はどこから手に入れた?」

「あの個体の出どころについては私も詳しくは知らない。けれどこれだけは言える。あの個体は、夫が当主となってから手に入れたものよ」

「……ここ十数年程度に手に入れた個体ってことか」


 なるほど。

 黒咲は疑惑を徐々に確信に近づけていた。

 あの水槽に入っていた”ウンディーネ”は……アイなんじゃないのかって。

 童咋沼の事件を知って”ファウンダリ”から派遣されてから、ずっと感じていた。

 この沼にはなにかがある。街に入った瞬間から感じていた。手のひらからビリビリと伝わってくる思念波は、アイのものと酷似してるのだ。

 だがアイそのものではない。似ているのに、どこか違う。


(どうなっているんだ……?)


 思案にふける黒咲を脇に、今度は奥方がカナタに話しかけた。


「カナタくん、サユを助けたいと言ったわね。今でもその気持ちは変わらない?」

「ああ! おばさんだってそうだろ、サユちゃんの魂を取り戻す!」

「あなたは河童になったサユをみたはずよ。あの醜い姿が私たち童咋の一族の本当の姿……もしも黒咲が尻子玉を身体に戻しても、あの醜い姿のまま元に戻らなかったとしたら……カナタくんは、どうする?」

「かまわねーよ、サユちゃんがどんな姿だろうと。サユちゃんはサユちゃんだ」


 迷いのない瞳。

 若さからくる真っ直ぐな気持ち。


「そう、いい友達を持ったのね……サユ」


 奥方は目を伏せ、頷いた。




   ☆   ☆   ☆




 巨大な地下空間の最奥にたどり着いた。

 そこには石で作られた井戸があり、その蓋の上には1人の男が座っている。

 修験者のような法衣を身に着けた男は静かに目を閉じ、何かを念じていた。


「あの場所に龍脈が集中している……龍穴に集まったエネルギーを術式に利用しているのか」


 黒咲にもひと目でわかった。

 井戸の上に座るその男こそが童咋家当主その人だと。


「よぉ、童咋家の当主サマよ。オレは――」

「――ファウンダリの黒咲、だな」

「ご存知だったワケかい」

「無論、我らは長きにわたって貴様を追ってきた。貴様が組織から”ウンディーネ”を連れ出し、私的に利用していたその時も……我らは貴様を監視していた」

「何……?」

「貴様が手にかけた”ウンディーネ”の死骸を回収し、再利用させてもらった。貴様には感謝しているよ、黒咲」

「やっぱりかよ……ってことはさっきの水槽の中身は”アイ”ってワケかい」

「……いいや、違うな。まだ理解していないのか、自らの最大の罪を」

「何……オレの、最大の罪だと……?」


 目を閉じたまま黒咲との問答を続ける童咋家当主。

 彼の声色には落ち着きが合った。

 この場に黒咲が訪れること、そして――。


「やはり裏切ったか、サエ」

「っ……ごめんなさい、あなた」


 童咋サエこと奥方の心変わりにも、一切の動揺を見せていない。


「サエ、貴様は母としての自らを最後まで捨てられなかった。やはり”人柱”の資格を持ちながら、いたずらに失った愚かな女だ。”古き神”の恩恵に預かることなどできはしない」

「うっ……」

「おいおじさん、そんな言い方ねーだろ!」

「いいのよ」


 カナタが反論しようとするが、奥方が制止する。


「私が愚かだったのは事実よ。何が大切なのかわからないまま、ここまで夫に逆らわず、従い続けてきた……けれど、サユだけは……私の娘だけは……。あなた、もうやめましょう! 人が神を従えるなど……傲慢だったのよ、こんなこと。私たちにはサユがいるだけでよかった……本当に大切なのは……」

