16,3 疵痕 Sign・叙


 バラバラと雨がアスファルトを叩く音が聴こえる。

 暗闇の中に一筋の光が生まれて、視界が開けてきた。

 ぼくの目に、一人の少女が映る。

 その幼い女の子は背中から血を流してうつ伏せに倒れていた。

 すぐ側には、潰れて炎上する自動車が横たわっている。中にはまだ取り残された人影がかろうじて2つほど見えていた。

 凄惨せいさんな事故があったようだった。

 偶然なのか、神の悪戯か。唯一車外へ投げ出されていた少女だけが重症を負いながらも助かり、車内に取り残された人々はすでに手遅れだというのはひと目見て理解できた。


「お……お父様、お母様……」


 少女は力の入らなくなった下半身を無理やり引きずって、腕の力で燃え盛る車に近づいてゆく。

 その様子に気づいた救急隊員が少女を取り押さえ、救急車に乗せようとする。


「やめろお嬢ちゃん! もうご両親は助からない!」

「嫌っ……2人はまだあの中に……熱くて狭くて……自由がない、あんな場所に残してはいけないわ……!」

「死ぬ気か!? ご両親はきっとお嬢ちゃんだけでも生き残れるように最期の力を振り絞って外に出してくれたんだぞ! あの中に戻れば、キミはご両親の気持ちまで無駄にすることになるんだぞ! わかっているのか!?」

「っ……うぅ……そんな……うううぅ……」


 泣きじゃくる少女を乗せて救急車が去ってゆく。

 無慈悲に闇の中に包まれてゆく。

 一度視界が暗転し、再び明るくなった。

 ピンク色のリハビリ用ベッドや平行棒が並ぶ広い部屋に出た。

 どうやらどこかの病院のリハビリ室のようだった。

 さっきの少女は車椅子に座っており、平行棒に捕まると腕の力で立ち上がる。

 そのまま歩き出そうとするけど、脚には力が入っていなかった。

 手で支えているから転倒こそしないものの、「歩いている」とは言い難かった。


「どうだね、透子とうこの様子は」

「お嬢様は良くやっていますよ。あの事故から半年……涙も見せず気丈に振る舞っていらっしゃいます。リハビリも一日も休まずこうして続けていますよ」


 平行棒での訓練を遠くで見守っている老人の質問に、”理学療法士”と書かれた名札をつけた男性が答えた。


「しかし彼女の両下肢の障害はやはり重度です。リハビリで車椅子生活は概ねこなせるようになったものの……再び歩けるようになる可能性は……」

「やはりそうか。君にはいつも苦労をかけるな」


 老人はリハビリ中の少女に歩み寄り、声をかける。


「透子、今日はそこまでにしておきなさい」

「お祖父じい様……」

「根を詰めすぎるのも良くない。どうだね、気晴らしに私と少し散歩でもしないか」

「……はい」


 老人と少女、2人がリハビリ室を後にした。

 病院の中庭らしきスペースに出ていく。

 老人が少女の車椅子を押しながら話しかけていた。


「どうだね、リハビリの調子は」

「順調……とは、とても言えませんわ」

「あれから半年。リハビリ入院の期間ももう終わりだ。退院後は私の家で君を迎える準備……今風に言うと”バリアフリー化”は出来ているよ。透子が入院している間に段差を無くして、要所要所に手すりも設置しておいたからね」

「お心遣いに感謝します」

「堅苦しいな。当然のことだろう、君は私の孫で、私は君の祖父なのだから」

「ですが……役たたずのわたくしが家に戻ったとしてもこれでは」


 少女は自身の両脚を睨みつけて吐き捨てる。


「お祖父様が築き上げた東風谷こちやの家名にきずをつけるだけですわ」

「役たたず、か」


 老人は息を吐き、


「どうしてそう思うのだね?」

「だってそうじゃありませんか。今もそう、”散歩”とは言ってもわたくしは歩いてすらいない。お祖父様に押してもらっているだけよ。病院では看護師さんや助手さんに助けてもらわなければ生活できない。お祖父様の家でも同じこと、使用人に助けてもらわなければ何も出来ない生活が続くだけ」

