19,6 忘却の海 Undine


 そして舞台は現在に戻る。

 童咋家での戦いから一晩が明けて、昼前になろうとしていた。

 黒咲はボート小屋の前で待っていた。


「できれば誰も来ないほうがいいんだが」


 時計を見ながら呟く。

 一般人をまきこむのは本意ではない。

 だが、止めたとしてもあの連中は”中ノ島”へ突っ込むだろう。

 ならば協力したほうがマシだ。

 予測できない第三勢力が出現するよりは、味方VS敵という構図に単純化したほうが戦況が把握しやすい。


「おーい黒咲のオッサン!」


 そう考えているうちに、”味方”が現れた。

 手を振ってこっちに歩いてくるのは旅館の子ども、カナタ。

 そして後ろについてくるのは比良坂の娘に、”先輩”と呼ばれる少年、そして小山鏡花の三人。


「オイオイ全員来たのかよ」

「あたりまえだろ、世界がヤバいんならオレたちも無関係じゃねーし! それにオレは……絶対サユちゃんを助けるんだ」

「……」


 迷いなくそう断言するカナタを見て思った。

 若いな、と。

 若い頃の自分に似ている。大切な女の子のために突っ走るところ。

 それでいて、世界を守ろうという気持ちもあるところ。

 その気持ちが矛盾したときにどうするかなんて、考えてもいないところ。


「とにかく出発だ。全員ボートに乗んな」


 ボートに乗り込んだ一行は中ノ島へと向かった。

 移動の最中、黒咲はカナタに小声で話しかける。


「よう、ボウズ。お前さんに訊いておきたいことがある」

「な、なんだよオッサン」

「ボウズの目的は世界を救うこと、そしてサユちゃんを助けること。そうだよな?」

「あ、ああ。あたりまえだろ、それがどうした?」

「どっちかしか選べないってなったら、ボウズはどうする?」

「……ちゃんと、考えはある」


 意外にも、カナタは迷わなかった。


「オッサン、あんたの能力……”Φスティグマ”とかいったっけ。それを使えば、サユちゃんの”尻子玉”をもとの身体に戻せるのか?」

「おそらくな。”中ノ島”にあるその娘の尻子玉を手に入れたら、オレの手で身体に入れ直せるだろう。”Φスティグマ”は魂に干渉する能力だ。解決法が他人任せってのは気になるが、確かに具体的に考えられているようだ。ガキにしてはヤルじゃねえか」

「……それともう一つ訊くけけど、オッサンの能力なら……人間から尻子玉を抜き出せるか?」

「……可能だ」

「それだけわかりゃいい。中ノ島に上陸したら、あんたについてく。いいな?」

「昨日も言ったが、ボウズを守りきれる保証はねえぞ。っていうか多分ボウズは死ぬ」

「いいさ。サユちゃんを助けられるなら……安いもんだ」





   ☆   ☆   ☆




 ”中ノ島”に上陸した一行。


「い、意外に普通の島ですね。RPGのラスボスのお城みたいなところを想像していました」


 比良坂の娘が言う通り、何の変哲もない島だった。

 だが――黒咲にはわかった。

 手のひらからビリビリと伝わってくる。大量の思念波が。

 この島の地下に、大量の魂が貯蔵されているのを感じる。


「この島のどこかに地下への入口があるはずだ。手分けして探すぞ」


 こういう時、頭数があると便利だ。

 一時的に散り散りになって島じゅうを探すと、すぐに見つかった。


「こっちです、妙なほこらがあります!」


 比良坂の娘の声に皆が集まると、確かに妙な祠があった。

 巨大な石版の上に小さな祠が立っている。

 それだけならば普通の祠なのだが、奇妙なのはその中に収まっているのが”時計”だったことだ。


「時計、か」


 ”先輩”はその様子を見て、顎に手を当てて考える。


「祠の下の石版の横に、何かを引きずったあとがある。この時計は”ダイヤルロック”で、特定の手順で特定の時間に針を合わせることで石版が横にスライドする仕組みになっているようだな。おそらくこの下に地下への階段がある」