「くだらん」


 奥方の説得を、当主は一言で切って捨てた。


「貴様の生まれ持った利用価値は”人柱”となることだった。くだらぬ理由で純潔を失った後は、娘を生み新たな”人柱”を育てることだった。まさかその責任すらも放棄するとはな。やはり無価値。愚か……救われる価値のない女よ。もうよい、計画は我のみで完遂する。崇高なる神の契約を果たすのは……我の功績だ」

「わ、私は確かに無価値な女かもしれないわ。でもサユは違う。あなたにとっても大切な娘だったはず!」

「ならば教えてやろう。サエ、貴様が河童を使って別の”人柱”を探しているうちに、サユ自身が我のもとに現れたのだ。自ら魂を神に差し出すためにな。サユの尻子玉を抜き取ったのは、父親たる我自身なのだ。我も、サユも、愚かな貴様とは覚悟が違うのだ」

「そん、な……う、うぅ……」


 涙とともに崩れ落ちる奥方。

 黒咲はその姿に何か察するものがあった。この女性は、母としての感情と、童咋の妻としての宿命との間でずっと揺れ動いていたのだろう。

 なにが大切なのか、ずっとわからないまま。

 今、娘が尻子玉を抜かれ世界が終わるというこのときになってやっと悟ったのだろう。

 本当に大切なものが、なんなのか。


(やっぱり、無くしてから気づくんだな。何が大切なのかってのは)


 童咋の当主は神との古き契約を果たそうとしている。

 誰を犠牲にしようとも、そのために人生を捧げてきた。

 彼から感じる思念波には、そういう意思の強さが込められている。

 そういう強さもある。

 もはや善悪は重要ではない。

 絶対的に正しい価値観など、この世に存在しないのだから。


「わかったぜ、当主サマ。あんたは退かねえんだよな、人生懸けて叶えようとした神様との契約……あんたの代で終わらせようってんだよな。今更善悪を語る次元の戦いじゃねぇってのはわかってる。オレら人間の理屈からみりゃあ、人間を犠牲にする計画なんて許せねェがよ。神サマからみれば、そいつの計画を邪魔するオレらが悪モノってわけだ。だったら後は――」

「どちらが強いか――決着をつけよう、黒咲」

「そうこなくっちゃな、男同士ってのは……話が早い!!」


 黒咲と童咋家当主との戦いが始まった。

 まずは黒咲が走り出す。


(当主は目を閉じている。やはりオレの能力は対策済みかよ……だがな!)


 ”Φスティグマ”は人の意識に介入できる。

 触れることができれば勝ちだ。目を閉じているならば接近するのみ。

 しかし――。


「っ――!?」


 巨大な質量が黒咲の鼻先をかすめた。

 直前で反応してかわしたものの、皮膚が裂けて血が吹き出す。


「なんだ……!」


 黒咲と童咋家当主との間に立ちはだかったのは、巨大な金棒を携えた大男だった。

 河童に似た姿をしているが、筋骨隆々な出で立ちは明らかに普通じゃない。


「こいつは……!?」

「”ファウンダリ”に所属していたならば知っているはずだ。こいつは”呪創鬼人グリゴリ”、河童をベースに強化した”鬼”だ」

「くそっ、呪術勝負かと思ったら物理かよ!」

「いかに優れた能力者だろうと、圧倒的暴力の前には無力と知れ」


 金棒を軽々と振り回してくる腕力、およそ人間が張り合えるものではない。

 当主の従える”鬼”の威力に黒咲は徐々に押し返されてゆく。

 この猛攻を前に、手のひらで触れる隙がない。


「ちぃっ、こいつも目を閉じてやがる……”Φスティグマ”が効かねぇ……」


 いや。

 ここで黒咲は気付いた。この鬼が目を閉じていても攻撃できるのはなぜだ?

