ノワール・クロシェットのとある一日

 ノワール・クロシェットの朝は早い。


 起床は五時。

 一応目覚ましはかけているものの、時間になれば自然と目が覚める。


 起きてまず行うのは銃の解体、組み立てと簡単な整備だ。

 今の身体ノワールに馴染むにつれて自然と習慣づいたことで、やらないと落ち着かない。

 裏社会の女王という立場を捨ててメイドになったのに昔の自分を捨てきれないオリジナル、そして彼女から影響を受けている自分。

 実にややこしい話だ、と自分でも思う。


「……腕は鈍っていませんね」


 オリジナルは裏社会の追っ手から主人や友人を守るために。

 今のノワールは仲間達と共にアルバイトとして化け物退治をするために。

 かつて培った戦闘技術は奇しくも役に立っている。


 日課を済ませた後はシャワーを浴びて身を清める。

 ノワールにとってメイド服とは趣味であり勝負服であり戦闘服だ。神聖な衣装に身を包むのに身体が汚れていてはいけない。


(神聖、なんて言ったらアリスさまに怒られるでしょうか)


 シェアハウスの最新メンバーのことを思ってくすりと笑う。

 最近までお祈りさえしていなかったという彼女だが、そのくせ持ち前の真面目さや礼儀正しさはどこか聖職者のそれを思わせる。

 今のところは大丈夫だろうが、そのうちに神様関係にはうるさくなって、苦言くらいは呈されるかもしれない。

 まあ、そうなったらそうなったで可愛らしいに違いないのだが。


 しっかりと身を清めたら清潔な下着を身に着け、メイド服を纏う。

 アリスは前に「下着は白か黒じゃないといけないんでしょうか」などと気にしていたが、ノワールも白または黒の下着を選ぶことが多い。原作のノワールが黒を好んでいた(漫画で描かれた時には黒のレースブラとショーツだった)というのもあるが、メイドとしてシックな色の方が望ましいと思っているのもある。

 実際のところは聖職者にせよメイドにせよ、神様やご主人様の好みによって服装規定は変わってくるはずなので、あまり意味のない話ではあるのだが。


「おはようございます、ノワールさん」

「おはようございます、アリスさま。今日も早いのですね」

「はい。お祈りをしないといけませんから」


 身嗜みを整えたあたりで件の少女──アリシア・ブライトネスが起床してシャワールームに顔を出してくる。

 朝晩五分ずつのお祈りを日課に加えて以来、身を清めないとお祈りができないと言って朝、早起きしてシャワーを浴びるようになった。

 律儀だと感心する一方、とっておきの衣装を着る前に身体を洗うという発想にノワールとしては親近感を覚えてしまう。

 きらきらと輝く絹糸のような質感の金髪と、世界を美しく見せるフィルターのような碧の瞳、同世代に比べると少々小柄な身体もまた愛らしい。ノワール自身の髪と瞳は、普段は黒に見える濃い茶色で、その美しさは日本人的なそれに近いために少々羨ましくもある。


 若干眠そうにしながらも服に手をかけるアリスに微笑みかけてから、その場を静かに離れようとして──ノワールはアリスから声をかけられた。


「そうだ、ノワールさん」

「? なんでしょう、アリスさま?」


 朝食のリクエストだろうか。

 前の日が和食だったので今日は洋食のつもりだった。とはいえ、一口に洋食と言っても卵はスクランブルエッグか目玉焼きか、はたまたポーチドエッグか、一緒に添える肉料理はウインナー(ローストorボイル)かハムかベーコンか、とバリエーションが広い。

 アリスは和食なら卵焼き、洋食なら目玉焼きが好みだが、


「教授達と話して、ノワールさんに『バイトを頑張ったご褒美』をあげたいんです。何か欲しいものはありませんか?」

「欲しい物、ですか」


 アリスが言ってきたのは意外な内容だった。

 欲しい物、と言われれば調理道具や珍しい調味料、新しいメイド服など幾つも浮かぶ物があるが、それらは「自分で買うなら」と但し書きがつく。

 人から貰うとなると、


「わたしはみなさんが──」

「私達が元気なら何もいらない、っていうのはなしです」

「あら」


 言いかけたところで止められてしまった。

 じっとこちらを見上げてくるアリスの表情は真剣だ。どうしたものかと考えてしまう。人の世話をするのも好きだし、人にプレゼントをするのも好きなノワールだが、人から貰うのは慣れていない。

 できれば貰わずに済ませたいのだが、問題はアリスも割とそういうタイプだということと、今回は教授達も一枚噛んでいるらしいということだ。


(教授さまたちにはさんざんからかわれましたからね……)


 シュヴァルツに「アリスさまはわたしのもの」と言った件だ。

 アリスは可愛くて素直で、服の好みも合うのでお世話していて楽しいし、料理の件などで頼ってくれるので嬉しい。できればこのままずっとお世話していきたいと思っているので、取られてしまうと困る……という話だったのだが、何故か恋愛絡みの話にされてしまった。

