10,2 足を引っ張る Shackles・鋪


「落ち着いたか?」

「は、はい。すみません……」

「出血はキーゼルバッハ部位からのものだ。大したことはない」

「き、キルア=ゾルディック?」

「ああ……クセになってんだ。音殺して動くの――じゃねえよ。最近『ハンター×ハンター』を読んだからってネタのぶっこみ方が雑すぎるだろ。キーゼルバッハ部位ってのは、鼻腔内部の毛細血管が集中している部分のことだ。鼻出血の患部としては最も一般的だ。鼻をつまんでおとなしくしていれば止まるだろう」

「ふぁいぃ……」


 鼻血はいったん止まった。とはいえしばらく手は離せないだろう。

 これで夜のプールでひと泳ぎとはいかなくなった。

 プールに隠された怪異の検証は後日ということになりそうだ。

 プールサイドに座りながらも、そろそろお開きかな、なんて。そんな雰囲気になりかけたその時だった。

 ばん、とプールの入り口から誰かが入ってきた。


「あ、あなたは……!」


 女子水泳部の競泳水着に身を包んだ女子学生だ。

 無駄なく引き締まった圧倒的スタイルと凛々しい顔つきは、学園で知らない者はいないだろう。彼女こそが今回の依頼者にして水泳部の二年生エース――。


「――水島さん!?」


 なんで彼女がこんな場所に!?

 疑問に思うぼくと彼女の目が合う。


「先客か。いや、私の出した依頼のメールを見て来てくれたのだな。ありがたい」

「は、はいぃ!」


 ぼくは立ち上がってピン、と背筋を伸ばした。

 思わず鼻から手を離してしまい、鼻血が再び垂れそうになる。かっこ悪いけどまた鼻をつまんだ。

 先輩は怪訝そうな顔で、


「なに緊張してんだよ」

「なにって、知らないんですか!? 水島さんですよ! 去年のインハイで一年生にして好成績をおさめ、複数のメダルを獲得した”水中みず巴御前ともえごぜん”ですよ! 『美人すぎる水泳選手』として雑誌にも引っ張りだこなんですから!」