 がむしゃらに金棒を振り回すわけではなく、明確に黒咲を狙ってきている。


(視覚以外の感覚を使っているのか……? いや、この鬼がそんな器用なタマには見えねぇ。ならば当主サマがコントロールしていると考えるのが自然だが……)


 しかし、当主のほうも目を閉じ、”Φスティグマ”の影響から逃れている。

 黒咲の動きを正確に捉えている理由……。


(探ってみるか……)


 手のひらをで周囲の思念を探る。

 すると、童咋家当主と奥方の間に思念波の流れが薄っすらと感じられた。


(この夫婦、呪術でつながっているようだが……もしや当主サマはこのつながりを利用してるってコトなのか!)


 戦況は不利だ、ならばこのひらめきに賭けるしか無い。

 黒咲は”鬼”に向かって突進する。


「愚かな、最後は無策の特攻・・か」

「いいや、違う――奥さん、目を閉じてな!」


 黒咲は手のひらの”Φスティグマ”を鬼でも当主でもなく、背後の奥方に向けて見せた。

 ”Φスティグマ”の命令により奥方は目を閉じる。

 すると――突進する黒咲を迎撃するはずだった鬼の金棒が空を切った。


「なにっ!?」

「やはりな、当主サマよ、お前さんは奥さんの視界を盗み見てたってワケだな」

「なぜ、それを……!」

「最初からおかしいと思ってたんだ、お前さんは奥さんが裏切ったことを即座に見抜いていた。お前さんは奥さんとの呪術的つながりを通じて、彼女の五感から情報を得ていたってこった! とんだ束縛夫でどんびきしちまうよなぁ!」


 敵を見失った巨大河童の股下をスライディングで滑り抜ける。

 次の瞬間には、奥方からの情報を失い、目を見開かざるを得なくなった当主の目の前に――すでに黒咲が立っていた。

 ”Φスティグマ”の射程圏内だった。視覚からも、触覚からも、当主の意識に黒咲が介入できる戦況。

 勝敗は決した。


「……我を、殺すか」

「殺さねェよ。ただ、くだらねぇ野望は心の中から消去してやるがな」

「ひと思いに、殺せ。我はこの儀式のために生まれ、生きてきた。永きに渡る童咋家の悲願、それを我の代で結実させるという栄誉を……失うくらいならば」

「うるせぇ、殺すとか殺さないとか、もうたくさんなんだよ。お前さんには美人の奥さんがいるじゃねえか。可愛い娘だって……失うものは全部じゃねえ、家族がいる。オレとは違うだろ」

「妻、娘、全ては計画のために利用していただけだ。愛情などない。我にとって家族とは、生まれたときから定められ、終わりも定められた役割でしかない。今更――」

「あーはいはい、家族愛がどうこう説教する気はねぇよ。生きる目標なんて他人に与えられるもんじゃねえ、失ってからその後は――自分で考えろ」


 黒咲は童咋家当主の額に触れる。

 すぐに彼の身体から力が抜け、井戸の蓋から崩れ落ちた。


「や、やっちまったのか?」


 小走りでおいついてきたカナタが聞く、


「いいや、こいつは罪を犯したが……オレは裁く立場にないからよ。野望だけは頭の中から消し去ったが、それだけだ」

「でもおじさん、悪いヤツなんだろ……?」

「かもな。だが、それを言ったらオレなんて三万人殺しちまった大悪人だ」

「さ、さんまん……!?」

「この男だっていっそ裁いてもらったほうが気が楽かもしれねぇが、それじゃ生ぬるい……生きている間ずっと、死んでからも……走り続けるしかねぇんだ。始めちまった責任をとるために、な」


 当主によるコントロールを失った”鬼”も動きを止めていた。

 戦いは終わった。

 あとは、復活する”古き神”をなんとかするだけだが……。


「黒咲、あなたの能力で”ウンディーネ”を殺せないの?」

「可能だ。っていうか、やったことがある、が……問題はこの井戸だ」


 黒咲の目の前にある石の井戸。

 蓋は閉じているが、その中からすでに巨大な力を感じる。

 かつてアイに感じた力とは比べ物にならない、何千、何万もの魂を集めた力だ。


「おそらく今の段階であの”ウンディーネ”に危害を加えれば、身を守るためにこの中の魂を吸収して神になるだろう。ここまで大量の魂の器になったら……街一つどころじゃねえ、簡単に世界を滅ぼすほどの存在になっちまう。そうなれば、オレでもとめられない」


