16,4 疵痕 Sign・結
気がつくとぼくは冷たい床の上に倒れていた。
会長は……!
無事だ。ぼくの腕の中で寝息を立てている。気を失っているだけみたいだった。
ここは北校舎三階奥のトイレの中の手洗い場。
元の場所に戻ってきたみたいだ。
会長を抱き上げて車椅子の上になんとか座らせてから、彼女の肩を揺さぶった。
「会長、会長!
「んっ……ここは……」
「手洗い場の、『割れた鏡』の前です。時刻は――」
スマホを取り出し確認する。
深夜0時3分、呪文を唱えてから3分しか経っていなかった。
いや、会長を起こすのに2分ほど使ったから、ぼくが気を失っていた時間はたったの1分程度だったという計算になる。
あの長い出来事が……たったの1分? 愕然とするぼくに、会長はまだゆめうつつといった様子でぼんやりと呟いた。
「夢を……視ていました。とても懐かしくて、悲しくて……嬉しい夢を」
「会長……会長は鏡の中にお祖父さんを見たんですよね。それがあなたの『最も逢いたい想い人』だった。この『割れた鏡』に入ったひび割れは、鏡の前に立った人間の”心の
ぼくは言った。根拠はないけど、そんな気がしたんだ。
同じ呪文を唱えたぼくに何も視えなかったのは、きっとお父さんのことをあの『きさらぎ駅』事件で少しは吹っ切れたということだろう。
東風谷会長にとって、お祖父さんの死はずっと疵痕になって残っていたんだ。
会長は自嘲気味に微笑んで、
「わたくし、いつも強がってみせているようで。まだぜんぜん吹っ切れていなかったのね。せっかくあの人が励ましてくれたのに、ホント……わたくしってば、ダメね」
「そんなことないです!」
ぼくは彼女の自己否定を、さらに強く否定した。
「大切な人を失った心の傷なんて、簡単に吹っ切れるモノじゃないですよ! 簡単には吹っ切れないからこそ、その人のことを心から大好きだったって感じられる……ぼく、会長がお祖父さんのこと今でも引きずってるのを知れて……嬉しかったです」
「嬉しかった? どうして……?」
「だって、それって……会長が、人の心の痛みを知ってる人だってコトだから。痛みを知ったからこそ、こうして今、優しい人になったって知れたから」
「っ……!」
会長はきゅっと唇を閉じて、泣きそうなのをこらえるようにぼくを見る。
「夢の中で、比良坂さん。あなたに呼ばれた気がしました。お祖父様と一緒なら、たとえ夢でもいいって。覚めない夢の中に閉じこもってもかまわないと……そう思った時。気づいたんです。あなたにもう一度逢いたいって。今一番逢いたい相手が、あなたに変わったんです。だからきっと、わたくしはこの世界に帰ってこられた。あなたのいる世界に」
「だから――」彼女はぼくの手をそっと両手で包み込む。
彼女の体温を感じる。たしかに生きてる。彼女はここにいる。
東風谷透子が、ちゃんと今を生きているんだって感じられるんだ。
「ありがとう、比良坂さん」
☆ ☆ ☆
次の日の放課後。
その日は先輩との”謎解き活動”の予定だったんだけど、文化祭実行委員で少し遅れるみたいだった。
最近先輩の顔を見てない気がする。
「『今一番逢いたい相手』かぁ……」
そわそわと図書準備室の中を歩き回る。
そのうち、ガラリと扉が開いて、ぼくはつい満面の笑みで駆け寄ってしまう。
「せんぱ――っ」
「こんにちは、比良坂さん」
「っ……こ、東風谷会長!?」
「あらあら、わたくしでは不満でしたか?」
会長はくすくすと笑った。
「いえ、そんなことは。どうぞ入ってください。お茶くらいは淹れますから」
「では、お言葉に甘えて」
紅茶をテーブルに置く。
お金持ちの肥えた舌に、ぼくみたいな一般人の淹れた紅茶って大丈夫なんだろうか? と疑問に思ったけど彼女は普通に飲んでくれたからほっと一安心だった。
「それで会長、今日はどういったご要件で」
「改めてお礼を言いに来たの、昨夜の『割れた鏡』の件。あなたには助けられましたから」
「べつに、ぼくはなにも……」
「だってあなただったのでしょう? お祖父様の通夜の日、わたくしを励ましてくれたのは」
「……っどうしてそれを!?」
「その反応、やはり図星だったようね。嘘が下手ね。そういうところ、嫌いではないけれど」
紅茶を一口飲み、東風谷会長は続けた。
「どういう理屈かは皆目検討もつきませんけれど、あの『割れた鏡』を通して現在の比良坂さんが過去のわたくしに干渉した。そう考えるしかありませんわ」
「で、でも。そんなワケ……それじゃあの鏡はまるで『タイムマシン』ってコトになるじゃないですか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわね」
会長はさらりとそう言った。まるで先輩みたいな調子だった。
「その様子だと、比良坂さん自身も過去のわたくしに干渉した自覚があるようね。では確認するけれど、わたくし以外の過去の人間には干渉できた?」
「い、いえ。通夜の日に会長と話した以外は、記憶をビデオ再生しているみたいな感じで……ぼくの存在が全く無視されてる感じがしました」