 もしかすると更にからかいをかけてくるのかもしれないが、お詫びを兼ねてという可能性もある。それなら多少迷惑というか手間をかけてもらってもいいかもしれない。


「……少し、考えさせていただいてもいいですか?」

「はい。決まったら教えてくださいね」


 ノワールの返答にアリスはほっとしたように微笑んだ。

 アリスは日に日に笑うことが増えている。もしかすると本人は気づいていないかもしれない。そういう自然な笑顔がノワールを惹きつける。


(ちょっとだけ、朝食に力を入れましょうか)


 軽く歌を口ずさみながら家事をスタート。

 リビングやノワールの部屋、浴室などは一階にあり、アリスや教授達ほかのメンバーの部屋は二階になっているため、多少の物音ならば家人を起こしてしまう心配はない。

 テーブルを拭いて、しっかり手洗いをしてから、キッチンで料理。

 早く作りすぎてしまうと温かいうちに提供できなくなるので、まずは調理時間のかかるものや昼食、夕食の仕込み、それからアリスのお弁当などから作り始める。


 そうしているうちにシャワーを終え、お祈りや着替えを終えたアリスが顔を出す。

 この時間のアリスはスマホで調べものをしたり、本を読んだり、あるいはノワールの仕事ぶりを後ろから眺めたりしている。見つめられるのは照れくさいのだが、勉強のためにそうしているのがわかるので嬉しさもある。なのでなかなか「止めてください」とは言いづらい。


「あ。おはようございます、教授」

「うむ、おはよう」


 残りのメンバーの中で最初に起きてくるのが教授だ。

 スーツに身を包み仕事モードの彼女に、あらかじめ沸かしておいたお湯を使ってお茶を差し出す。適度に熱い状態のそれを教授は一口啜り、上機嫌に笑みを浮かべると新聞を広げて読み始める。なんというか、こういうところの仕草は昭和のお父さんといった感じである。

 やっているのがアリスよりも小柄な教授なので、子供がごっこ遊びをしている感があるが、本人はいたって真面目だ。

 朱華やシルビアはよくネタにして遊んでいるが、アリスはたまにしか言わないので、基本的にこの時間は平和である。


「……はよー」

「おはよー……」


 朱華とシルビアは基本的にギリギリまで起きて来ない。

 どちらが早いかは日によって変わるが、この日はほぼ同時だった。また遅くまで起きていたであろう二人にもお茶を出す。

 皿を用意したりはアリスが率先して手伝ってくれるので、さっと作れる料理を仕上げて朝食がスタートだ。


「いただきます!」


 女子ばかりの食卓は野菜多め、栄養バランスをなるべく考えたメニューを心がけている。

 といっても朱華やシルビアは肉や魚も大好きだし、教授もかなりの健啖家なので、結局のところ個人の好みに合わせる形になる。

 ノワールとアリスの分はスタンダードで、内容がほとんど同じだ。

 バターをたっぷり載せたトーストに好みで卵料理や肉料理、サラダの野菜などを載せて食べると、それだけで至福の味わいになる。フレッシュな野菜の味わいもすっきりしたい朝の食事にはぴったりだ。


「美味しかった、ご馳走様」


 アリスの何割増しかの量を平らげると、朱華とシルビアはぱっと立ち上がって自分達の部屋に戻っていく。

 未だ部屋着のままだった彼女達は登校までに着替えなければならないからだ。


「相変わらず慌ただしいな、あいつらは」

「元気があっていいではありませんか」

「もうちょっと早く起きてもいいと思いますけど……」


 苦笑する教授。くすりと笑って答えるノワール。アリスは眉を顰めつつ、朱華達の分の皿を片付けてくれる。


「さて。それでは吾輩は行くとするか」

「はい。いってらっしゃいませ」

「行ってらっしゃい、教授」


 一番最初に出て行くのは教授だ。何気にシルビア達よりも更に多い量を食べているが、しっかりと食後のお茶まで啜って食休みをしてから悠然と出て行く。


「……教授が大学でどんな感じなのか、ノワールさんは知ってますか?」

「いえ、わたしも直接見たことはありませんので」


 二人で顔を見合わせて首を傾げる。

 入り口で警備員に止められたりしないのか、なかなかの謎である。


「さ、行くわよアリス」

「ぐずぐずしてると置いてくよー、アリスちゃん」

「待ってたのは私なんですけど……」


 朱華達が下りてくるとアリスも登校である。

 お弁当を忘れずに手渡し、「ありがとうございます」と笑顔を貰ってから三人を送り出す。学生組の方はどんな生活を送っているのか割とわかりやすい。学校での話をしてくれる機会も多いので、ノワールとしても安心して送り出せる。