 そもそも、アイを止められたのはアイにとって黒咲が特別だったからだ。

 もしも今回の”ウンディーネ”が無差別に人間を溶かし始めてしまえば、黒咲程度の力では一瞬で無抵抗のまま消滅させられてしまうだろう。

 だから手順が重要だった。魂が満杯になった”忘却の海”の方をなんとかしなければならない。


「一か八か、やってみるか。蓋を開けて、中に手を突っ込んで……サユちゃんの尻子玉を取り出す。”Φスティグマ”なら不可能じゃあないはずだ」

「無理よ」


 黒咲の無謀な提案を奥方は即座に否定した。


「すでに満たされた”忘却の海”から尻子玉を取り出すことはできない。一つの魂につき一つ、かわり・・・を捧げなければ、古き神の許しを得られないわ」

「かわり、か……」

「オレがかわりになる!」


 黒咲と奥方の前に、カナタが力強く名乗り出た。


「おいおいおいボウズ、威勢はいいがお前さんじゃ無理だ。”人柱”の条件は童咋の血を引く女子だろう?」

「……秘密にしろってカーチャンにキツく言われてたけど」


 カナタがとんでもないことを口にする。



「オレ、女だし」



「は? ウソだろ!?」

「う、ウソじゃねーぞ! 頑張って髪切ってサラシ巻いたりしてんだからな!」

「いや、しかし……どうして男の格好を……」


 そう言われて改めてカナタの姿を見ると、確かに線が細くて中性的な美形。

 というか、女性という秘密を明かされてから見れば男装した女子にしか見えなかった。

 思い込みとは恐ろしいものだ、声変わり前の高い声もなんてことはない、最初から女子の声だったのだ。

 カナタの説明はこうだった。


「オレんちの風習でさ、若い女は”河童”に連れさられるからって、成人するまで男の格好をして過ごすんだよ。まさか河童が本当にいるとは思ってなかったし、ヘンな伝統だと思ってたけど……なぁ、おばさん。おばさんは河童を使ってサユちゃんのかわりの”人柱”を探してたって言ったよな」

「え、ええ。そうよ。見つかる前にサユ自身が夫に魂を差し出したから、結局間に合わなかったけれど」

「たぶんそれ、本当は間に合ってたんだ。オレだったんだよ、おばさんの河童が狙ってたのは。サユちゃんはオレを狙う河童に気づいて、”おびくにさま”に助けを求めたんだ。だけど河童の正体は童咋町の住人そのものだったと気付かされて……逃げ場がなくなって、追い詰められて。サユちゃん言ってたんだ。一緒にこの町を出ようって。それって自分が助かりたいからじゃなくて、本当は……オレを助けたかったんだと思う。だけどオレが断っちまったから、オレのかわり・・・におじさんに魂を差し出したんだと思う……」