「やはりそういうコトなのね。昨晩起こった現象は、あくまで『割れた鏡』にわたくしの心の”疵痕”が投影されただけ。効果範囲は、現在から遡って”疵痕”ができた過去の決定的瞬間までということよ」
ぼくは思い出す。そういえばぼくが見た会長の記憶は、両親の死、そしてお祖父さんの死だった。
確かに彼女の疵痕に関わる過去だけに関わっていたんだ。
「今回の出来事はあくまで、呪文を唱えて鏡の効果対象となったわたくしの記憶……もっと正確に言えば鏡のひび割れに投影された”疵痕”の中だけで繰り広げられていたということ。全てはわたくしの心の中で生じ、世界の時間概念そのものを捻じ曲げるような大きなことではなかったのよ」
「ぼく自身が過去に戻ったんじゃなくて、過去の会長が『割れた鏡』を通して未来の――つまり現在のぼくを認識していた。一種の未来予知。すべては会長の心の中だけで起こった出来事というのはわかりますけど……だったらどうして無関係のぼくが会長の過去に干渉できたんでしょうか?」
「同時に呪文を唱えていたからでしょうね。巻き込まれたのよ、きっと」
「あたまがこんがらがってきました……そもそも、会長は鏡の前で呪文を唱える前から言ってましたよね、お祖父さんのお通夜の日に、自分を励ましてくれた学生と出逢ったって。それは最初から、ぼくのコトだったんでしょうか。だったら昨晩のぼくが会長の過去に干渉することは、最初から決まってたって話になると思うんですけど……それってなんか、ぼくの理解の範疇を超えるというか……仕組まれた運命みたいなモノが働いているようにしか思えないんです」
「タイムパラドックス。それこそが”大いなる謎”ね。あの日あなたがわたくしに言った通り」
「だけど――」会長は言った。
「これだけは断言できるわ。たとえ最初から全部決まっていたことだったとしても、仕組まれた運命だったとしても、あなたはわたくしを助けてくれた。それはあなた自身の意思で行ったことでしょう?」
「……そう、だと思います」
「だったら誇りに思うべきよ。もしも言葉では足りないというのなら――」
会長はこう結論づけた。
「”報酬”を支払いますわよ。わたくしを救ってくださったのだから、遠慮せず何でもいってください。わたくしにできることならば、なんでも叶えてさしあげますわ」
「え……?」
「”報酬”と言ったのよ。あなた方の”謎解き活動”には”報酬”が必要なのでしょう?」
「そ、そうですけど……それは先輩が勝手に言ってることであって」
そこまで言って、やめた。
会長は真剣だった。ぼくへの感謝の気持ちを、言葉だけで言い表せないと本気で思ったからこそ、ぼくに対して何でも支払うという覚悟を決めたのだ。
そんな人の覚悟を無下にするのは失礼だと思った。
受け取らなきゃならない。報酬を。幸い、彼女はお金持ちだし、ぼくみたいな一般人が考えるようなスケールの報酬はなんでも現実的に支払う能力を持っているのだろう。
だけど、だからこそ……ぼくは。
「か、会長って……!」
「はい、なんでも言って? あなたのためならわたくし、なんだって――」
「胸――おっきいですよね」
「……はい?」
ぼくの突拍子もない発言に、彼女は目を丸くする。
他でもないぼく自身が驚いていた。
セクハラじゃん! 直球で! だけどもう引っ込みがつかない。
「あの夜、会長を抱き起こして車椅子に座らせた時に気づいちゃったんですよ……めちゃくちゃ柔らかい感触がすることに。会長、着痩せしてるだけでけっこうなモノをお持ちですよね……?」
「え、あ……な、何をいきなり仰っていますの!? それが報酬と何の関係があるの!?」
「おおアリですよ! ぼくは高1にもなって全然大きくならないのに会長は二年生にしてそのボリューム感! これこそ”大いなる謎”です! うらやまけしからん! だから会長――その謎、
「え、そんなイキナリ……わたくし、嫁入りするまでは綺麗なカラダでいるって固く決めて……」
「ちょっとだけ! ホント、ちょっと触らせてくれたらいいですから! 先っちょだけ! 先っちょだけでいいですから!」
「先っちょはむしろセンシティブですわー!!」
ぼくは両手をわしわし動かして彼女ににじりよっていく。
会長は顔を真赤にして目を泳がせ、必死で両手で胸を守った。
そんな恥じらう姿が無性にかわいくて、最初は口をついて出たでまかせみたいな話だったのに、だんだん本気になってしまうぼくがいる。
鼻息を荒くして、手を彼女の胸に近づけてゆく……。
「ほんと、ちょっとだけでいいんですから……会長の『デカメロン』の秘密をまさぐらせてくれたら、それで満足すると思うので……」
「わたくしの胸をイタリア文学の傑作にたとえないでくださいまし……! うぅ……本当に、ちょっとだけですからね……あなただけですわよ、わたくしが嫁入り前の身体をゆるすのは……」
顔真っ赤で涙目になり、ついに観念した会長。
ガードが解けて、たわわがぼくの目の前に飛び出す。
もうすぐだ、もうすぐその山脈を登山できるんだ! ある登山家は、山を登る理由を問われてこう答えたという。
「そこに山があるからだ」と。
何を言っているのかわからないけど、つまりはそういうコトなんだ!