 スラスラと推理を披露する”先輩”。

 黒咲は感心して、


「すげェな。まるで”探偵”じゃねえか」

「それだけじゃあない。文字盤に付着した埃をよく見ると、11時11分の位置と6時16分の位置だけ埃が極端に少なくなっている。この2つの位置を最もよく使うのだろう。おそらく、どちらかの時刻からどちらかの時刻に動かすことでロックを解除できるということだ」

「……マジかよ」


 この一瞬でそこまでわかるのか。

 感心を通り越して、少し寒気がする。

 この”先輩”とかいう高校生、まるで”V.S.P.”のような認識力だが、しかし黒咲の”Φスティグマ”には何も反応がない。

 もしもこの少年が特殊な思念波などを発していれば知覚できるはずなのだが、そうではないとすると、一般人なのだろうか……。

 いや、この少年の正体について考えている暇はない。


「だが針をどの順番でどの方向に動かすかまではわからないぞ。試行回数を稼げるならば、時間はかかるが総当たりで解けるだろうが……複数回間違えると何らかのペナルティがあるかもしれない。総当たりはおすすめできないな」


 ”先輩”の言葉に、黒咲が答える。


「いいさ、そこまでわかればお手柄だ眼鏡クン。あとはオレがやる」


 黒咲は祠に手を伸ばし、手のひらで時計に触れた。

 時計に秘められた記憶を探る。

 思い通り、昨晩童咋の奥方がこの祠の時計を操作した記憶を読み取れた。

 針をどの方向に動かすか、その順番まで……。


「よし」


 ”先輩”が暴いた時刻と、黒咲が読み取った針の操作手順を組み合わせ――。

 ――カチリ。

 6時16分に時刻が合った瞬間、何かが噛み合った音がした。

 ズズズ、と石版がゆっくりと動き始める。

 横にズレた石版の下には、地下へと続く階段があった。


「……行くぞ」


 こうして一行は”中ノ島”の地下へと侵入した。




   ☆   ☆   ☆




 石造りの階段を下って地下へ降りる。

 途中で河童が襲ってくるかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。

 かなり長い時間進むと、巨大な空間に出た。

 球状の地下空間。黒咲には見覚えがある。

 かつてアイが水槽に閉じ込められていた、あの「F.A.B.関東支部」の地下と同じだ。

 あそこまで整備されていないが……それでも似ている。


(まさか……)


 地下空間の中心にはやはり水槽が置かれていた。

 その中には……。


「女の子……?」


 真っ先に呟いたのは比良坂の娘だった。

 

「比良坂の嬢ちゃん、お前さんにはアレが女の子に視えるのかい?」

「はい……半透明の女の子です。黒咲さんもですよね」

「ああ。だが……他の連中は違うようだな」


 黒咲が振り返ると、比良坂の娘以外の反応は違った。

 カナタは「な、なんだよあれ……人魚の化け物か……?」と身体を震わせている。

 鏡花はといえば、目を細めて困惑していた。


「黒咲さん、あの水槽の中に何があるのかしら……私には、ぼんやりとした影にしか見えない」

「俺も先生と同じだ。あんたたちに何が見えているのかわからない」


 ”先輩”も鏡花の言葉に同調した。

 二人は波長が全く合っていないのだろう。実体として認識できていないらしい。


「人によって視え方が違う……地下空間の水槽……同じだ。やはりコイツは――」




「”ウンディーネ”――黒咲、あなたはよく知っているでしょう?」




 地下空間の奥からゆったりと歩いて姿を現したのは、着物姿の美女。

 声の主は童咋どうがみの奥方だった。


「現れたか……話が早いこって」

「これはこれは、皆さんお揃いで。役立たずが雁首揃えて世界でも救おうって? おいたわしいことね」


 奥方はホホホ、と高笑いをする。


「言ったはずよね、すでに尻子玉の数は満たされている。さらに”依代よりしろもここにある。見ての通りね。材料はすでに揃い、タイミングだけれど――もう、遅いわよ」

「何……」

「阻止されるかもしれないのに計画をバカ正直に話すと思う? すでに夫はこの奥の井戸で儀式を始めている。夫の呪力が最大限高まるのは新月の夜だけれど、それは”保険”にすぎないのよ。材料と器が揃った時点で、”古き神”の復活は確定している。残念だったわね、世界を救えるかもしれないと喜び勇んで、矮小な英雄願望を満たそうとしていたあなたたちの冒険も……ここで終わりよ」