 それでも、


「行ってらっしゃいませ。車には気をつけてくださいね」


 決まり文句として、その言葉はどうしても口にしてしまう。







 平日の日中、ノワールは暇になる。

 掃除をして洗濯をして家庭菜園の世話をして、足りない物があれば買い足しに出かけて、メンバーが通販した荷物を受け取って、繕いものや装備の整備の続きをして、という程度しかすることがないからだ。

 昼食は賞味期限の近づいてきた食品を使って簡単に済ませてしまえばいいし、掃除も毎日していればそんなに汚れているところもない。アリスがいれば料理の話をしたり服の話をしたりできるし、朱華やシルビア、教授がいれば「お腹空いた」とか「アレが無い」とか言ってくれるのでやることが増えるのだが。

 なので、考えるのはアリスに言われた「欲しいもの」についてだった。


「……ですが、欲しいものと言っても」


 ノワールが一番欲しいのは平穏で幸せな生活であって、それはアリス達がいつもくれているものだ。

 シュヴァルツと出会ったことで彼女に会いに行くという用事も増えて、より穏やかに忙しく暮らせるようになったし、これ以上を望むところではない。

 あまり高いものを望むのも悪い気がするし、ああいう品物は「欲しい」と悩んでいる時間が一番楽しいところがあるので、欲しいものを全て手に入れてしまってはあまり意味がない。いや、どうしても欲しいものは気にせず買うのだが。


「うーん……どうしましょう」


 一度受け取ると決めてしまった以上、断るのも悪い気がしてしまう。

 家事をしながら一日かけて悩んだノワールだったが、結局、これといった希望は思いつかなかった。

 いっそのこと「もらえるならなんでも嬉しい」と答えてしまおうかとも思ったが、なんとなく、それは物凄く失礼な回答な気がした。

 美味しそうに夕食を食べるアリスや朱華、シルビア、教授の顔を何気なく見つめながら、できれば早めに答えてあげたいと考えて──。


「あ」


 思わず、小さく声を上げてしまった。


「どうしました、ノワールさん?」

「あ、いえ」


 恥ずかしさからほんのりと頬を染めつつアリスに答える。


「アリスさまに今朝尋ねられた、欲しいものの件なんですが」

「決まったんですか……!?」


 アリスがぱっと表情を輝かせる。

 傍ではシルビアが「へえ、珍しい」と言いかけて朱華に「せっかくノワールさんが決めてくれたんだからそういうこと言ったら駄目でしょ!」と止められていた。

 二人の様子に肩を竦めた教授が「で?」とノワールを見て、


「何が欲しい、ノワールよ」

「はい。別に品物でなくとも構いませんよね。……でしたらわたし、みなさんに『お姉ちゃん』と呼ばれてみたいのですが」

「え」


 駄目だっただろうか。

 アリス達は同じタイミングで同じ声を上げて硬直してしまった。しばらくすると回復したものの、


「あ、あのねノワールさん。そんな遠慮しなくても、あたしたち結構お金持ちなんだから」

「そうだよ。そんなお腹の足しにもならないもの」

「ですが、わたし、シュヴァルツに『お姉様』と呼ばれてみて思ったのです。ああ、こんな幸せもあったのだな、と」


 だから、朱華達が妹だったらどんなに嬉しいかと思ったのだ。


「一回だけで構いませんから、駄目でしょうか……?」

「だ、駄目ではないが……」


 言葉を濁した教授がアリスを手招きし、四人でノワールを除け者にしたまま何やら相談が始まってしまう。


「どうするのよ、めっちゃ恥ずかしいんだけど?」

「ここは言い出しっぺに一番に言ってもらうしかないよー」

「え」

「うむ、そうだな。頼んだぞアリス」

「え、あの」


 なんだかよくわからないが決まったらしい。

 他の三人から生贄だとばかりに押し出されてきたアリスは「あの、その」と真っ赤な顔でノワールを見上げてくる。

 この時ばかりは、ノワールにも教授達がニヤニヤしている理由がわかってしまった。嫌味な笑みにならないように気を付けつつも、口元が綻んでしまうのが抑えられない。

 そして。

 金髪の可愛らしい少女が、上目遣いで恥ずかしそうに言った。


「ノワールお姉ちゃん?」

「っ」


 瞬間、ノワールは完全に正気を失った。

 アリスを両手で、心の赴くままに抱きしめ、一瞬後に我に返った時には少女の羞恥心は限界に達していたらしい。


「も、もう絶対やりませんからね!?」


 半泣きで叫ぶアリス。

 しかし、そのお陰で朱華達もふんぎりがついたのか、死なばもろともと思ったのか、きちんとお願いを叶えてくれた。

 なお、アリスだけはその後も「どうしても」と言ってお願いするとたまに「お姉ちゃん」と呼んでくれた。


 こんな、騒がしくも何気ない日常がノワールは大好きだ。

 望むならこんな日々がいつまでも続きますように、と、あらためて願った。

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