「……透子」

「全部、無意味だった……。毎日リハビリすれば、諦めずに頑張ればもとに戻れるって思ってた! この小さな箱庭で半年も! でも出来なかった! これがわたくしの限界! わたくしの価値! 努力したって何もできないのがわたくしなのです! 無意味なんです! 無価値なんです! この半年も、わたくしも……お父様とお母様がせっかく遺してくれたものは……全部、無意味だったんです……。毎日、夜になると思うんです。なぜわたくしだったのだろうって。お父様かお母様が生きていれば……今頃もっと良い結果になったんじゃないかって。どうしてわたくしだけが生き残ったのだろうって……」


 少女はうつむいて涙を流した。

 きっとそれは、両親を失ってから今までで、初めて彼女が見せた涙なのだろう。

 今まで必死で努力して、前に進もうともがき続けた彼女の心が限界に近づいていたのだろう。


「……無意味、か。それもいい。大いに結構なことだ」


 そんな彼女の諦めを、老人は否定しなかった。

 ただ優しく、孫の肩に手を触れて語りかける。


「若者の世界は狭い。透子、君にとってはこの病院での半年間が世界の全てのように思えただろう。そこで努力し、成果を得られなければ自分の人生全てが失敗だったと思えるのは仕方がないことだ。しかし……重要なのは君がこの半年間を失敗と認める強さを持っているということさ」

「え……?」


 思わぬ言葉に少女は老人の顔を見上げる。

 老人は優しくも厳しくも見える、真剣な眼差しで少女を見つめていた。


「透子、覚えておきなさい。本来、人が生まれて死ぬことに意味などない。生命は尊いと口ではいくらでも言えるが、実際は現実の残酷さに簡単に飲み込まれるものだ。それでも人の心は無意味な死に耐えられず、大切な人の死に意味を見出そうとしてしまう」

「お父様とお母様の死は、無意味だったというの……?」

「そうだ。現実に起こること全てに意味などない。あるのは解釈だけだ。透子、しかし今……君は生きている。生きて何かを変えることができる。2人の死にどういう意味を持たせるのかは、君自身の心と行動が決めるしかないのだ。ならば立ち止まって過去を振り返るのではなく、君自身が今、どう生きていくか……それが一番大切なんじゃないのかい?」

「そんな……そんなこと言われても……わたくしには、何もできない……もう前に進めない……歩くこともできない……」

「進めるさ」


 老人はキッパリと断言した。


「今も進んでいる。透子の車椅子を私が押すことでな。そもそも君はすでに、車椅子を一人で操作することだってできるだろう? 手も腕も動くのだからな」

「そうだけれど……それだけじゃあ、他人の手を借りなければ生きていけない現実は変わらないじゃありませんの」

「そうさ。それの何が悪い。人は多かれ少なかれ、一人では生きられないモノだ。私は60年以上生きているが、いまだにワイシャツにアイロン一つかけられない。使用人にやってもらわなければパリッとしたシャツを着て偉そうに理事長の顔を演じることもできんのだ。誰も一人では生きていけない――透子はそれを知るのが、他人より少し早かった。それだけのことだ」

「……っ」

「君はこの病院での半年間を無意味と言った。しかし、失敗を認め、自分にはできないこともあるのだという自己認識を持つことは案外難しい。それができるようになっただけでも、透子は成長したと言えるだろう?」

「……」

「何かに情熱を注ぎ、後から考えれば無駄だったと後悔することもあるだろう。若さゆえの軽率によって、過ちを犯してしまうこともあるだろう。世界の広さを知ってしまえば、この狭い箱庭の中の出来事は無意味に帰してしまうかもしれない。それでも私は、結果の伴わない、一見無意味に思えることにこそ大切な”経験”があると思っている。私が教育機関を創設したのも、そういう理由なのだ。私の学園に来てくれたどんな若者にだって、それを実感して欲しいから」

「実感って……何を?」

「『今が最高』だと。『君はここにいていいんだ』と。だから大いに楽しもうではないか。この無意味な人生を。透子、君には格別に期待しているよ。おじいちゃんのお墨付きだ」