「だったら奥さん、お前さんがオレたちの前に現れた理由は何だ? 計画は完遂しているというのなら、オレたちの足止めなんてする必要はないだろ?」

「余裕があるから暇つぶしよ。あなたたちの希望を全て叩き潰して……絶望に変えてあげようと思ってね」


 童咋の奥方は着物の袖で顔を隠しながらクスクスと笑った。


(くそ……視線を切ってやがる。”Φスティグマ”対策ってワケか)


 手のひらで触れなくとも能力を発動できるようになったΦスティグマだが、単に思念波を手から飛ばすだけでは他者への影響は限りなく小さい。

 「体感時間を止める」などの強力な能力は、せめて手のひらの「Φ」の刻印を相手の目に見せなければならない。

 昨日の戦いで能力の性質を見抜かれたのだろう。


(コイツは厄介だな……)


「それだけではないわよ。あなたたちは徹底的に追い詰める」


 背中からゾロリ、ゾロリと何かが引きずられる音がした。

 振り返ると、先程まで五人が降りてきた石段から、大量の河童が押し寄せてきていた。

 背後をとった河童たちがいっせいに五人を取り囲む。


「”王手チェック”よ、おバカさんたち」


 河童たちは統率された動きで一人ひとりの背後をとり、黒咲への視線を切っていた。

 やはり”Φスティグマ”対策は万全と言ったところだ。


「ウフフ、身動き一つ取れないわよね。どう? このまま尻子玉を抜き取ってもいいけれど、泣いて赦しを乞うならば夜まで待ってもいいわよ?」


 だめだ。自分の能力では打開できない。

 黒咲が諦めかけたそのときだった。


「盛り上がっているところ悪いが、あんたの言っていることはおかしいぜ」


 絶体絶命の状況でも全く動揺せず、冷静に口を開いたのは”先輩”だった。


「何かしら……?」

「既に”尻子玉”と”依代”が揃い、”古き神”の復活とやらが確定しているならば、あんたの夫が怪しげな儀式とやらをやる必要もなければ、夜まで復活のタイミングを待つ必要はないハズだ」

「……ええ、そうかもね」

「つまり”新月”と”龍脈”という2つの要素は復活そのものではなく、”儀式”に必要ということだ。そこの黒咲が言ったように、”新月”は人ならざるものの力が弱まり、”龍脈”は術者の力を補助するとするならば……儀式は神ではなくあんたたち夫婦の都合によって行われると推測できる」

「それで……何がいいたいの?」

「あんたたちが”儀式”を行う理由は、”古き神”とやらを制御するためだろう?」


 ”先輩”の指摘に、奥方は顔色を変えた。


「俺は呪いだの神様だのといった怪しげなことは何一つ信じてはいないが、状況を整理するとあんたたち夫婦の意図はそう”推理”できる」

「……っ」

「沈黙は肯定と受け取る。したがって、儀式を妨害されることはあんたたち夫婦にとって不利益になるわけだ」

「私達夫婦……だけではないわよ。全人類にとっての不利益になる」

「何?」

「”古き神”の制御に成功しなければ……夫の儀式が成功しなければ、神は暴走し、現生人類を容赦なく絶滅させるわ。今の人類が救済されるには、私達の力が必要なのよ」


 震える唇で奥方が吐き出した。


「儀式が成功すれば、サユの魂とももう一度会えるわ。あなたたちも大切な人と再会できるのよ。生と死の境界が破壊され、世界全てが”Φの世界”に沈む……悲しみも痛みもない、優しい世界が訪れるのよ」