「サユが……そこまでして……カナタくんを」


 奥方は絶句した。

 娘の献身。どこまでも他者を思いやる心に。

 母親でさえ気づかなかった、娘の苦悩と孤独な戦いに。


「だから今度はオレがサユちゃんのかわりになる。黒咲のオッサン、あんたならできるんだろ?」

「サユちゃんのかわりに魂が一つ必要だって話が正しければ、”人柱”の資格があるボウズの魂を使えば、あるいは……だがよ」

「いいんだ。サユちゃんが助かるなら」


 「どうして?」奥方はなおも問う。


「どうしてサユのためにそこまでできるの? サユがあなたを助けたからって、あなたがサユと同じことをする必要なんてないのよ?」

「大好きだから」


 カナタは目をそらさず、まっすぐに答えた。


「サユちゃんはオレの一番の親友、理由なんてそれだけでいいだろ」

「……!」

「さあ黒咲のオッサン、やってくれよ!」


 その覚悟を否定することなんかできない。

 たとえ子どもとはいえ、意思はここにいる誰よりも強い。

 黒咲もまたカナタをまっすぐに見据え、


「いいんだな?」

「ああ!」

「わかった、この場所に集まった龍脈のエネルギーを転用すれば、”忘却の海”をある程度制御できるはずだ」


 井戸の蓋に手を触れる。

 童咋家当主は、”古き神”を制御する呪術をここで行っていた。

 その呪力を再利用することで、井戸の中身――尻子玉が溜まった”忘却の海”に干渉できるはず。

 手のひらで黒咲は井戸の中身を探った。

 大量の尻子玉が沈められた井戸の中から彼の手のひらに伝わってくるのは、


 苦痛、

 歓喜、

 高揚、

 咆哮、

 感涙、

 悲劇、

 憤怒、

 

 そして後悔。

 魂に残るあらゆる心残りが黒咲に伝わってくる。


「くっおぉ……! ノイズだらけだ……精神汚染がひでぇぇ!!」


 あまりのサイコショックに黒咲はのけぞった。

 それでもなんとか手を離さず、サユの気配を探り続ける。


「どこだ、童咋サユ!」

『――カナタくん……?』

「っ――そこか!!」


 一瞬だけ感じた声。

 確かにカナタの名前を呼んでいた。


「捕まえたぜ、あとは魂を入れ替える・・・・・・・だけだ。ボウズ、オレのもう片方の手をつかめ!」


 黒咲は井戸に触れた方とは逆の手をカナタに差し出した。

 もう一つの”Φスティグマ”。

 両手に備わった2つの”Φスティグマ”を出入り口にして、2人の魂を入れ替える呪法。

 今しかなかった、龍脈の力が高まった今日というタイミング。

 カナタが黒咲の手をつかめば、完成する――はずだった。


「ダメよ、それはあなたの役目じゃない」


 カナタの腕を掴んで止めたのは、童咋家の奥方だった。


「おばさん、なにや――ぅっ!?」


 彼女はカナタの首筋に呪力を込めた手刀を叩き込み、気絶させたのだった。


「何やってんだよ奥さん! また裏切るってのか!?」

「裏切り、そうね。そうかもしれない。みんなの期待、先祖の約束、夫の野望、娘の愛情……全部裏切ってきたのが私だものね。だからカナタくんの覚悟も裏切ってやることにしたの」