「……ふふっ」


 少女は少しだけ微笑んで、


「ホント、お祖父様って口が上手いのね」

「そこは教育者の鑑――と言って欲しいな」


 2人は向かい合い、笑ったのだった。



   ☆   ☆   ☆



 そして再び暗転し、場面が切り替わった。

 黒服の人々がひしめいてる。

 喪服だ。

 誰かの通夜のようだった。


「ご両親に続いて祖父まで……」

「あの年齢としで東風谷家最後の生き残りか……」

「でもかなりの遺産があるって噂ですよ……」

「馬鹿、こんな時になんで金の話なんだよ……」

「だけどねぇ、この年齢で大金持ちとなったら……」


 人々の噂話がチラホラと聞こえる。

 会場の前の方に目を凝らすと、そこには先程まで見ていた老人――”透子”という少女の祖父の写真が飾られていた。

 彼が亡くなったようだった。

 ぼくは通夜の会場に制服姿でぽつんと立っていた。

 さっきまでと同じように、誰にも認識されていないみたいだ。当然か、たぶんこれは東風谷会長の過去の記憶なんだ。

 ビデオ映像を再生するみたいに、ぼくが記憶の追体験をしているみたいだった。

 だけどこの記憶の中にはあの少女が……東風谷会長自身がいない。

 ぼくは会場の中を動き回って彼女を探した。

 やっぱり広い会場にはいない。となると――親族用の控え室の扉を開けて、中に入った。誰もぼくを認識できていないのだから、遠慮はいらないだろう。

 思った通り、控え室にはたった一人の親族が。

 さっきの記憶よりかなり成長した少女――中学生時代の東風谷透子こちやとうこがそこにいた。


「……誰?」

「え……っ!?」


 気づかれた!? 今までは誰にも認識されてなかったのに!?

 これは単なる記憶の再生じゃないの!?

 動揺しながらも答える。


「ぼく……じゃなくて、私は学園の学生です。あ、あなたのお祖父さん……つまり、理事長先生にお世話になったので……ここに。お別れを告げに」

「……そう。お心遣いに感謝いたしますわ」


 彼女は丁寧にペコリと頭を下げた。

 なんとかごまかせたみたいだった。

 

「それで、わたくしに何か御用でしょうか?」

「用っていうか……会場にいなかったから。探しに来たっていうか……」

「わたくしのことを知りもしないのに? それは……お節介なことね」

「うっ……」


 確かに。この時点でのぼくと会長は面識がない。

 ぼくは親族用控え室に勝手に侵入した不審者でしかないだろう。


「わたくしを見つけたのなら、もう目的は達成したのでしょう? ならばさっさと出ていってくださいます?」

「い、いや……ぼくは、じゃなくて私は……心配で」

「心配など必要ありません。別に、悲しくなんてありませんから」

「悲しくなんて、ない……?」

「そう、お祖父様が教えてくれたのよ。人の死に意味なんてないと。無意味な死に耐えられないから、人の心は大切な人の死に意味を見出そうとしてしまうと。だったら、全てを無価値だと悟れば、悲しみもなくなる」

「……っ!」


 そうだ。

 彼女の目には涙は浮かんでいなかった。

 それだけじゃない。光も失っていた。どんよりと沈んだ、生気のない瞳。

 全てを諦めているのがわかった。

 彼女はまた、無理して表面だけでも気丈に振る舞っているんだ。残された者としての責務を精一杯果たすために。

 ご両親が亡くなった時と同じだ。お祖父さんと過ごした日々が失われて、また振り出しに戻ろうとしているんだ。

 だけどそんなの違う。

 違うんだ。彼女にお祖父さんが伝えたかったのは、そんなことじゃないんだ!