「ふーん。そんなにすげェのか。アニメ雑誌しか読まないから知らないな」


 あくまで先輩は無関心だった。

 し、失礼な……男女問わず魅了する完璧美女に向かって。この陰キャめ。

 怨念のこもった目線を先輩に向けるぼくに、水島さんは言った。


「それで、急かすわけではないのだが……なにか謎は解けたか?」

「い、いえ。それがまだ何も……」

「いや、いいんだ。無理なお願いは承知の上。しかしちょうどいい、君たちがいてくれたら私も安心だ」

「え……?」


 水島さんはゆっくりとプールに入水して言った。


「このところ練習不足でな。例の”プールの悪霊”の噂で皆、浮足立っている。集中して泳げる環境が欲しかったんだ」

「だ、だからわざわざ夜中に練習しにきたんですか……?」

「今夜はキミたちが見ていてくれるから仮に何かに襲われても安心だろう。期待しているぞ、比良坂くん」


 水島さんは武人のように凛々しい眼差しでぼくを見つめた。

 女子相手だというのに、頬が熱くなるのを感じる。

 彼女が一度水を蹴ると、ぼくの視線からすぐ外に出てしまった。

 疾い――! 目で追うのがやっとだ。


「なるほど、泳ぎのフォームに全くブレがない。基礎体力と泳ぎの効率を極限まで高めた泳法だ。かなりの反復練習を要しただろう」


 先輩が冷静に分析していた。

 そんな小難しいことはわからないけど、ぼくは――。


「水島さん、すごく……キレイです。まるで重力から解き放たれたみたい」


 素直にそう思った。

 速さだけじゃないんだ。一切の無駄を省いたという彼女のフォームはもはや芸術の域に達していると思った。

 スポーツの専門的な知識はないけど、それでも彼女が”特別”なのはひと目でわかった。

 しばらくぼくと先輩は彼女の練習を見守っていた。

 ひとしきり泳ぎきった頃合いで、彼女はいったんプールサイドに上がって休憩をとった。


「はぁ、はぁ……」

「水島さん、お疲れさまです。なんていうか、本当にスゴかったです!」

「ふっ、ありがとう。だけどまだまだ足りないさ。もうひと泳ぎだ」


 彼女は数分程度休憩をとっただけでまたプールに入った。

 さすがにスパンが短すぎない? と思ったけど、水島さんがそう言うなら大丈夫なのだろうか。そう思っていたぼくの代わりに先輩がピシャリと忠告した。


「やめておけ。あんたは昼間も練習していたはずだぞ。オーバーワークになる」

「ご忠告感謝するよ。しかし私には練習が足りない」

「何故だ? 聞いたところ去年の時点でインハイで通用する実力があったんだろ。練習なんてとっくに足りてるはずだ」

「去年の私は完璧じゃなかったし、そもそもその時はまだ何も背負っていなかった。今年は……いろいろと背負うものが多くてね」

「どういうことだ……?」


 先輩の疑問には答えず、水島さんは泳ぎ始めた。

 やっぱり速いし、美しい。だけどどこかの時点でフォームがブレ始めて――。


「――水島さんっ!?」

「あいつ、溺れてるぞ!」


 突然のことだった。

 水島さんが一気に水中に引き込まれたかと思うと必死でもがき始めたのだ。

 バシャバシャと水面から水しぶきがあがる。

 ぼくと先輩は迷わずプールに飛び込んだ。

 二人で水島さんを抱えると、力ずくでプールサイドに引き上げた。


「はぁ、はぁ……み、水島さん! 水島さん大丈夫ですか!」


 ぐったりと倒れ伏す水島さん。

 目を閉じて反応がなし。まさか――と慌てるぼくを尻目に先輩は冷静に呼吸を確認していた。


「胸郭が動いているし、脈もある。生命に別状はないようだ」

「で、でもいったい何が起こって……!」

「うっ……」


 先輩の言う通り、水島さんはすぐに目を覚ました。


「水島さん! 何が、何があったんですか!?」

「うっ、くっ……わ、私は……いきなり脚を引っ張られて……そうだ、脚……!!」


 水島さんは突如右脚をかかえて苦しみ始めた。


「脚がっ、何かに掴まれて……!」

「見せてみろ」


 自身の右脚をかばっていた彼女自身の手を、先輩は無理やり引き剥がした。

 そこには――。


「手形……!?」

「赤く痕がついている。強く掴まれてうっ血した状態だ」


 先輩の言う通り、彼女のふくらはぎには赤い手の痕が残されていた。

 背筋が凍った。

 さっきまでぼくらが呑気に泳いでいた水底にはやっぱり、恐ろしい”何か”が潜んでいたとしか思えない。そいつが水島さんを襲ったんだ……!

 ぼくと水島さんは顔を見合わせて青ざめていた。

 だけどこの場で先輩だけが冷静だった。

 彼はこう呟いた。


「なるほど、そういうことだったのか」


 と。「そういうこと」って、どういうこと?

 そう先輩に質問しようと思った瞬間、感じたんだ。


「っ――!?」


 気配だった。視線というか、音というか。プールの外から。

 周囲を覆う柵の外は草むらになっている。そこからガサガサと何かが移動する音が耳に飛び込んできたのだった。

 そして視界の端には、うごめく人影のようなモノを捉えていた。


「何か……います!」


 ぼくは立ち上がって駆け出した。

 さっきまでプールに潜んでいた”何か”が逃げ出そうとしているのだろうか。

 人ならざる怪異か、あるいはかなり無理があるけど酸素ボンベか何かを使って水中に潜んでいた人間の犯行か――。どちらかはわからないけど。

 どっちにせよ、今ここで正体を確かめてやる!


「やめろ、深追いするな! もう依頼は解決した・・・・・・・んだ!」


 背中から先輩の制止する声が聞こえたけど、内容は良く聞き取れなかった。

 だけど立ち止まって聞き返している暇はない。今まさに”何か”の音は遠ざかっているんだ。

 ぼくはサンダルを履いてスク水のままプールサイドから駆け出した。

 外の草むらまで回り込む。


「はぁ、はぁ……いったいどこに……」


 くそっ、見失った!

 確かに”何か”の気配と音を感じた場所まで来たけど、すでに人影のようなものはいなくなっていた。

 だけどその草むらには、意外なモノが残されていた。


「これは……あみぐるみ?」


 毛糸で編まれたぬいぐるみだった。

 たぶんこれは、女の子だろうか。かなりデフォルメされているから誰をモチーフにしているのかは明確には特定できなさそうだ。

 けれど、競泳水着に凛とした表情。気のせいかもしれないけどこれは……水島さんを模しているようにも見えた。

 そして何よりあみぐるみの右脚には……。


「針が……刺さってる」


 そう。競泳水着の女子を模したあみぐるみ。右脚に刺さった針。

 右脚。ついさっき、水島さんが不可解な負傷をした箇所と一致している。

 これが意味するものは――。


「ここにいたのは人間。水島さんに恨みがある誰かが、彼女に見立てたあみぐるみを使って”呪い”をかけた……」


 そう推測するには十分すぎる材料が揃っていた。

 最初は「人ならざる何か」が、例えば溺死した学生の悪霊が引き起こしたんじゃないかと思われていたこの「プールの底の怪異」。

 思えば最初から、被害にあっていたのは水島さんただ一人だったんだ。

 もしかしたらこの事件の犯人は「呪術を使う人間」なのかもしれない。いや、むしろ今ではその可能性が一番高い。

 だとしたら。


「一体誰が……どうして水島さんを?」


 学園でも男女問わず人気のある水島さんを呪う人間とは誰か。

 今夜ぼくらは、新たに、そしてさらに深い”謎”に直面したのだった。

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