「何をする気だ」

「ウフフ、”人柱”の栄誉を横取りしようというのよ。この私、童咋サエがね!」


 奥方はカナタにさしだされたはずの黒咲の手をつかんだ。

 彼女と”忘却の海”が黒咲の両手を通じて繋がれ、魂が吸い込まれてゆく。


「バカな、お前さんは”人柱”の資格を喪失したんじゃねえか! サユちゃんのかわりになるのは無理だ!」

「いいえ、豪族の血を色濃く引き継いだ女ならば資格はある。”人柱”に純潔であることを求めたのは……復活する神に不純物を混ぜないためよ」

「不純物だと!?」

「フフ、アハハハハハハハハ!!! ご先祖様、いま行きます! あなたのもとへ――」


 そうして奥方の身体は動かなくなった。

 虚ろな瞳で宙を見つめている。

 その手には、一つの尻子玉が握られていた。

 それは奥方のものではない。サユの尻子玉だ。

 黒咲の”Φスティグマ”を伝って井戸の中から取り出すことに成功したのだった。

 反対に、奥方の魂は黒咲の身体を通り道に井戸の中へ……。


「奥さん……最後に全てを裏切ったのか、それとも……」


 最後まで母親であることをやめられなかったのか。

 どちらなのか、もはや確かめようがなかった。

 魂を抜かれた奥方の美しい肉体も、やがて河童になってしまうのだろうか。

 考えているうちに、彼らの周囲に河童が近づいてきた。


「童咋夫妻が従えていた河童たちか、よし」


 黒咲は彼らの目に”Φスティグマ”を見せて命令する。


「河童ども、命令だ。童咋夫妻とカナタを連れてこの地下空間を脱出しろ」


 河童たちは素直に従い、三人を担ぎ上げる。


「おっと、これを忘れちゃいけねえな」


 奥方が手にしていたサユの尻子玉は、カナタのズボンのポケットに入れておいた。

 ちょうどジッパー付きのポケットがある。

 この中なら落とさずに運び出せるだろう。おそらく童咋の当主ならば、一度抜き取った尻子玉を持ち主に戻すことも可能……かもしれない。

 結局はなにもかもが希望的観測でしかないが、それでもうまくいくことを願うしかない。


「たとえ……オレがここから生きて出られなくてもな」


 河童を使い三人を逃がしたあと、黒咲は井戸に向き直った。

 さっきからこの井戸の中から異様な気配がしている。

 すると共鳴するように、背後から別の巨大な気配が接近してきた。

 振り返ると、水槽から抜け出してきたのだろう。

 半透明の少女、”ウンディーネ”が宙に浮いている。

 黒い翼を広げ、黒咲を見下ろしていた。

 その無感情な表情は、アイによく似ているが――やはり違う。


「なあ、お前さんいったい何者なんだ……?」

『……』


 黒咲の問いには答えない。

 ”ウンディーネ”の覚醒に呼応するように、井戸の蓋がガタガタと揺れる。

 「まずい!」黒咲がとっさに抑えようとするが、無駄だった。

 奥方の魂により満たされた”忘却の海”、そして覚醒した器=ウンディーネ。

 必要な素材がここに揃ったのだ。

 ここに神が復活する。


 井戸の蓋が弾け飛び、中から赤黒い液体が漏れ出し始めた。

 ゴポゴポとマグマのように泡を吹き出しながら噴出する液体。

 その泡の一つ一つに人間の顔のような模様が浮かび上がり、悲痛の表情を見せる。


「始まっちまったのか……!?」


 黒い翼の少女がゆっくりと井戸の真上に移動し、下降してゆく。

 黒咲は阻止しようと手を伸ばすが、光の障壁に弾かれた。


「くそ、心の壁が厚い……やっぱりアイじゃねえ! 誰なんだよ、いったい!」


 止められない。

 少女は足の先からゆっくりと井戸の中へ沈んでいった。

 赤黒い井戸水の中に頭まですっぽりと収まったと思ったら、次の瞬間――。


 井戸の中から、明らかに底に収まりきらないほどの巨大なナニカ・・・が手を出し、這い出てきたのだった。

 ズルリ、ズルリと巨体を引きずりながら、バキバキと骨を砕きながら、小さな井戸から這い出してくる怪物。


「人魚の……化け物……!」


 多腕、腹部の顔、魚の尾ひれ、鰓に生え揃った牙。

 そしてボロボロに折れた翼。

 アイが暴走した時に出現したモノとは明らかに違う。

 どこか美しささえ感じられた彼女の姿と違い、これは――。


「こんな醜いバケモンが――神であるはずがねえ」


 その身体はところどころ腐っていて、下腹部からは内臓がボトボトとこぼれ落ちていた。 おそらく、純潔の魂だけではなく童咋の奥方の魂が混じったことで不純物を取り込んでしまい、不完全体として復活したのだろう。

 これならチャンスはある。

 たった1人、黒咲は”古き神”……否――不完全で醜い人魚の化け物に立ち向かうのだった。


「行くぜ、これが最後の戦いだ」

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