ぼくの手がついにたわわに触れ――。
ガラリと図書準備室の扉が開いた。
「悪い、文化祭実行委員が長引いて遅れ――んん゛!?」
ぼくと会長が扉の方を向くと、そこに立っていたのは先輩だった。
顔が青ざめて、冷や汗をかいている。
「わ……悪かった。ノックもせずに……お取り込み中失礼した。まあ、なんだ。最近はそういうのも理解されてきているから。少なくとも、俺は気にしないから……ごゆっくり」
そして先輩はそっと扉を閉じた。
「ちょ、先輩!? 違います、これは! なんか、なりゆきで! 勢いでこんな感じになっちゃっただけで、ぼくにそういう趣味があるわけでは――!」
「あら、違うの? あんなに情熱的にわたくしの身体を求めてきたのに……」
「ちょ、会長!? 何言ってんですかぁー!」
「……ふふっ、イジワルなあなたへの罰です」
会長はそういって微笑んだ。
「……ですね」ぼくも顔を見合わせ、笑った。
そうだ。そうだったんだ。
なんでいきなり胸を触らせて、なんて言い出したんだろう。自分の気持ちすらわからなかった。でも、今になってやっとわかる。
「ぼくに引け目を感じたり、へりくだったりするのは会長らしくないって思ったんです。今まで通り、もっとぼくに無茶振りしたり、振り回したり、イジワル言ったり偉そうだったり上から目線だったり……それがいつもの東風谷会長じゃないですか。だからあんな風にしおらしい会長はなんか、違うなって」
「そんなコトを伝えたくて、わたくしにど直球のセクハラをかましたんですの? まったく、おハーブも生えませんわ」
会長はプンスカと頬を膨らませながら、車椅子をこいで準備室を出ていこうとする。
だけど出ていく直前に止まって、
「そうそう、言い忘れていましたわ」
「?」
「事後処理の話です。『割れた鏡』は危険だから学生議会の倉庫に移しました。あの手洗場には新品の鏡を取り付け済みですわ」
「さすが会長、仕事が早い……」
「それと、この事件……単なる学生の噂ではないと思いますわ」
「どういうことですか?」
「だってそうでしょう? 深夜に北校舎三階女子トイレの鏡で呪文を唱える。単なる噂ならば良いとしても、実際に効力のある”呪術”だった。噂の出どころを探ってみましたが、どうにも証言が正確ではなく、誰もが妙に存在感のない女子学生から聞いたというのです」
「それって――」
その話には既視感があった。
夏休み中に遭遇した、『足を引っ張る』事件の時だ。あの時も、顔の印象が薄い女子学生が本物の呪術の手順を噂として学園に流していたんだ。
その犯人に会長がつけた名が――。
「本物の呪術師――”
「……っ」
制服を着ているということは、やっぱりこの学園内部に”本物の呪術師”が存在する。そういうコトなのだろうか?
ごくり、つばを飲み込む。
学園の中ですら謎や危険に遭遇する可能性が出てきた。これからの学園生活は、いっそう油断ならないモノになるかもしれない。
覚悟を……決めないと。
そんなぼくの様子をニッコリと見つめる東風谷会長は、最後にぼくにこう言った。
「それにしても、いいのかしら。あの男をこのまま野放しにして。いまごろわたくしたちの関係に、多大なる誤解を抱いていていると思うのだけれど?」
「あ――先輩のこと忘れてた! 待ってください先輩、さっきのは違うんです! 誤解なんですよぉー!!」
こうしてぼくは先輩を追いかけて図書準備室を飛び出したのだった。
後に先輩の誤解を解くまで、小一時間はかかったという……。
ΦOLKLORE: 16 ”疵痕 Sign” END.
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