 ぼくはゆっくりと口を開く。


「ある心理学者は言いました。『人は悲しいから泣くんだ』って」

「……急に何を……?」

「そして別の心理学者は言いました。『悲しいから泣くんじゃない。泣くから悲しいんだ』って」

「なによ、それ。真逆じゃない」

「今のあなたは悲しくないんじゃなくて、泣くのを我慢することで悲しみを消そうとしているだけです。でもそれじゃ、悲しみそのものは消えない……一生残る”疵痕きずあと”になってしまう」


 そうなんだ。

 彼女は同じなんだ。かつてのぼくと。


「さっきの心理学者の話はぼく……私にお父さんが教えてくれた言葉です。大好きなお父さんを失った時、ぼくは泣かなかった。だけどそれは悲しみを克服できたからじゃなくて……悲しみを感じないように、無理やり心を麻痺させていただけ……そんなことをしてもずっと疵痕は残って、ズキズキ痛んで……いつか、腐り落ちてしまう」

「だったら……だったらどうすればいいのよ! 綺麗事ばかり言って! わたくしが何をしたところで、この現実は変わらない! 役たたずのわたくしだけが遺されて、それでどうしろって言うのよ――!!」


 ぼくは。

 彼女に近づくと、思いっきりその身体を抱きしめた。


「悲しみましょう。思いっきり泣いて、一緒に悲しめばいいんです」

「ぁ……」

「そして、大好きだった人への思いを思いっきり叫べばいいんです。大好きだよって、素直に叫んだらいいんです。悲しくて、泣いて、情けなくて……そんな顔を見せたっていいんですよ。無理して強くなろうなんてしなくていいんです。あなたは……本当は、誰よりも強い人だから」

「うっ……うぅ……」


 胸の中で、彼女の嗚咽が漏れる。


「う、ううぅ……わ、わたくしは……わたくしはただ……一緒に連れて行って欲しかった。一人にしないで欲しかったの……! お父様も、お母様も……お祖父様まで! わたくしを置いて逝ってしまった!」

「うん。うん」

「こんなことなら生きていたくなんてなかった! 大切な人のいない世界なんて無意味なのに……それでもみんなわたくしに生き続けろと言うのよ……そんな、そんな残酷なことってないわよ!」

「そうですよね。無責任ですよね。わかってます。みんなも、ぼくもただ無責任で……『生きろ』なんて気軽に言っちゃって」

「嫌い! みんな嫌い! 嫌いよ! 嫌いな人ばっかり! 遺産だって! あんなものがあるから、わたくしは奇異と羨望と好奇の目にさらされる! あんなモノいらない! お父様はもっと安全運転すべきだったし、お母様はわたくしを逃している暇があったら自分が生きることを選択すべきだった! お祖父様は持病があるならもっと健康に気を使って生活すべきだった! みんな無責任よ! 嫌い! 嫌い嫌い嫌い嫌いきらい!!」


 年相応の子どもみたいに喚き散らす大人びた少女をもっとぎゅっと強く抱きしめる。


「そう。全部そう。先に逝ってしまう人も無責任ですよね。なのに軽率に『生きろ』なんて励ましてくれちゃって……本当に、無責任。ねぇ、あなたはそんな家族のことを……お祖父さんのことを、嫌いになっちゃったんですか? 本当はあなたは、お祖父さんのことをどう思っているんですか?」

「そんなのっ――」


 彼女はぼくのホールドから逃れて、ぼくの目を見つめて断言した。


「あなたなんかに言われるまでもなく決まっていますわよ! わたくしはお祖父様のこと――大好きですから!」

「……やっと、言えたね」

「え……?」


 困惑する彼女にぼくは微笑みかける。


「行きましょう。こんな狭い部屋の中じゃなくて、ちゃんと大好きなお祖父さんにお別れを告げに」


 そして、手を差し伸べた。


「この世界に、あなたの居場所はちゃんとあるから。大いに楽しみましょう、無意味な青春を」

「それは……お祖父様の……」

「ぼく……私、あーもうどっちでもいいや。ぼくにとっては、これは東風谷透子さん。あなたの言葉なんですよ? もうちゃんと、あなたの言葉になってるんです」

「わたくしの……? どういう意味?」

「これは”大いなる謎”ですね。でもいつかわかるはず。あなたなら絶対にこの謎が解ける。このぼくが保証します」

「保証されちゃっても……わたくしとあなたは、今が初対面のハズなのだけれど?」

「ふふっ、そうですね。さあ、行きましょう」

「……はい!」


 こうして彼女、東風谷透子は。

 ぼくが差し出した手を取った。

 闇に閉ざされた世界に――光が拡がってゆく。

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