 なるほど――黒咲には理解できた。

 ”先輩”の推理と奥方の告白で。


 ”古き神”は制御できない。それは黒咲にも痛いほどわかっている。

 過去に人間の魂を取り込み”生命の実”と”知恵の実”と両方揃えたアイは、神に近い姿となって全世界の人間の魂を集め始めた。

 アイもまた、今の世界を終わらせ、新たな世界を始めようとしていた。あの状態こそが、制御できず暴走した神の姿なのだろう。

 今回、童咋夫妻は大量の”尻子玉”=”知恵の実”を依代となる”ウンディーネ”に与えて神に変化させる計画を立てた。

 さらにその神の童咋の当主が儀式によって制御し、新たな世界のあり方を都合の良いように誘導しようとしたのだ。


 そのセカイの姿こそ、生と死の境界が破壊され、死んでしまった大切な人とだって再会できるセカイ。

 確かにそこには悲しみも痛みもない。優しいセカイだ。


「あなたたちにだって少なからずいるでしょう? 大切な人。もう一度会いたい人。もう二度と離れたくない人が。その相手と、永遠に一緒にいられるのよ。魂が一つになれば、もう二度と別れなくていいのよ」


 「カナタくん――」奥方はカナタを見て言った。


「サユが大切なのよね? でもね、あなたが何もしなくてもサユと再会できるのよ? サユの魂は”忘却の海”の中にある。夜になれば、会えるわ」

「あ……」


 カナタは奥方に言い返せなかった。

 既に理解を超えた話だったのかもしれない。

 他の皆も、奥方の話に動揺し、反論できなかった。

 そんな中、


「違います……」


 声を上げたのは、比良坂の娘だった。


「違いますよね、サユちゃんのお母さん」

「何が……違うっていうの」

「この計画が最初から決まっていたものだとしても、サユちゃんを最後の尻子玉にするのは間違いだったんですよね?」

「あなた、まだそんなことを」

「ぼくは……ずっと考えてました。世界が終わるとかどうとか、話が大きすぎて全然実感ないけど。ひっかかってたんです。どうしてあなたはそんな悲しそうな顔でそんな話を続けるんだろうって。やっぱり自分を納得させたいんじゃないかって」

「小娘が……減らず口を」


 鬼の形相で比良坂の娘を睨む童咋の奥方。

 しかし少女は怯まない。


「昨晩先輩と話して、推理していました。世界をどう救うかじゃなくて、サユちゃんのお母さんが何を考えているのか。ずっと……考えていたんです。もしかしたらあなたは……”人柱”になれなかったんじゃないですか?」

「そ、そうよ。言ったはずよね、私は血が薄いから人柱になれなかったって」

「そいつは嘘だな」


 ”先輩”が口を挟んだ。


「童咋家は豪族の末裔。わざわざ血を薄めるような婚姻はしないだろう。あんたは確かに豪族の血を引く娘だったはずだ。つまり”人柱”になれなかった理由は”血が薄いから”ではない」

「くっ……」

「サユちゃんのお母さん、言ってましたよね。外の世界では、少女は無意味に傷つけるだけだって。この童咋町で”人柱”になれば、少女の犠牲には意味が生まれるって。それって……あなた自身のことなんじゃないですか? あなたは本当は”人柱”になる資格を持っていた……だけど、何らかの理由でその資格を失った。たぶんその理由って……童咋町の外で、誰かに……襲われて……」

「……ククッ、アハハ、アハハハハハハハハハハハハ!!!」


 童咋の奥方は目を見開いて大声で叫んだ。


「そうよ、それがどうしたの! 私は! バカな小娘だったわ。”人柱”になる資格があるからってチヤホヤされて育ったけれど、そんな定められた人生バカバカしいって、外の世界に出ていって自由になりたいって願ってた! そんなときね……外の世界から来たある男と出会った。その男は集落のつまらない男とは違う、都会的で、野性的で、刺激的で……魅力的に見えたわ。だからその男に頼んで連れ出してもらった……そう、”幸せの青い鳥”だったのよ、私にとって……その男は」


 奥方の声のトーンがだんだん落ちてゆく。


「よくある話よ。その男は私の身体にだけ興味があって、甘い言葉をかけてくれたのは最初だけ。結局はさんざん弄ばれて、私は捨てられた。ボロボロの身体と心で童咋町に戻った私には……既に”人柱”の資格はなかった。生まれ持って得た価値を自分のワガママで手放してしまった。私に残された価値は、童咋本家に嫁ぎ、新たな”人柱”を生むこと、それだけだった」


 決壊したダムのように、言葉の本流が噴出してゆく。


「でも、それでも……夫と身体を何度重ねても、サユを身ごもっても……思い出すのよ。あの男の手に傷つけられた記憶が……消えない。そして……サユのことも……もしかしたら。そんなハズはないのに……もしかしたら、本当のサユの父親は……もしかしたら……あの男が、本当は……うぅ……」

「だから、あなたはサユちゃんが”人柱”になれたことを過度に誇示してきたんですよね。それがサユちゃんがあなたと旦那さんとの間の子で間違いないことの証明であり……そして、生まれもった価値を生かしたことの証明になると……」

「そうよ、サユは私ができなかった役目を果たすために生まれた子。”人柱”になることがあの子の幸せ、そうなのよ……!」

「本当に、そうですか?」

「何を……」

「最初はそう思っていても、サユちゃんを育てるうちに、母親としてのあなたは……考えが変わったんじゃないですか? サユちゃんを犠牲にしたくないって。わざわざ河童になったサユちゃんを世話していたのは、そういうことですよね……魂だけが重要なら、あんなことする必要ないじゃないですか?」

「……何が、言いたい」

「サユちゃんを”人柱”にしないためには、代わりの人柱を用意する必要がある。おそらくあなたは、河童を使ってこの街から別の”人柱”を襲い尻子玉を抜き取ろうとした。だけどその計画を準備しているうちに……河童をサユちゃんに見られてしまった」

「ハッ、何を根拠にそんな――」


「――サユちゃんが言ってたんだ」


 カナタが証言する。


「河童を見たって。あれは、そういうことだったんだな……」

「カナタくんの証言から、サユちゃんが尻子玉を抜かれる前に河童を目撃しているのは確実です。彼女は両親の計画を知り、悩んで……解決法を先祖である”おびくにさま”にまで聞こうとした。だけど……”おびくにさま”の答えはこうだった『おまえの』。これはおそらく、『河童はおまえの中にいる』という意味でしょう。河童の正体が童咋町の豪族の血筋そのものに潜んでいると知ったサユちゃんは……他人を犠牲にするのではなく、自身が”人柱”になることを選んだんです」


 比良坂の娘の推理が続く。


「自分を犠牲にして”忘却の海”を満たした娘を前にあなたは、サユちゃんの犠牲を正当化せざるを得なかった。でも……本当は娘を助けたいはずです。お願いです、サユちゃんのお母さん! ぼくたちを通してください! 黒咲さんの能力なら、サユちゃんを助けられるかもしれません!」

「嬢ちゃん、気づいていたのか……!」


 驚愕する黒咲を横目に、強い意志で少女は奥方を説得する。


「彼の能力なら”忘却の海”から尻子玉を取り出して、サユちゃんの身体に戻せるかもしれないんです。いまならまだ後戻りできます、だから……!」

「……フフ、フフフフ。無理よ、今更。満たされた”忘却の海”から尻子玉を取り出すことはできない。仮に取り出そうと思ったら、一つの魂につき一つ、代わりの”人柱”を用意しなければならない」

「え……」

「ホント、あなたってイラつくわ。若くてかわいくて、純粋で。理想主義者で……世界がキレイなものでできているって夢見がちなことを恥ずかしげもなく口にする。あまつさえ、私の良心を信じて説得・・ですって? アハハ、アハハハハハ!! 現実はそんなに甘くないのよ、もうやるしかない。計画を完遂するしかないの!」

「まだ可能性は残されています、ぼくたちが協力すれば――!」

「小娘がァ、黙れェ――!」


 奥方が全力で走り出し、比良坂の娘に接近する。


(まずい、間に合わない!)


 黒咲にももはや守りきれない。

 奥方の手のひらが少女の胸元に触れる――その時だった。

 彼女たちの間に割り込んできたのは、少女の最も近くに立っていた小山鏡花だった。

 ガクン、と鏡花の身体が跳ねる。

 奥方の手のひらに、物質化された魂――尻子玉が出現していた。


「そんな……小山先生……どうして……!?」


 庇われた比良坂の娘自身が最も驚愕していた。


「わ、私の、生徒なんだもの……私は先生……守ってみせる……」


 それが鏡花の最期の言葉となった。

 魂を抜かれた抜け殻となった身体は、これ以上動くことはない。

 童咋の血を継いでいないから河童になることもない。

 小山鏡花の肉体は生命反応だけが残った人形に成り果てた。

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